「分からん。結局、俺はなにをすればいいんだ?」
「えっと。では、手をですね。パーにしてください」
言われるがままに古い天体写真を机に放り、俺は右手を開いた。
「これでいいのか?」
「うん。じゃあ、失礼して」
なにがしたいのか、希空が開いた俺の手のひらに自分の手のひらをそろそろと重ねてきた。ぴったりと合わせるように動いているが、そもそも二つの手は造りも大きさも全然違う。
希空の指は、女性らしく細くて綺麗で小さかった。
「兄さんの手、大きい」
「希空の手は小さいな」
「だけど、あの頃よりは大きくなったでしょう」
「そうだな」
かつては俺の第一関節にすら届かなかった指の先が、今は末節の半分くらいまで届いている。整理されていない天体写真と同じだけの時間が、希空の中にも降り積もっている証左だった。
えへへへ、と嬉しそうにしている希空の顔は、本当に七年前の千惺に似ていた。
あいつもよくこんな風に、俺の隣で笑っていたっけ。
「兄さんは知ってるかな? 女の子が付き合う男の子を選ぶ時の基準にね、手を合わせられるかどうかっていうのがあるんだって。絶対に無理って人とは、手を合わせられないらしいよ。逆に手を繫げるなら、キスだってできる。で、こうして強く手を繫ぎたいって思ったら、それはもう恋なんだってさ」
「なにが言いたいんだ?」
「にっぶいな~。あるいはわざと惚けてる?」
「あん?」
「わたし、兄さんが好きなの」
「……は?」
「だからね、兄さん。あなたが好きです」
いきなりの不意打ちに思考が固まる。
反射的に体を離そうと試みるが、叶わなかった。仕掛けてきた希空の方が一枚上手で、合わせていた手をぎゅっと摑まれてしまったのだ。
さっきまでただ重なっていただけの指が、するりと俺の指と指の間に滑り込んでいた。
「駄~目。絶対に逃がさないから」
「あ、あぁー。ええっと、よく聞こえなかったなぁ。なんて」
「七年も眠っていた兄さんは知らないだろうけど、その誤魔化し方は時代遅れだよ」
「そういうんじゃねえから」
途端、希空が目を細くして、ずいっと顔を寄せてくる。
俺がソファに寝転がっているせいで、端から見れば馬乗りされてるみたいに見えるかもしれない。部室の中には他に誰もいなくてよかった。
こんな姿を見られたら、言い訳の一つもできないしさ。
ただ、希空はそんなことはちっとも気にしていないらしく、声が空気を押しのけ俺の前髪を揺らすような近距離で、
「あくまで聞こえなかったって言い張るんだ?」
ぶうと唇を尖らせている。
逃がさないと言った言葉にも噓はないんだろう。
その大きな瞳は逸らされることなく、映る世界のほぼ全てを俺だけが占めていた。
「言い張るもなにも、本当に聞こえなかったんだって」
「もう一回、言おうか?」
「どうだろうな。今日は耳の調子が悪いから」
「何回言っても聞こえないって?」
「そうそう」
そっか、と今度の希空はにっこり笑っていた。機嫌がいい時の明るい笑みじゃなくて、最高に機嫌が悪くなった時の、研ぎ澄まされた刃のように冷たい笑みだった。
背筋がちょっと、ゾクリと冷えた。
「そっか、そっか。そうですか。耳の調子のせいか。それなら、仕方がないね。じゃあ、兄さんはこのままちょっと待ってて。わたし、いってくるから」
「どこにだよ?」
「放送室」
さらり、と希空が告げる。
「さっき兄さんに言ったことを、全校放送してくるね」
「本気で言ってんのか?」
「もち」
「待て待て待て」
それでさえ俺は今、七年ぶりの学校で肩身が狭いっていうのにそんなことになったら──。
考えるだけでぞっとした。
焦る俺を、楽しそうに希空が見ていた。
「あれぇ? わたしがなにを言ったのか、兄さんは分からないんじゃないのかな? だったら、いいでしょ? 構わないよね?」
ここまで徹底抗戦されると、もはや白旗代わりのため息を吐くしかない。
季節は春で、息が白く染まることはないけれど。
「俺の負けだ。悪い。ちゃんと聞こえてた」
「ふふん。よろしい。じゃあ、改めて言うから今度は逃げずに受け止めてね。わたしは兄さんのことが世界で一番好きです。わたしと付き合ってくれませんか? 今のわたしなら、兄さんにぴったりだと思うの。どうかな?」
そりゃ、そうだろうよ。
俺が知らない七年で、希空は美しく成長していた。
でも、それでもだ。
「ごめんな、希空。俺はお前のことをそんな風に見れない。俺にとって、お前は妹みたいなもんだから。兄貴ってのは、妹をそういう目では見ないんだ」
「わたしは兄さんの本当の妹じゃないけど」
「俺は本当の妹以上に大切に想ってる」
「どうしても駄目?」
「ああ」
「わたしのお願いでも?」
「無理だ」
千惺と希空のお願いなら大抵努力して叶えてきた俺だったけど、これだけは叶えてやることができない。
「分かった。まあ、そう言われると思ってたし」
「気持ちは嬉しかったよ。ありがとうな」
修羅場は切り抜けたとばかりに内心ガッツポーズをしつつ礼を言うと、希空が、うん? てな感じでどうしてか首を傾げていた。
その反応に、俺も同じように、うん? と首を傾げてしまう。
「なんで、めでたしめでたし、みたいな空気を出してるわけ?」
「なんでって? え? 俺は今、ちゃんと返事したよな」
「振られたねぇ。七年の片思いが木っ端微塵」
「すまん」
「でも、諦める気はちっともないから」
「……ん? え? んんん? はぁ?」
なにを言ってるんだ、こいつは。
「最初からそう言われるだろうってことは分かってたから、長期戦は想定済みですよ。はい。わたしの初恋はね。今、ようやくロッシュ限界を越えただけなの。そのあとはどうなるか、天文部の兄さんなら知ってるでしょ」
ロッシュ限界っていうのは、大きい星に小さい星が近づける限界距離のことだ。
立ち入りが許されていないそのボーダーを無謀にも越えた小さな星は、潮汐力で粉々に砕けてしまうと言われている。
今の、希空の気持ちみたいに。
けれど、粉々に砕かれた星の欠片たちは、それで全てが消えてしまうわけじゃない。
主星のリングとなって、そのまま一緒に宇宙を漂うんだ。
どこまでも、いつまでも。
「お前なぁ」
本当の意味では決して砕くことのできないその強さに呆れてしまう。
どうやら驚くほど強かで魅力的な女性へ、俺の妹分は成長してしまったらしい。
「そんなわけで、これからもよろしくね。ぐいぐいいくから覚悟してて」
ようやく手が放されて、自由になった。顔にかかっていた少女の影がすっと引き、希空の気配がそのまま遠くなり、扉が開いて閉じる音が響いて消える。
なのに、手の中にはまだ希空の存在がはっきり残っていて。
温もりも感触も、十歳の子供のものじゃない。
どころか、これから更に彼女は美しくなっていくんだろう。
そんな女性から愛を囁かれ続ける日々に耐えないといけないなんてな。
「……かなりの難題だぞ、これ」
と、閉じたばかりの扉がいきなり開かれて、ひょこっと希空が再び顔を覗かせた。
ビクッと思わず体が跳ねる。
「あん? まだなにかあるのか?」
「そんなビビんなくてもいいじゃん。普通に傷つくんだけど」
ジト、と目を細くして睨んでくる希空。
仕方ないだろ、反射だったんだから。
「すまん」
「いいよ、許したげる。代わりに、今日の放課後は一緒に帰ろ。お父さんから買い出し頼まれてるの。荷物持ちしてね」
「へいへい」
「やった。デートだ」
「おい、デートじゃない」