「ちょっと、遙海ちゃん。これ以上は勘弁してくれって」
「やーだ♡」
ペロッと可愛く舌を出し射的に熱をあげる遙海を残し、落ちていたミサンガを拾ってすぐに二人を追いかけた。お兄ちゃん、これ落としたよ。しょうがないんだから。お姉ちゃんも注意して見てないと。二人揃って案外抜けてるよね。もう高校生なんだから、しっかりしたら?
偉そうないろんな言葉たちが頭の中に浮かんで──。
そして、真っ白になった。
言葉は声という輪郭を得ることなく、消しゴムをかけたみたいに消えていく。
二人には簡単に追いつけた。
大通りから少し離れたところにある神社を囲う、いわゆる鎮守の森の奥で足を止めてたから。
「え?」
驚きだけが、ただただ音になって溢れる。
──時すらも止まるような静謐で神聖な星の光の下で、二人はキスをしていた。
気づいた時、わたしは泣きながら逃げていた。
そう、逃げたんだ。
目の前に広がる現実から。
「はっ、はっ、はっ」
見てはいけないものを見たことだけは分かっていて、冷たい電流に体が粟立ち、頭が信じられないくらい熱くて、胸がいっぱいになって苦しくて苦しくて苦しくて、どれだけ走ってもその苦しさを吐き出せなくて。そのくせ、痛みは熱を孕んだ液体となり瞳の内に溜まっていって。
痛いよ、苦しいよ、嫌だよ。
「はっ、はっ、はっ」
半袖から伸びる剝き出しの二の腕を、枝でひっかく。
熱が細く赤い線をわたしの肌の上に引き、ピリピリと痛い。でも、心臓はもっと痛かった。血が流れる腕の、百倍とか千倍くらい痛い。
「はっ、はっ、はあああっ。ャだぁ。嫌だ嫌だ嫌だ。うぁ」
一人になって、言葉にならない声を張りあげた。
「──あぁぁぁああああああっ。あああ、もうもうっ」
慟哭が、黒い姿をした鳥のように翼を広げ夜を渡っていく。
重い足に速度は落ち、やがて立ち止まる。
体を折り、膝を曲げ、地面に額を擦りつけるようにして泣いた。涙が、夜の闇を一層煮つめたような濃い傷痕を地面にボタボタと残していく。
知らない知らない知らない、こんな感情も痛みもわたしは知らない。
喪失だった。
悲しみだった。
悔しさだった。
手の中に握り締めていた彦星のミサンガを、一層強く握る。
濡れて真っ赤に腫れた瞳を夜空に放る。
そこには〝夏の大三角〟が輝いていた。
夏の夜空で三角形を形成するアルタイルとベガとデネブはいつも一緒で、どんな時もセットに見えた。
でも、そうじゃない。
アルタイルとベガだけは、違う側面を持っている。
アルタイルのもう一つの呼び名は彦星。
ベガは織姫。
その二つの星には夏の大三角とは違うもう一つの、彦星と織姫だけの〝七夕伝説〟があった。
兄さんは姉さんにとっての彦星。
姉さんは兄さんにとっての織姫。
じゃあ、わたしは?
きっと彦星と織姫を繫ぐカササギの尾で輝くだけの、デネブだ。
一つ断っておく。
わたしは決して仲間外れが嫌で、それだけで傷ついたんじゃない。
そんな可愛い感情なら、どれだけよかっただろう。わたしが嫌だったのは、兄さんにとっての織姫がわたしじゃなかったということだった。
兄さんという星に、わたしの指が届かないことに気づいたから。
その日、わたしはようやく自分の中にあった気持ちに名前をつけた。
初恋だった。
そして、生まれたばかりの感情は産声をあげてすぐに殺された。
失恋だった。
この日の夜、お祭りから帰ってきた兄さんはなんの前触れもなく長い長い眠りにつき、同時にわたしは後悔という感情について同じだけの日々を数え続けていくことになる。
七年という時間が流れ、兄さんが目覚めるその時まで。
☆
昼休みになり人のいない天文部のソファに寝転がって天体写真の整理をしていると、廊下の方から慌ただしい足音がドタドタと存在感を増しながら近づいてきた。そいつはそのまま駆け抜けていくことなく扉の前で止まるなり、ガラリなんてさっきまでとは違う音を響かせ、廊下と部室の空間を無理やり繫げてしまう。
光が薄暗い箱庭の中へ我先にと満ちていく。
長方形に切り取られた眩しさの中に、見知った面影を残した見慣れない美しい少女の顔。
「兄さん、こんなとこにいた。なにしてたの?」
隣の家に住む幼馴染姉妹の、妹の方である希空だ。
「部活動」
「昼休みに?」
「他にやることがねぇんだよ」
「せめて上半身くらい起こしたら? 制服に皺がついても知らないかんね」
視線を希空から外し、再び手元の写真へ。
何代か前の部員は揃ってズボラだったのか、あるいは不真面目だったのか、現像したまではいいもののちっとも整理されていない天体写真が、先日棚の中からごっそり発掘された。
そんなわけで、希空に宣言したように暇を持て余していた、現状、唯一の天文部員である俺は、同じく適当に記された活動記録なんかを参照しながら、先輩なのか後輩なのか、未だ自分の中であやふやな彼らの足跡を辿ることにしたのだった。
現在から過去へ。
地層のように積もり積もった思い出の欠片たちは、しばらくの間、付き合いのいい友人のように俺の時間潰しに同行してくれそうだ。
「こっちはもう整理が終わった奴?」
ドアを閉じて棚を眺めていた希空が、最も褪せた背表紙のスクラップブックを取り出す。
「いや、そっちのだけは元から整理されてた」
「いつの?」
「……七年くらい前。俺と千惺がこの部活を立ち上げた頃だな」
「ほ~ん。そっか、そっか」
許可も取らずに、希空がペラペラと捲っていく。
姉である千惺とは違い、あまり天体に興味を持っていないこいつが見ても面白いものなんてないと思うが。という俺の考えとは裏腹に、割と熱心にスクラップブックを見ていた希空の指がやがてぴたりと止まった。
最初から、なにかを探していたのかもしれない。
「やっぱりあった。絶対に残してると思ったんだよね。うっわ。この頃の姉さん、改めて見るとわたしに似すぎじゃない? 双子みたい。このまま並んだら、見分けつかないかも」
「姉妹だから当然だろ。同い年になったら、ある程度似てきてもおかしくない」
「一方、兄さんはな~んにも変わってないと」
「俺の場合は理由があるから仕方ないんだよ」
希空の手元を覗き込まなくても、どんな写真を見ているのかは分かっている。そこには七年前に撮った俺と千惺の姿があるんだ。
千惺は嬉しそうにピースをしていて、一方の俺は恥ずかしげにそっぽを向いて。
まだ記憶に新しい。
彼女たちにとっての七年前は、俺にとっては数ヶ月前のことだから。
「七年、眠ってたわけだし」
「そうだね」
スクラップブックが閉じる音がしたかと思うと、希空が近くまできていた。
立っている彼女の輪郭を綺麗に縁取った黒い影が、俺の顔にかかり覆い尽くす。
「兄さん、手を貸して?」
こてん、と希空が首を傾げる。
「重いものでも運ぶのか?」
「いやいや、そうじゃなくて。そのまんまの意味なんだけど」