初春のぶつぶつ声と一緒に、ことっ、と佐天のすぐ近くの床に硬い音と震動があった。初春はスマホを取り上げるでもなく、余計な証拠品は全部死体の傍にまとめておく事にしたらしい。後になってからどこに何を置いたのかを忘れて、『お掃除洩れ』がないようにしたいのだろう。
大丈夫。
まだ終わっていない。
文明の利器は手を伸ばせば届く場所に残されている。
とすとすとす、という軽めの足音が再び佐天から離れていった。自分だけの暗闇の中、カチカチというマウスのクリック音が聞こえてくるのを耳でしっかりと確認してから、佐天は再びゆっくりと薄目を開けていく。
「それじゃあ中古の清掃ロボットを一つ、と。学校コードを偽装して、空き教室の清掃名目で仕入れて、バイク便……じゃ微妙に厳しいか。トラックとかで運んでもらって……」
初春はパソコンの画面に向かっていた。
スマホは床の上、鼻先に置いてある。
何より、初春は佐天に背を向けている。デスクトップパソコンの大きな液晶画面で通販サイトの注文リストを確認しているのは、横倒しの佐天からでも分かる。大丈夫、今ならバレない。改めて、佐天涙子はフリーの片腕を動かす。スマホは鼻先だが、指先を一〇センチ動かすだけで寿命を一年以上削りそうだ。
怖い。
メチャクチャ怖い。
パソコンの画面は鏡のように背後の景色を反射しないだろうか。本当に何の理由もなく、初春が何かの拍子でこちらへ振り返ったら? 確定なんて何もない。分かっているのは、ここはレールの上だという事。考えなしに動くのは危ないけど、かといって何もしなければスケジュールの通りに列車がやってきて佐天は轢き潰されてしまうだけだ。上半身だけでその辺這い回る凍った踏切の伝説になりたくなければとにかく行動だ。
動け。
逃げろ、少しずつでも確実に。
この一ミリ一ミリの動きは決して無駄にならない。
(取っ……た!)
スマホの四角い角を、鉤状に曲げた人差し指で引っ掛ける。そのまま手繰り寄せて親指に力を込め、指先で摘まみ上げる。
もう誤魔化せない。
ここまできたらスピード勝負だ。スマホに目をやるとパスロック前の待ち受けに白井黒子から着信報告が表示されていた。さっきのはた迷惑な振動音はこれか。反射で舌打ちしかかって慌てて吞み込み、佐天はスマホの操作に徹する。
緊急連絡とカメラについてはパスロックを解除しなくても直で使える。
「……、」
緊急連絡。
一一〇だか一一九だかの誘惑が佐天の胸に突き刺さるが、待て。
待った。
多分連絡を入れても学園都市の治安を守る警備員がすぐさま飛んでくる訳ではない。この静けさだ。人の声や身じろぎどころか、エアコンのそよ風の音さえ胸に強く響く無の空間である。初春飾利の手で完全に支配された事件現場だっていうのに、事件ですか? それとも事故ですか? こんな問答がスピーカーから吞気に流れてきたら初春は絶対に気づく。ていうか最悪、一番近い部署に捜索要請が入るとしたら、この一七七支部へ連絡が飛んでくるのではないだろうか? 通報者の氏名は佐天涙子、年齢一三歳で身長は一五〇センチ以下、特徴は長い黒髪に緑がかった黒い瞳、三五億年に一人のウルトラ美少女、情報は以上。『書庫』登録の顔写真等を参考にして、目視による現場の確認と要救助者の確保よろしく。……こいつを初春飾利本人に聞かせると???
(ああっもう! ていうか何で通話でヒアリングなんて古い方法いつまでも使っているんだよう。通報ボタンを押したら位置情報サービス参考にしてすぐさま完全武装の警備員が飛んでくる仕組みにすれば良いじゃん、イマドキはタクシーアプリとか自転車使った宅配バイトとかだって細かい数字入力なんかしなくても指先のタップ一つでやってくるっていうのに……ッ!!)
安易だけど飛びつけない。
緊急連絡。大人に頼る。
これはやってしまった後に何を選んでも行き止まりにしか辿り着けない、罠の入り口だ。
無計画に脱線してもリカバリーが利かなくなるだけ。佐天は意思の力を総動員して誘惑を振り切り、当初の予定通りカメラの方のアイコンを指先でタップする。見慣れたカメラ画面に涙を浮かべそうになる。当たり前って素晴らしい。シャッター音は特殊な設定で切ってあるので心配ない。
腕をあらぬ方向に向ける。
大雑把だけど、とりあえずドアの方だ。
後は親指を使って撮影ボタンを押せば良い。何千回、何万回と押してきたボタンだ。いちいち身をひねって画面の表示を見なくても、これくらいなら勘だけで何とかなる。
(とりあえず、ドアまでの距離と施錠の有無……。これだけでも確定が欲しい)
ぐっ、と。
息を止めて佐天は覚悟を決める。
(それが分かれば脱出までの時間が分かる。どれくらい初春が隙を見せたらゴーサインか、自分でその判断を下せるようになる……っ!!)
押せ。
親指で押し込めば、生存への道が開けるのだ。
ようやく運が向いてきた。無理にでもそう考えて、佐天涙子は親指に力を込める。
結果、だ。
ズバヂィ!!!!!! と。
カメラのフラッシュが真っ白な光で部屋を埋め尽くした。
3
出た。
もう半分とかじゃない、佐天涙子の口から完全にまん丸の魂がこんにちはした。
(ばっ)
演技ではなく、だ。
普通に白目を剝きながら横倒しの佐天は心の中で吼える。
(ばかばかばかばかばかばかばかーっっっ!!!??? そっ、それは確かに設定画面は見ていなかったけど。フラッシュ設定のオンオフとかいちいち見てないけど! オート設定で部屋の暗さを感知して勝手にばっちり輝きますか高輝度LEDストロボおッ!?)
しかしいくら嘆いたところで時間は巻き戻らない。
当然、だ。
「……、」
初春飾利だって今の閃光は流石に気づいただろう。いやもう、分厚いアイマスクをしっかりつけて椅子の上で仮眠を取っているとかの例外もなく普通にこれをスルーされたら逆に怖い。佐天は慌ててスマホを手放して腕を元の位置に戻す。が、もちろんそんな程度で初春側からの疑惑を払拭する事などできはしない。というか、逆にどんなミラクルが発生したら初春の頭の中で今のフラッシュと佐天の関与を結びつけない展開がやってくるというのだ、これ?
もう両目を瞑って成り行きを見守るしかない。
とすとすとす、と。
床を踏む足音がこちらに近づいてくる。ゆっくりと。ぎりぎりと皮の軋むような音が混じっているのは、掌が痛くなるくらい強く警杖を摑んでいるからか。ていうか『定温保存』、もしや火事場の馬鹿力状態の体温を強制的に保つ事で筋肉のリミッターとか切れる系? いやもうそれ低能力者なのか本当に!? 真っ暗だと怖い。だけど情報好きの佐天にも分かる。今、迂闊に目を開けたらおしまいだ。
(あっ、あぶ。あびゃばぶぶばびゃばぶ)
何もできない。
もう、だ。ここまでどん詰まりになったら両目をカッと開いていちかばちか初春に飛びかかってみるのも一つの選択肢かもしれないが、佐天には行動に移すだけの勇気が足りない。
少しでも勇気をかき集めるために、佐天は楽しかった思い出を浮かべようとした。
感情のコントロールは大切だ。
(あんなスカートもこんなぱんつも、初春はいつだって容易くあたしの掌の上で踊って。昨日も可愛らしい水玉で、あははうふふ)