神裂は思わず、少女の境遇を思い出した。
そして、不自然なほど懐かれていたであろうエーラソーンについても。
もしかすると……、
『エーラソーンは、我々もまだ知らない「からくり」について知ったのかもしれません』
「だからこそ……」
言いかけたその時、薄暗い大聖堂の奥から、何かが蠢くのを知覚した。
足を止める神裂。
それは、ありきたりに床などを使って移動してこなかった。
壁や天井。
そこに、銀色に光る巨大な蛇のような物が蠢いていた。太さ一五センチ以上、長さは五メートル以上にもなる金属の蛇だ。軽く三〇匹以上用意された迎撃用の自律型霊装は、一度巻きつけば大理石の柱であっても容赦なく砕きそうだった。
以前、深夜のバスの発着場で遭遇した、マンキャッチャー式のクワガタと細部は似ていた。
金属の蛇を観察し、彼女はポツリと呟いた。
「グレイプニル……」
神裂は、一目で使われている魔術を看破する。
北欧神話に出てくる、不可思議な紐だ。オーディンを喰い殺す獣フェンリルを縛るための道具で、普段は良くしなり、良く伸びるのに、一度縛ってしまえばどれほど強大な力を使っても決して引き千切る事はできないという。
「素材は、猫の足音、山の根、女性のひげ、鳥の唾、熊の腱、魚の息。しかし各項目に意味はなく、語るべきは『この世には存在しない素材で作られている』という暗喩である事」
刀の柄に手を伸ばしながら、歌うように神裂は言う。
『それだけ「伝説の品」だっていう事ですか?』
「いいえ。ようは、当時の北欧神話圏に製造技術の伝わっていなかった素材を使って作られていたというだけですよ。エーラソーンは、それを『複雑な熱処理を施した鋼』であると推測したようですけどね」
金属の蛇の他に、巨大な蛸や蝙蝠のような物まで出てきた。どうやら重要なのは『魔術的に加工した鋼』の方らしく、エーラソーンはその形状にこだわりを持っていないようだ。
神裂は退屈そうな調子で息を吐き、今度こそ刀の柄を明確に摑む。
『せっ、切断できるんですか?』
「何人にも引き千切れないようなものなら、あそこの主神も喰い殺される事はありませんよ」
11
ドアは静かに開いた。
お抱えの運転手が、黒塗りの高級車の後部座席からお嬢様を下ろす挙動にも似た動きだが、そこから入ってきたのは明確な襲撃者だった。
拘束職人エーラソーン。
彼の顔を見た初老の司教は、執務用デスクの奥にある大きな椅子から、思わず腰を浮かしそうになった。しかしエーラソーンはそれを許さない。彼が人差し指を軽く動かし、白く色を抜いた牛革の札を操ると、細いワイヤーが宙を走り、彼の両腕を椅子の肘掛けに縛りつける。
「苦しみはできるだけ引き延ばしたいが、早めに終わらせなければ邪魔が入りそうだ」
「……私を痛めつければ、全てが解決するとでも思っているのかね?」
「思わんさ。その前に尋ねておきたい事がある」
「何を……?」
言いかけた司教の口が、唐突に塞がった。新たな牛革の札が拘束具に変化した。エーラソーンが指を弾いた途端、司教の口には競走馬を操るための轡のような物が嵌められたのだ。
「簡単な事だ。お前が子供達の売買をしていたかどうかについて、明確な回答をいただきたい」
「あのプロジェクトは私の一存ではなく、イギリス清教全体のゴァ!?」
ギャッキュ!! という異音が司教の言葉を遮った。
スポンジのように柔らかかった轡が、突如鋼のように硬化し、司教の歯を削り取るように膨張したのだ。言葉どころか呼吸すらも止まりそうになる司教に、エーラソーンは静かに語る。
「そいつは魔女裁判用の一品だ。真実のみを伝え虚飾を許さぬ猿轡さ。……ちなみに、噓を重ねるごとに轡のサイズは膨張する。童話の人形の『伸びる鼻』と同じだな。あまり調子に乗っていると、じきに己の顎を砕く事になるぞ」
「ご、ご……」
司教の顎は、すでに限界まで伸びていた。あと五ミリでも膨張すれば関節は外れるだろう。そして顎が外れても、エーラソーンは気に留めないはずだ。必要なら筆談でも何でもさせれば良い。
「ぐ、が……、ぁ、ぐ……」
「何だ? まだ足りないのか。それなら、一〇本指を締め上げる『手袋』、脛の骨を圧迫する『ブーツ』、背骨を反らせる『歯車の胸当て』……色々あるぞ。どれもこれも、品質は折り紙つきだ。好きなだけ味わってみろ」
ガキガキバキッ!! という、金属の嚙み合うような音と共に、司教の体が次々と自由を失っていく。エーラソーンは顔色一つ変えず、ゆっくりとした口調で司教へ話しかける。
「改めて尋ねようか。お前は子供の売買にどこまで関わっていた」
「あ、あれは私の個人的なプロジェクトで、なおかつ実用段階として完成されたものではなかった……」
それが真実であるせいか、轡はスポンジのように柔らかく司教の口の動きを支え、手足や背骨を苦しめる拘束具も、動きを止める。
「『必要悪の教会』は完全実力制のエリート部隊だが、それ故に、必要な数の人材を常に供給できるとは限らない。一方で、壮絶な任務内容から正式メンバーを一度に失う事もある。……結果として、部隊の数には急激な変動が生じ、それが戦力を増減させてしまうリスクもある訳だ」
「それを回避するために、必要な時に、必要な量の人材を供給するシステムを整備したかった訳か。……民間出身の子供達を魔術師に仕立てたところで、その大半は生き残れない事を知っていながら」
「子供達が死んでいく間に、本隊の質と量を拡充できればそれで良いのさ」
司教の言葉は拘束具に遮られなかった。
おそらく真実なのだろう。エーラソーンの目が細くなる。
気づかずに司教は続けた。
「方法は様々だが、イギリス清教で保護した子供達には皆、同じ条件が整えられている。つまり、両親を亡くしたか捨てられたかして、信じる者を失ったという事だ。彼らは自然と『生きがい』を求め、そこに魔術を提示する事で、後は勝手にそちらの方向へと進んでくれる。……お前はその中の一人に接触しただけだ。まぁもっとも、結局はお前もあの少女……セアチェルだったか。彼女に魔術を提示してしまったようだがな」
「……、」
「楽しかっただろう」
司教は、戒められた唇を歪めようとしたようだった。
「そう感じるよう調整するのが、私の仕事なんだからな。子供がヒーローとして見てくれる事に、お前は快楽を得ていたはずだ。そうやって楽しんで楽しんで楽しんで、好きなだけ負の恩恵を享受し続けたお前が、今さら私を裁きに来ただと? お前は同じ穴の狢だよ。そうでもなければ、お前はここまでの行動を採らなかった。お前はそれだけ、私のサービスにハマっていたのさ」
「……、ああ」
エーラソーンは、それを否定しなかった。
その上で、彼は二メートルを超える巨大な斧を握る手に、思いきり力を込める。
「だから言っただろう。楽しくて楽しくて楽しくて仕方がなかったと。だからこそ、私は私を許せないともな」
ギュン!! という奇妙な音が響き渡った。
司教の胸の上から腰の下までが、一気に細いワイヤーのような物で縛られたのだ。それは単に人物の動きを戒めるだけに留まらない。そのまま人体の構造を押し潰そうとするように、ものすごい力で肉体の内側へと食い込んでくる。
一瞬でいくつかの骨が砕け、血管が破れ、内臓に亀裂が入った。
パクパクと口を開閉させる司教の泡に赤い物が混じるが、エーラソーンの表情はピクリとも変化しなかった。
その時だ。
「エーラソーン!!」
女の声と共に、ドバン!! と扉が大きく開け放たれた。そこから転がってきたのは、エーラソーンが事前に放っておいた、足止め用の巨大な蛇だった。頭の部分が奇麗に切断されている。
エーラソーンが顔を上げると、ちょうどポニーテールの女が踏み込んでくるところだった。