第一話 兄さんが好きなの、と彼女は言った。 ②

「ちょっと、遙海はるかちゃん。これ以上はかんべんしてくれって」

「やーだ♡」


 ペロッとわいく舌を出し射的に熱をあげる遙海はるかを残し、落ちていたミサンガを拾ってすぐに二人を追いかけた。お兄ちゃん、これ落としたよ。しょうがないんだから。お姉ちゃんも注意して見てないと。二人そろって案外けてるよね。もう高校生なんだから、しっかりしたら?

 えらそうないろんな言葉たちが頭の中にかんで──。

 そして、真っ白になった。

 言葉は声というりんかくを得ることなく、消しゴムをかけたみたいに消えていく。

 二人には簡単に追いつけた。

 大通りから少しはなれたところにある神社を囲う、いわゆるちんじゆの森の奥で足を止めてたから。


「え?」


 おどろきだけが、ただただ音になってあふれる。


 ──時すらも止まるようなせいひつで神聖な星の光の下で、二人はキスをしていた。


 気づいた時、わたしは泣きながらげていた。

 そう、げたんだ。

 目の前に広がる現実から。


「はっ、はっ、はっ」


 見てはいけないものを見たことだけは分かっていて、冷たい電流に体があわち、頭が信じられないくらい熱くて、胸がいっぱいになって苦しくて苦しくて苦しくて、どれだけ走ってもその苦しさをせなくて。そのくせ、痛みは熱をはらんだ液体となりひとみの内にまっていって。

 痛いよ、苦しいよ、いやだよ。


「はっ、はっ、はっ」


 はんそでからびるしのうでを、枝でひっかく。

 熱が細く赤い線をわたしのはだの上に引き、ピリピリと痛い。でも、心臓はもっと痛かった。血が流れるうでの、百倍とか千倍くらい痛い。


「はっ、はっ、はあああっ。ャだぁ。いやいやいやだ。うぁ」


 一人になって、言葉にならない声を張りあげた。


「──あぁぁぁああああああっ。あああ、もうもうっ」





 どうこくが、黒い姿をした鳥のようにつばさを広げ夜をわたっていく。

 重い足に速度は落ち、やがて立ち止まる。

 体を折り、ひざを曲げ、地面に額をこすりつけるようにして泣いた。なみだが、夜のやみを一層つめたようなきずあとを地面にボタボタと残していく。

 知らない知らない知らない、こんな感情も痛みもわたしは知らない。

 そうしつだった。

 悲しみだった。

 くやしさだった。

 手の中ににぎめていたひこぼしのミサンガを、一層強くにぎる。

 れて真っ赤に腫れたひとみを夜空に放る。

 そこには〝さんかくアステリズム〟がかがやいていた。

 夏の夜空で三角形を形成するアルタイルとベガとデネブはいつもいつしよで、どんな時もセットに見えた。

 でも、そうじゃない。

 アルタイルとベガだけは、ちがう側面を持っている。

 アルタイルのもう一つの呼び名はひこぼし

 ベガはおりひめ

 その二つの星には夏の大三角とはちがうもう一つの、ひこぼしおりひめだけの〝七夕伝説こいものがたり〟があった。

 兄さんは姉さんにとってのひこぼし

 姉さんは兄さんにとってのおりひめ

 じゃあ、わたしは?

 きっとひこぼしおりひめつなぐカササギのかがやくだけの、デネブだ。

 一つ断っておく。

 わたしは決して仲間外れがいやで、それだけで傷ついたんじゃない。

 そんなわいい感情なら、どれだけよかっただろう。わたしがいやだったのは、兄さんにとってのおりひめがわたしじゃなかったということだった。

 兄さんという星に、わたしのおもいが届かないことに気づいたから。

 その日、わたしはようやく自分の中にあった気持ちに名前をつけた。

 はつこいだった。

 そして、生まれたばかりの感情はうぶごえをあげてすぐに殺された。

 しつれんだった。

 この日の夜、お祭りから帰ってきた兄さんはなんのまえれもなく長い長いねむりにつき、同時にわたしはこうかいという感情について同じだけの日々を数え続けていくことになる。

 七年という時間が流れ、兄さんが目覚めるその時まで。




   ☆

 昼休みになり人のいない天文部のソファにころがって天体写真の整理をしていると、ろうの方からあわただしい足音がドタドタと存在感を増しながら近づいてきた。そいつはそのままけていくことなくとびらの前で止まるなり、ガラリなんてさっきまでとはちがう音をひびかせ、ろうと部室の空間を無理やりつなげてしまう。

 光がうすぐらの中へ我先にと満ちていく。

 長方形に切り取られたまぶしさの中に、見知ったおもかげを残した見慣れない美しい少女の顔。


「兄さん、こんなとこにいた。なにしてたの?」


 となりの家に住むおさなじみまいの、妹の方であるだ。


「部活動」

「昼休みに?」

「他にやることがねぇんだよ」

「せめて上半身くらい起こしたら? 制服にしわがついても知らないかんね」


 視線をから外し、再び手元の写真へ。

 何代か前の部員はそろってズボラだったのか、あるいは不真面目だったのか、現像したまではいいもののちっとも整理されていない天体写真が、先日たなの中からごっそりはつくつされた。

 そんなわけで、に宣言したようにひまを持て余していた、現状、ゆいいつの天文部員である俺は、同じく適当に記された活動記録なんかを参照しながら、せんぱいなのかこうはいなのか、いまだ自分の中であやふやな彼らのあしあと辿たどることにしたのだった。

 から過去むかしへ。

 地層のように積もり積もった欠片かけらたちは、しばらくの間、付き合いのいい友人のように俺の時間つぶしに同行してくれそうだ。


「こっちはもう整理が終わったやつ?」


 ドアを閉じてたなながめていたが、最もせた背表紙のスクラップブックを取り出す。


「いや、そっちのだけは元から整理されてた」

「いつの?」

「……七年くらい前。この部活を立ち上げたころだな」

「ほ~ん。そっか、そっか」


 許可も取らずに、がペラペラとめくっていく。

 姉であるとはちがい、あまり天体に興味を持っていないこいつが見てもおもしろいものなんてないと思うが。という俺の考えとは裏腹に、割と熱心にスクラップブックを見ていたの指がやがてぴたりと止まった。

 最初から、なにかを探していたのかもしれない。


「やっぱりあった。絶対に残してると思ったんだよね。うっわ。このころの姉さん、改めて見るとわたしに似すぎじゃない? ふたみたい。このまま並んだら、見分けつかないかも」

まいだから当然だろ。同い年になったら、ある程度似てきてもおかしくない」

「一方、兄さんはな~んにも変わってないと」

「俺の場合は理由があるから仕方ないんだよ」


 の手元をのぞき込まなくても、どんな写真を見ているのかは分かっている。そこにはった俺との姿があるんだ。

 うれしそうにピースをしていて、一方の俺はずかしげにそっぽを向いて。

 まだおくに新しい。

 は、だから。


「七年、ねむってたわけだし」

「そうだね」


 スクラップブックが閉じる音がしたかと思うと、が近くまできていた。

 立っている彼女のりんかくれいふちった黒いかげが、俺の顔にかかりおおくす。


「兄さん、手を貸して?」


 こてん、とが首をかしげる。


「重いものでも運ぶのか?」

「いやいや、そうじゃなくて。そのまんまの意味なんだけど」