第三章 黒い陰謀と障壁の消失 Enemy _Use_XXX. ⑧

 目尻に涙さえ浮かべながら、まい殿どのほしは叫んでいた。


「だけど膨大な情報を特定部位に流し込んで何度も何度も上書き操作を繰り返す事で、復旧不能にする事はできます。シグナルスライド法。わたくしの頭は、この能力を使うためだけに最適化された。余計な部分を切り落とす形でッ!!」


 だから、使えない。

 両手の人差し指に全神経を集中させる。そのために。

 昨日までできた事が。幼稚園児でもできる当たり前が、彼女にはできない。


「笑っちゃうでしょう?」


 口元はきっと緩んでいた。

 だけどまい殿どのほしは、笑っていなかった。

 世の中にはいる。カタカナが書けない、掛け算の九九ができない。誰もが当たり前に通過している場所で足踏みしている事を誰にも言えなくなった結果、基本から応用へ進めず、学校生活のレールから外れてしまってどこにも行けなくなる子供達が。

 彼女もそうだった。

 みじめと言われるのが何よりも怖くて、だからずっと黙っていた。


「もう一度、学校のみんなと気兼ねなくご飯を食べてみたい。もう一度、誰の目を気にする事なく背筋を伸ばして気になるお店で食事をしたい。たったそれだけだったのに、気がつけばこんな泥沼に両足突っ込んで身動き取れなくなっているんですから!!」


 ガキュッ!! と空気が削り取られる不気味な音がさくれつした。

 まい殿どのが己の足元にあったガラス片を人差し指で指定し、指で弾くような動作と共に真正面の獲物目がけて勢い良く解き放ったからだ。

 最大荷重一〇万トン以上。

 高層ビルを二棟丸々使うほどの大技の直後に、わずか数ミリの透明な針。

 人間の感覚は刺激に慣れ、本人の知らない所で五感に補整をかけている。まともな人間であれば、このギャップを修正する前に額の真ん中をぶち抜かれているはずだ。


「そっか」

「ッ!?」


 おかしい。

 それでも、その少年は揺るがない。

 気づけば彼の右手が、何の変哲もないてのひらが正面にかざされていた。それだけで、崩れる。真正面、わずか数メートル先の獲物を撃ち抜くはずだったガラス片が力なく落ちてしまう。

 途切れた。

 千切れた。

 たとえるなら、見えないロープウェイのようだったまい殿どのほしの能力、が?

 しかも相手は、そんな事実に言及しない。

 意図して自分の切り札を隠している訳ですら、ない。

 まるで。

 そんな事よりもっと重要な話がある、とでも言わんばかりに。


「じゃあ、ちょっとは楽になったか?」

「……、あ?」


 意味不明だった。

 しかし思考の空白へ無理矢理ねじ込んでくるように、その少年は言ったのだ。


「だってお前は、そうやって今まで誰にも言えなかった事を全部吐き出したんだろ。どうだった? 苦しくて、恥ずかしくて、もがいて暴れてのた打ち回りたくなるほどだったとしても、でもちょっとはすっきりしたんじゃねえか?」


 何故なぜ、そんなに分かったように言う。

 知ったような事を言われるのが一番かんさわるはずなのに、的確に刺さる?

 考え、そしてまい殿どのの時間がわずかに止まった。

 もちろん客観的な根拠なんて何もなかったけど。

 まさか、


「……あなたも?」

「……、」

「何かを失っている? いいえ、他の誰かの手で奪われているんですか!?」


 あの少年にとって、右手の存在が特別である事は何となく想像がついている。その上で、彼は確かにこうした。

 拳銃のジェスチャーを作って、自分のこめかみに突き付けたのだ。


「……うそ……?」


 決して大きな声ではなかった。

 大仰な身振りも、抑揚をつけた声色もなかった。逆にそうした『演出』が挟まっていれば、プロのまい殿どのは一発で見抜いていただろう。だけど、それがない。故に分かってしまう。

 言葉の重みが。

 リアルな響きによって空気そのものがパキリと音を立てて固まっていくのが、確かに。

 真実は決して優しくない。

 暗部に身を浸して自分を守っているまい殿どのほしは肌で知っている。むしろ、しの正しさは本質的に人の心に傷をつける武器として機能するのだと。


「まあアンタと違ってエピソード記憶ってのだけらしいからさ、日々の暮らしに影響はないんだけど。もちろん客観的に証明なんかできねえよ、アンタのお箸と一緒でな」


 アリなのか?

 そんな事があって許されるのか。

 まい殿どのほしにだってすがってきたものはある。『暗部』に身を浸してこの手で人をあやめてきても、それでも守りたかったのは人と人とのつながりだった。だから『できない』事への羞恥があって、『できない』事を覆い隠すためにうそをついて、ずぶずぶの泥沼へと沈んでいった。

 でも。

 つらいならやめるかと言われれば、答えはノーだ。

 どんなに心を引き裂かれても、自分の胸の中にある思い出だけは失いたくない。人と人のつながりを大切にして、暗闇の中を突き進む。そんな小さな光くらいは残しておきたい。

 それを。

 よりにもよって、それを奪われた?


「……だったら、どうして?」


 言葉が出た。

 最初から最後まで拒絶していたくせに、気がつけばまい殿どのは求めていた。

 答えを。


「どうしてに立っていられるんですか!? どう考えたってハンデは決定的で、どんなに努力したって失ったモノは戻ってこなくて、原因となった何かを恨み抜いた方が『気が楽』だったはずなのに!? どうしてッ!!」


 普通の少年だった。

 異質な戦いに慣れてはいるのかもしれないが、本質の部分で甘すぎる。

 それは嫌というほど『暗部』に身を浸してきたまい殿どのには良く分かる。他にも居場所があるというだけで、この少年は決定的にまい殿どのほしとは人種が違うのだと。

 原因となった何か?

 そんなの本当はどうだってい。何かを失ったという事は、それだけで世界の全部を恨み抜いても構わない免罪符をもらったようなものだ。だって誰も気づいてくれなかったじゃないか、守ってくれなかったじゃないか、もう取り返しがつかないじゃないか。そう金切り声を上げていれば何でも許される、被害者としての絶対的な特権を手に入れられるはずだったのに。

 だけど、だ。

 少年は首を振ったのだ。横に。


「……、」


 世界が。

 違った。


つらいよ、そんな道は。どう考えたって悲惨過ぎる。だから俺は、自分が記憶をなくした事をずっと隠してきた。結局そんな三文芝居はあちこちボロボロで、気づかれる時はあっさり気づかれたりしたもんだけど。だったらもう、記憶なんて形のないものにはすがらない。だって世界は目の前に広がっているんだ。それなら楽しまないと損だろ、みんなで手を取り合って。笑って、走り回って。そっちの方が、よっぽど楽だ」


 価値観の根本が違う。

 故に、あいれない。


「お前はどうなんだ」


 なのに言葉が耳から離れない。

 ただ理解不能として意識から追い出してしまう事が、まい殿どのほしにはどうしてもできない。


「俺とお前は、なくしたものの種類も経緯も違う。だから聞くけどさ、いつまでもなくしたものに縛られているのが、そこまで心地いいか? お箸の持ち方が分からない、そんな自分はどうやったって変えられない。

「……できない」

「できるよ」

「そんなに簡単な話じゃないッ!! 新しいものを注いだって隙間が埋まる訳じゃないし、一足す一が二になるほど単純じゃあないんだ!! データの量さえ同じなら中身が一緒って話にはならない。あなただって相当すり減っているはずです。だから無理をするのはやめろっ、。お箸が持てないなんて次元じゃない! あなたはわたくしなんかよりよっぽどボロボロになっていないとおかしいんだッッッ!!!!!!」

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