心臓が止まるかと思った警備達だが、予想に反して両断はされなかった。逆だ。右肩と右足を一気に切断する軌道だったにも拘らず、斧は不思議とすり抜けていた。……そして、すり抜けた所をなぞるように、銀色の金属の輪が生じていた。腕と足。二ヶ所に生じた金属輪は、まるで強力な磁石のように互いを引き寄せ……結果として、警備の体を不自然に折り曲げ、地面へと転がしてしまう。
ようやく絶叫が響き、もう一人の警備が杖を構えようとした。
しかしその前にエーラソーンは無言で巨大な斧を水平に振るい、両腕と腰の三ヶ所の金属輪に縛られた警備が、同じように地面を転がる。
「夜分遅くに失礼する」
エーラソーンは何かに気づいたように頭上を見上げ、低い声で呟いた。
門のすぐ上には、侵入警報用の小さな像が取り付けてある。
「殺される理由は、分かっているな?」
神裂火織はジーンズショップを飛び出すと、たった一歩で二〇メートル近くも真上に跳んだ。そのままビルからビルへと次々に飛び移っていく。聖ジュリアン大聖堂までなら、車で行くよりもこちらの方が早い。
携帯電話からは、ツアーガイドの声が聞こえる。
『聖ジュリアン大聖堂の方でも動きがあったようです。イギリス清教の方には連絡を入れました。遠からず増援がやってくるでしょうけど……』
「その前にエーラソーンが目的を遂げてしまう方が早そうですね」
もう目的の大聖堂の屋根は見えていた。
神裂は二メートル近い刀を携え、夜の街を飛び回りながらも、静かに歯嚙みする。
かつて拘束職人エーラソーンは、成り行きとはいえ民間人の少女の命と人生を救っていたはずだった。しかし、聖ジュリアン大聖堂襲撃のために、自らの意思で失踪したとなると、一つの事実が浮かび上がってくる。
(……結局、あなたが少女に与えていた『救い』とは、その程度のものだったんですか?)
心の中に、苦いものが生じた。
これでは、エーラソーンを待つ少女があまりにも滑稽すぎる。
(自分の目的のために途中で放り出し、そのまま中断できるようなレベルのものでしかなかったんですか?)
『なあ』
と、そこでジーンズショップの店主が口を挟んできた。
『妙だとは思わねえか? イレギュラーな出来事だったとはいえ、エーラソーンはあの子を助けたんだろ。それと今回の犯行……大聖堂襲撃が繫がらねえ気がするんだけどよ』
「結局、エーラソーンにとっては『ついで』という事だったのでは?」
自分で言ってて胸糞悪くなる話だったが、意外にも店主は否定した。
『あれだけの拘束具を用意して、襲撃地点の聖ジュリアン大聖堂の魔術的なセキュリティを詳細に分析してやがった野郎が、「ついで」か? 本当に襲撃計画がそんなに大事なものなら、そもそも少女を助けたりするもんかね。実際、それがきっかけで俺達は大聖堂襲撃計画を察知しちまった訳だしよ。計画の邪魔になるって最初っから分かっているなら、変に首を突っ込む必要はなかったんじゃねえのか?』
「……? では、エーラソーンは何を考えていると? 現に、聖ジュリアン大聖堂襲撃のため、自ら少女を見捨てているはずですが」
『だからよ』
店主はゆっくりと言葉を選ぶように言った。
『あの少女を助けた件と、聖ジュリアン大聖堂襲撃の件。どっかで繫がってんじゃねえのか?』
聖ジュリアン大聖堂の内部を、エーラソーンはゆっくりと歩く。
明かりの消えた建物の中は、外から洩れる光だけでじんわりと輪郭を浮かび上がらせていた。本来なら冷たいグラスのように心地良い静寂に包まれているはずの聖堂内は、無数の怒号が飛び交う騒々しい戦場になっていた。
もっとも、彼を止めるものはない。
年単位の時間をかけて、計画の成就に必要な分の準備を進めてきたからだ。『必要悪の教会』へ対魔術師用の拘束具を収めてきたのも、その納入のために聖ジュリアン大聖堂を出入りしていたのも、全てその一環である。
警備の者の人数や装備は調査済みだ。
魔術的なセキュリティの数、種類、配置図も全て頭に入っている。
そして。
それを打ち破るための戦力も蓄えてある。
だからこそ、そこまで突き詰めてきたからこそ、エーラソーンを止めるものはないと断言できるのだ。
この大聖堂は、本来ならあらゆる侵入者を防ぐため、五〇〇以上の魔術的な装置や設備に守られているはずだった。それらは互いが互いの弱点を補い合い、死角のないシステムを構築しているはずだった。
しかし。
それらのシステムを完璧に熟知しているエーラソーンは、そういった装置や設備を全て逆手に取っていた。
単に、システムを乗っ取っているだけなら、大聖堂の人間がここまで翻弄される事もなかっただろう。ようは、自分で仕掛けたトラップを自分で回避すれば良いだけなのだから。
だがエーラソーンは聖ジュリアン大聖堂に用意されていたシステムを一度分解し、そこからさらに新しいトラップを張り直していた。元々ここを守ってきた大聖堂の人間からすれば、全く知らない未知の場所に未知のトラップを仕掛けられている訳だから、引っかからない訳がない。なまじ『あのトラップはここにあったはず』という先入観が、余計に彼らを苦しめている。
「……、」
エーラソーンが軽く睨むだけで、全てのドアが固く施錠された。
通路は無限の長さに広がり、階段は永遠にループし、それぞれエーラソーンの敵だけを確実に閉じ込める。
困惑と錯綜の中、エーラソーンだけが正確に目的地を目指す。
計画通りだった。
机上の計画は実行に移してもイレギュラーな問題は生じなかった。いくつもの拘束具を組み合わせて作った『聖ジュリアン大聖堂の魔術的セキュリティのミニチュア』を基に、何度も何度も突破用のシミュレートを繰り返してきた成果だろう。
ふと、辺り一面の蠟燭が一斉に火を点けた。
炎は不自然に振動し、その空気の揺れが声を作り出す。
この大聖堂の最深部で待つ、司教のものだった。
『私を殺すか』
「それ以外に何がある」
逆手に取ったセキュリティを突破したというより、おそらくたまたま引っ掛からなかっただけであろう、警備の若者を巨大な斧を振って縛りつけながら、彼は続ける。
「お前は知っていたはずだ」
『その話か』
声に、わずかな逡巡があった。
『だが、その恩恵はお前も受けていたはずだ』
「ああ、そうだとも」
エーラソーンはゆっくりとゆっくりと歩きながら、小さく小さく呟く。
「正直に言おうか。楽しくて楽しくて楽しくて仕方がなかったよ。だからこそ、私は私を許せなくなったのさ」
神裂は聖ジュリアン大聖堂に突入した。
大聖堂の扉は堅牢だったが、『聖人』の腕力でごり押ししたのだ。吹き飛び、内側に倒れていく門の残骸に目も向けず、神裂は奥へ急ぐ。
『詳しく検証している時間はないので確証はないんですけど、疑惑みたいなものならゴロゴロあるみたいですね』
ツアーガイドの言葉に、神裂は眉をひそめる。
「ここの司教が何かをしていたという事ですか?」
『そもそも、どうやってそんな高い地位まで上り詰めたと思います?』
神裂の疑問に、ツアーガイドは軽い調子で答えた。
『イギリス清教は、「必要悪の教会」っていう対魔術師用の特殊部隊を擁していますよね。で、例の司教さんはそこに大量の人員を供給した事で、一定の功績が認められたみたいなんです』
「それが、何の疑惑に繫がるんですか?」
『……供給される人材の内、およそ五割が事故や事件で両親を失っているとしたら? 残る三割は借金苦で捨てられているとしたら?』
「まさか……」
『だから、あくまでも「疑惑」なんです。個々の事例には繫がりはありませんが、やけに司教さんがそういう子供を発見し過ぎている。もしかすると、人材調達のために、何らかの下拵えをしている可能性も……』