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佐天涙子は中学一年生の女の子だ。
趣味は流行の追っかけ。中にはウワサの蒐集や、もっと言えばおどろおどろしい都市伝説も含まれる。本人的には『他人の不幸は蜜の味』という訳ではないし、都市伝説といっても全部が全部血みどろホラーという話でもない。例えばケセランパサランなどは『ふわふわした白い毛玉みたいな生き物で、手に入ると幸福になる』というだけだ。なので佐天的には善悪分け隔てなくウワサを集めているに過ぎないのだが、ただアンテナ感度については少々モラルが欠けている自覚くらいはある。
能力については公式判定で無能力。
これは諸々心理的に乗り越えたつもりだが、コンプレックスが完全になくなってしまったらそれはそれで伸び代はなくなってしまうものなんだろうか?
きんこーん、という自由な放課後を伝えるチャイムが鳴り響く中、だ。
見た目は明るくても内面に色々抱えた最先端の黒髪女子は、そんな事はおくびにも出さずに友人の待つ扉を大きく開け放つ。
風紀委員活動第一七七支部である。
「うっいはるーん☆ ここにいるかーい?」
声に出してみたが返事はなかった。
電気は点いているしエアコンも稼働しているから、一時的に席を外しているだけなのだろう。中には事件資料などもあるのだから、そもそも部外者が鍵もなく開けられるドアではない。
佐天は右に左に視線を振ってから、
「おー……。いないなら、こいつが使えるかにゃ?」
スカートのポケットから取り出したのは、小さくて透明な袋だ。中に入っているのは口紅よりも赤い粉末。
『映画撮影で使うプロ仕様の血糊の作り方』という動画が流行っていた。黒豆サイダーとかケチャップとか、一〇〇均やディスカウントストアで揃う日用品だけで作れるのが特徴で、イタズラ動画の良い材料になっているらしい。イマドキ女子な佐天的には悪趣味な血糊そのものよりも『動画の流行らせ方』の方に興味があったのだが、まあ試してみたくなるのも人情だ。
誰でも簡単に作れて粉末状で長期保存が可能、使う時は水で戻し電子レンジに入れるだけ。
何に使うかはさておいて、確かに便利そうなのは事実だ。
「さて、と。水をカップで計量してー、赤い粉と一緒によくかき混ぜたら電子レンジに入れてー、うわ業務用の一五〇〇ワットかよ、それなら時間は四〇秒にセットしてーっと……」
誰かにイタズラを仕掛ける時、つい独り言や鼻歌が出てしまうのは『冗談』という意識を強める事で無意識の罪悪感を消し去りたいからだ、という余計な豆知識はさておいて、だ。
「できたっ!」
マグカップの中に、生温かいどろっとした赤黒い液体が満たされていた。
色や質感はもちろん、鉄錆の匂いがすごい。考えなしに強く息を吸い込むとそのまま眩暈を感じそうなくらいそっくりだ。黒豆サイダーと、デンプンと、いちごおでんと、ケチャップや絵の具と、あと色々。横に倒したスマホの簡易ゴーグルでも遊べるVR系手作り動画の説明によると、本物の血液同様に空気に触れてから一五分前後で乾いて硬化し、雑巾で適当に拭き取った後にルミノール試薬を噴きつけるとしっかり青白い光が浮かび上がる本格仕様なのだとか。あんまりにもリアルなものだから、本物の血液と見分けがつかなくなって警備員や風紀委員が動き出した時などイタズラじゃ済まなくなった勘違い案件のために、わざと『本物の血液とは明らかに違う成分』まで添加しているらしい。
何しろ赤黒いどろどろの液体だ。
マグカップのままその辺に置いても相当サイコホラーな画になる。真っ赤なマグカップの縁に髪の毛でも二、三本張りつけておけば後からやってきた初春はその場で尻餅つくくらいびっくりするだろうが、それではまだ足りない。佐天はコンビニ弁当にテープで貼ってあるお醬油くらいのサイズ感の小さなビニール袋をいくつか取り出し、作った血糊を分けて流し込むと、制服の内側に手を突っ込んでいく。本来ならお醬油でもソースでもお好みの調味料を入れてから、熱で口に封をする仕組み。ここ最近の一〇〇均はほんとに何でも揃っているものだ。
「あちちっ……。ここと、ここと、後は髪の中にも仕込んでおくか」
これがバレたら元も子もないので、いらなくなったマグカップやスプーンは給湯スペースのAIロボット化された食器洗浄機に突っ込んでおく。それから佐天は辺りを見回した。包丁とか果物ナイフなんかの刃物系はイタズラにしてもちょっと怖いので、できれば鈍器系が良い。
近くの壁に何か立てかけてあった。黒い合成樹脂系。
「へえー、なにこれ?」
佐天は長くてずっしりした棒を手に取った。具体的には竹刀と同じかもうちょっとあるくらいで、教室の掃除を真面目にやらない人にとっては半ば遊び道具となりつつあるホウキやモップより中がぎっしりな印象だ。こう、すりこぎをそのままながーく伸ばしたような? 側面に警杖と書いてあるが、漢字の扱いは全部機械に丸投げという子には読み方なんてサッパリだった。けいづえ、ではないっぽいが。
スマホでちょっと検索してみると、
「……けいじょう。警棒のでっかい版って感じか」
人を叩いて捕まえる道具、で間違いなさそうだ。特殊警棒と違って伸び縮みしないので支部の出入り口で仁王立ちならともかく、持ち歩くのはちょっと大変そうだが。本当に歩哨や巡回で使うのか、あるいは訓練用として置いてあるのかまでは読めない。
グリップ近くにあった表示を見て佐天は目を丸くした。ポリヒドロキシ酪酸系合成樹脂。つまりちょっと意識高い系のミネラルウォーターのペットボトルとかにも使われている生分解性プラスチックだ。動画サイトの隙間隙間に挟まる広告動画でそう言ってたのを覚えている。
「へえー、今はこんなのも自然に還るエコな素材を使ってるんだ。時代だねえ」
とにかくこれがちょうど良い。
手に取るとなんかしっくりくるし。やっぱり武器は長めの鈍器に限る。
ぴこんとデスクトップのパソコンが電子音を発した。薄っぺらな液晶画面を見ると、どうやら初春のケータイの位置情報と連動しているらしい。もうすぐお友達はここへやってくる。
佐天涙子は胸の真ん中に掌を当て、深く息を吸って、吐いた。
支部のドアが開いた。
「ぐわははは初春ちょいと血みどろサスペンス劇場の謎の若女将気分になーれっ!!」
「ぎゃああ何ですかいきなり地球の終わりッッッ!!!???」
ゴキッ!! ごどんっっっ!!!!!!
一際鈍い音が響き渡ったと思ったら、支部全体の空気が凍りついた。
まあ無理もない、佐天涙子は両手を挙げて初春へいきなり襲いかかり、『わざと』揉み合いになって警杖を自分の頭に軽くぶつけて床の上へ倒れ込んだからだ。こう、棒切れみたいな感じで横倒しに。
部屋には頭の上にお花をいっぱい乗っけた初春飾利の荒い吐息の音だけが残された。
「はっ、はあー……ッ!! はああー……ッッッ!!」
内心でしめしめと思いつつ、ここはいったん無視。
ぺたぺたぺた、と震える手でおでこや首筋に何か貼りつけられた。どうも体温計や血圧計をまとめたものっぽい。スマートウォッチのようにコンディションを確認し、必要ならAEDやアドレナリンを突っ込むパーソナル医療キットだ。
佐天は横倒しのまんま、白目を剝いて痙攣してみる。動画サイトの変顔文化も色んな所で役に立つものだ。それから痙攣の身じろぎのどさくさに紛れて体をひねり、髪の中に仕込んだ小袋を床と頭で挟んで割る。生きているとバレたらアレなので、どさくさに紛れてお弁当箱くらいの小箱のスイッチを切るのも忘れずに。
じんわりと、赤黒い液体が床に滲み出てくる。
(……んむー、口から泡とか噴いておいた方が派手だったかな? でも炭酸水くらいじゃリアルっぽくないしなあ)
考えながら手足の震えを止める。