第一話 兄さんが好きなの、と彼女は言った。 ③

「分からん。結局、俺はなにをすればいいんだ?」

「えっと。では、手をですね。パーにしてください」


 言われるがままに古い天体写真を机に放り、俺は右手を開いた。


「これでいいのか?」

「うん。じゃあ、失礼して」


 なにがしたいのか、が開いた俺の手のひらに自分の手のひらをそろそろと重ねてきた。ぴったりと合わせるように動いているが、そもそも二つの手は造りも大きさも全然ちがう。

 の指は、女性らしく細くてれいで小さかった。


「兄さんの手、大きい」

の手は小さいな」

「だけど、よりは大きくなったでしょう」

「そうだな」


 かつては俺の第一関節にすら届かなかった指の先が、今は末節の半分くらいまで届いている。整理されていない天体写真と同じだけの時間が、の中にも降り積もっている証左だった。

 えへへへ、とうれしそうにしているの顔は、本当に七年前のに似ていた。

 あいつもよくこんな風に、俺のとなりで笑っていたっけ。


「兄さんは知ってるかな? 女の子が付き合う男の子を選ぶ時の基準にね、手を合わせられるかどうかっていうのがあるんだって。絶対に無理って人とは、手を合わせられないらしいよ。逆に手をつなげるなら、キスだってできる。で、こうして強く手をつなぎたいって思ったら、それはもうこいなんだってさ」

「なにが言いたいんだ?」

「にっぶいな~。あるいはわざととぼけてる?」

「あん?」

「わたし、兄さんが好きなの」

「……は?」

「だからね、兄さん。あなたが好きです」


 いきなりの不意打ちに思考が固まる。

 反射的に体をはなそうと試みるが、かなわなかった。けてきたの方が一枚上手で、合わせていた手をぎゅっとつかまれてしまったのだ。

 さっきまでただ重なっていただけの指が、するりと俺の指と指の間にすべり込んでいた。


。絶対にがさないから」

「あ、あぁー。ええっと、よく聞こえなかったなぁ。なんて」

「七年もねむっていた兄さんは知らないだろうけど、そのし方はだいおくれだよ」

「そういうんじゃねえから」


 たんが目を細くして、ずいっと顔を寄せてくる。

 俺がソファにころがっているせいで、はたから見れば馬乗りされてるみたいに見えるかもしれない。他にだれもいなくてよかった。

 こんな姿を見られたら、言い訳の一つもできないしさ。

 ただ、はそんなことはちっとも気にしていないらしく、声が空気を押しのけ俺のまえがみらすようなきんきよで、


「あくまで聞こえなかったって言い張るんだ?」


 ぶうとくちびるとがらせている。

 がさないと言った言葉にもうそはないんだろう。

 その大きなひとみらされることなく、映る世界のほぼ全てを俺だけがめていた。


「言い張るもなにも、本当に聞こえなかったんだって」

「もう一回、言おうか?」

「どうだろうな。今日は耳の調子が悪いから」

「何回言っても聞こえないって?」

「そうそう」


 そっか、と今度のはにっこり笑っていた。げんがいい時の明るいみじゃなくて、最高にげんが悪くなった時の、まされたやいばのように冷たいみだった。

 背筋がちょっと、ゾクリと冷えた。


「そっか、そっか。そうですか。耳の調子のせいか。それなら、仕方がないね。じゃあ、兄さんはこのままちょっと待ってて。わたし、いってくるから」

「どこにだよ?」

「放送室」


 さらり、とが告げる。


「さっき兄さんに言ったことを、全校放送してくるね」

「本気で言ってんのか?」

「もち」

「待て待て待て」


 それでさえ俺は今、かたせまいっていうのにそんなことになったら──。

 考えるだけでぞっとした。

 あせる俺を、楽しそうにが見ていた。


「あれぇ? わたしがなにを言ったのか、兄さんは分からないんじゃないのかな? だったら、いいでしょ? 構わないよね?」


 ここまでてつていこうせんされると、もはや白旗代わりのため息をくしかない。

 季節は春で、息が白く染まることはないけれど。


「俺の負けだ。悪い。ちゃんと聞こえてた」

「ふふん。よろしい。じゃあ、改めて言うから今度はげずに受け止めてね。わたしは兄さんのことが世界で一番好きです。わたしと付き合ってくれませんか? 今のわたしなら、兄さんにぴったりだと思うの。どうかな?」


 そりゃ、そうだろうよ。

 俺が七年で、は美しく成長していた。

 でも、それでもだ。


「ごめんな、。俺はお前のことをそんな風に見れない。俺にとって、お前は妹みたいなもんだから。兄貴ってのは、妹をそういう目では見ないんだ」

「わたしは兄さんの本当の妹じゃないけど」

「俺は本当の妹以上に大切におもってる」

「どうしても?」

「ああ」

「わたしのお願いでも?」

「無理だ」


 のお願いならたいてい努力してかなえてきた俺だったけど、これだけはかなえてやることができない。


「分かった。まあ、そう言われると思ってたし」

「気持ちはうれしかったよ。ありがとうな」


 しゆけたとばかりに内心ガッツポーズをしつつ礼を言うと、が、うん? てな感じでどうしてか首をかしげていた。

 その反応に、俺も同じように、うん? と首をかしげてしまう。


「なんで、めでたしめでたし、みたいな空気を出してるわけ?」

「なんでって? え? 俺は今、ちゃんと返事したよな」

られたねぇ。七年の片思いがじん

「すまん」

「でも、あきらめる気はちっともないから」

「……ん? え? んんん? はぁ?」


 なにを言ってるんだ、こいつは。


「最初からそう言われるだろうってことは分かってたから、長期戦は想定済みですよ。はい。わたしのはつこいはね。今、ようやくロッシュ限界をえただけなの。そのあとはどうなるか、天文部の兄さんなら知ってるでしょ」


 ロッシュ限界っていうのは、大きい星に小さい星が近づける限界きよのことだ。

 立ち入りが許されていないそのボーダーをぼうにもえた小さな星は、ちようせき力で粉々にくだけてしまうと言われている。

 今の、気持ちこくはくみたいに。

 けれど、粉々にくだかれた星の欠片かけらたちは、それで全てが消えてしまうわけじゃない。

 主星のリングとなって、そのままいつしよに宇宙をただようんだ。

 どこまでも、いつまでも。


「お前なぁ」


 本当の意味では決してくだくことのできないその強さにあきれてしまう。

 どうやらおどろくほどしたたかでりよく的な女性へ、俺の妹分は成長してしまったらしい。


「そんなわけで、これからもよろしくね。ぐいぐいいくからかくしてて」


 ようやく手がはなされて、自由になった。顔にかかっていた少女のかげがすっと引き、の気配がそのまま遠くなり、とびらが開いて閉じる音がひびいて消える。

 なのに、手の中にはまだの存在がはっきり残っていて。

 ぬくもりもかんしよくも、十歳の子供のものじゃない。

 どころか、これからさらに彼女は美しくなっていくんだろう。

 そんな女性から愛をささやかれ続ける日々にえないといけないなんてな。


「……かなりの難題だぞ、これ」


 と、閉じたばかりのとびらがいきなり開かれて、ひょこっとが再び顔をのぞかせた。

 ビクッと思わず体がねる。


「あん? まだなにかあるのか?」

「そんなビビんなくてもいいじゃん。つうに傷つくんだけど」


 ジト、と目を細くしてにらんでくる

 仕方ないだろ、反射だったんだから。


「すまん」

「いいよ、許したげる。代わりに、今日の放課後はいつしよに帰ろ。お父さんから買い出したのまれてるの。荷物持ちしてね」

「へいへい」

「やった。デートだ」

「おい、デートじゃない」