「一年の時に町でジュース配るバイトしてたの。その時うちの学校の子たちが通りかかったんだけど、全然気がつかなかったよ。だから辻尾くんすごいね」
「昨日会った……えっと、ほら、女の人、ミナミさん」
「おっぱいさん!」
おっぱいさんと吉野さんが言ったので、横の席に座っていたカップルがこっちをチラリと見た。それに気がついて吉野さんは俺の方に椅子ごとズルルと寄ってきて、
「(……大きな声で言っちゃった。だってすごかったんだもん)」
「……まあ、うん、ミナミさんは巨乳カフェにいるからな」
「巨乳カフェ?! ……あわわ」
また大声になってしまったことを気にしたのか、吉野さんは手で口を押さえて、俺にもっと近づいてきた。そのたびにふわりと甘い香りがして、左腕はもう完全に吉野さんに密着している。……Dカップかな……俺は乳首が透けたおっぱいをよく見ている紳士だから分かる……。
意識を遠ざけることで俺はなんとか冷静な表情を保ち、クソ苦いコーヒーをブラックで飲んだ。もっと話したい。スマホの画面を明るくして時間を確認した。
するとバイト開始まであと三十分だった。
「あの店でバイトしてるってことは、着替えとかあるよね? 何時に戻ればいい?」
「……そんなこと気にしてくれるんだね、ありがとう」
「いや、女の子の着替えって時間かかるから」
ミナミさんは、昼にお堅い会社でOLして夜はおっぱいカフェで働いている。
更衣室に来るときは黒スーツにメガネ黒髪なのに、一気にキャミソール姿のエッチなお姉さんに変身するんだけど、その作業には三十分かかると言っていた。
吉野さんは横の席でえへへと笑い、
「パーッと脱いで着るだけだけど、ウイッグが取れないように着替えるから十五分前には出たいかも」
「了解。じゃああと十分は話せるかな」
「……こんな風に私の時間を気にしてくれるの、嬉しいな」
「いやいや、いつまでも話しちゃいそうだったから」
そこまで言って、吉野さんとずっと話したいと自ら告白してしまったことに唇を嚙んだ。
そんなことは全く気にせず吉野さんはゴールドのアイシャドーが乗っている目尻を下げて、
「わかる! 今すっごく楽しいよ。あのね、辻尾くんの『頑張った記憶』ってどこが最初?」
「ええ? 頑張った記憶……?」
突然何のことだろうと思いつつ、自分の顎を持って思い出してみる。
頑張った……明確に覚えているのは……。
「小学校の頃、白米食べたあとに飲まされる牛乳が嫌いでさ」
「あ──、わかる。よく考えると小学校の時しかしてないよね、あれ」
そういって両手をパチンと叩いて笑うと今日は長い吉野さんの黒い髪の毛がピョンと跳ねた。
動きのひとつひとつが可愛くて、少し近づいて話す。
「飲まないと昼休みなし! って言うから、一気に飲んだ。それが最初かなあ」
「昼休みに残って食べてる子、いた! あれイヤだよねえ。私の最初の頑張った記憶は幼稚園のお遊戯会でね、私は主役だったの。『絶対に失敗できない』『みんな見てるんだから』ってすっごく頑張ったの。あれがトラウマで今も歌が苦手」
「今も?」
「そう、今も全然好きじゃないよ。毎日家でお母さんと練習してね、すごく辛かった」
「ああいうのって親の方が張り切るよな。うちも家族総出で見に来てビビった」
小学校の時の発表会に、母さんもばあちゃんも、父さんの母さんもじいさんもその弟まで居て、一体何なんだ? と思ったのを覚えてる。
吉野さんはストローで少しオレンジジュースを飲んで視線を外し、
「そう。家族のが頑張るよね。でも私は苦手で……。お遊戯会の時ね、いつも仕事で忙しいお父さんも来るって事になって、お母さんが更にヒートアップしちゃって」
「あー……なるほど」
「私のお母さんは市議会議員をしてるの。教育関係ではちょっと有名な人でね。子どもの教育とか、権利とか、そういう講演会とかもしてる人なの」
「えっ、マジで?」
そんなこと知らなかった。吉野さんはスマホを解除して写真を見せてくれた。
そこには出版記念パーティーで着物を着て立っている美しい人……その右側に吉野さん。左側にLINEのアイコンでも一緒に写っていた可愛い人が立っていた。大きなホールの真ん中でライトを受けて話し、ご高齢な人と握手して笑顔を見せている……そんな写真が無限に出てきた。
吉野さんがスマホを机に置いて、
「テレビに出てるわけじゃないからクラスメイトは知らないけど、学校関係では有名人で、校長先生も知り合いなの。学校の先生たちもみんなそれを知ってる」
「げ」
「『げ』でしょ。マジで『げ』。お母さんがそういう関係で有名人だからさ、私は絶対に『超しっかりしてないとダメ』なの」
「だからあんなに優等生で勉強もして委員長までキメて、あげく先生の奴隷までしてんのか」
「奴隷笑う! いや自分で言ったんだけどね。学校での生活は全部お母さんに知られてると思う。しっかりしたちゃんとした娘。その評判は絶対に崩しちゃダメ」
「そうなの、か……?」
そんなのめちゃくちゃ息苦しいと思うんだけど。
吉野さんはカランとストローで氷を回して、
「お母さん、昔は普通の主婦だったんだよ。でもお父さんの願いを引き継いで、すごく頑張って今の地位まで来てるの。今は国会議員めざして頑張ってる。それを横で見てたから、私は絶対に邪魔したくないの。優等生を演じなきゃ……と思うより、お母さんの頑張りを邪魔したくない気持ちが大きいよ。妹ほど優秀じゃないけどできる限り応援したいと思ってる」
そう言って吉野さんはコップの残っていた氷をガリッと嚙んだ。
じゃり、じゃり、とかみ砕く音が響いて、吉野さんは口を開いた。
「でも家でもしっかりしてなきゃいけなくて息苦しくて、早く家を出たいの。そのためにお金貯めててバイトしてる感じ」
「一人暮らしするために?」
「そう。許して貰える気がしなくて……。でも絶対出たいから。そのためのお金」
聞いていてやっと納得ができた。ここは高校生がバイトしにくるには、リスクが高い場所だ。
酔っ払いが絡んでくるし、詐欺も変態も山ほどいる。でも女子高校生はトップランクの価値があって、現役だと特にバイト料が高い。優等生の吉野さんがどうしてこんな所でバイトを……? と思ったけど、家を出たいからなのか。俺は髪の毛を見て、
「でも家で変装したら、さすがに色々バレない?」
「えへへ~~。家族がトランクルームを借りてるの。昔の荷物がメインでみんな存在を忘れてるんだけどね。そこの奥のほうにこっそり置いてて……ほら、見て」
見せてくれた写真には棚が写っていて、カーテンらしきものが見えた。
その奥の衣装ケースに隠されるように服やウイッグ、それにメイク道具が置かれていた。
「なるほど、家にはいつもの服装で帰って、ここで変身してるのか」
「そう。最初は普通のファミレスでバイトしてたんだけど、時給悪すぎて、あと勉強も手を抜けないから、そんなに長く働けないし。でも最初に必要なお金だけでも早く貯めたくて」
「わかる。時給が低いとマジで稼げないよな」
「そうなの──。もう無理! って思って今の女子高校生派遣のところ見つけたの。まあ制服はちょっとアレな所が多いけど、変身するお金も稼げるし楽しいよ」
そう言って吉野さんはスマホをポケットに入れた。
あ、もうそろそろ時間だ。授業中は全然時間が進まないのに、楽しい時間は秒で消えていく。