第1章 迷宮の誘惑 ②

「なになに……『もし、この手記が俺以外の誰かの手に渡り、読まれているのだとしたら──』これはなんだい? 助手くんの暗黒ちゆうびよう日記かい?」

「断じて違う……」変なキャラ付けをしないでほしい。「何か知らないけど、俺のストレージに入ってたんだ。全く覚えがないんだけど……どっかで拾ったんだと思う」

「ふうん」


 興味深そうに鼻を鳴らし、紙束を手に取り眺めながらテーブル向かいのソファに腰を下ろすと、黒タイツに包まれた形のいい足を組んだ。

 ちなみに大仰なコートの下は、フリルの付いたブラウスに深緑を基調としたタータンチェックのミニスカートという、にも女子高生然とした格好をしており、全体的なバランスで見るととてもちぐはぐしている。

 俺と同じように最初の数ページに目を通したスピカは、しかし俺とは異なる反応を見せる。


「こ……これは……!」


 大きなそうぼうを満天の星のようにきらめかせ、頰は興奮して赤く上気していた。背中からのぞいている長い尻尾も、そわそわしながら揺れている。そして紙面から顔を上げて俺を見ると、テーブルに両手を突いて勢いよくこちらへ身を乗り出す。


「これは事件の匂いがするね! しかも、我が事務所で最初に扱うに相応ふさわしい怪事件だ!」

「──紅茶冷めるぞ」


 冷静に突っ込むと、スピカは慌てたように、


「むっ……それはもったいない。せっかく買ったシュークリームも耐久値が切れては惜しい。ひとまずはティータイムとしや込もうか」


 改めてソファに座り直し、スピカはシュークリームを片手に紅茶を飲み始めた。

 ALOの世界では、アイテムに耐久値と呼ばれるパラメータが設定されており、オブジェクト化──つまり、ストレージから取り出して実体化させたままにしておくと、徐々に耐久値は減っていく。そして耐久値がゼロになった瞬間、アイテムは消失する。

 幸運に恵まれて購入できた人気のシュークリームが、味わうことなく消えてしまったら誰でもショックだろう。

 シュークリームにかぶりついたスピカは、途端にこうこつとした表情を浮かべた。


「んーっ! カスタードと生クリームの上品な甘さが絶妙なハーモニーをかなでているね! 素晴らしい仕事だ……! これはるのもうなずけるね!」


 仮想世界での味覚は、《味覚再生エンジン》と呼ばれるシステムによって再現されている。ゲーム内の飲食で実際に腹が膨れることはないが、不思議と満腹感のようなものは得られ、しかもその感覚は現実世界へ戻っても一定時間持続する。そのためダイエット目的で仮想現実を利用する人もいるのだとか……。

 俺もスピカにならい、シュークリームをかじってみる。口の中いっぱいに広がる卵とミルクとバニラの繊細な風味は、とても電子的に生み出されたにせものの味とは思えない。


「……いな」


 思わずつぶやくと、対面のスピカはうれしそうに目を細めた。


「それはよかった! 是非味わって食べたまえ。もちろん、代金を取ろうなんて思っちゃいないよ。これも我が社の福利厚生だからね」

「それ以前に給与も賞与ももらってないけど……」

「ない袖は振れないからね! それもこれも、依頼人が来ないこの平和すぎる世界が悪い!」


 悪びれもなくそう言って、スピカは快活に笑う。

 彼女は、小さな頃からと呼ばれる謎と探偵の物語を偏愛しており、それが高じてついに自分を名探偵だと思い込むようになった厄介な一般女子高生だった。その結果、このALOの世界で、長年の夢であったらしい《しんじゆぼし探偵社》という探偵事務所を開くに至っている。まさに今俺たちがのんびりとお茶をしているこのあばら家がその事務所だ。

 が、当然実績など何もない一般人なので、依頼人など来るはずもなく、日々かんどりが鳴いている次第だった。ちなみに俺は、おさなみということで、彼女の趣味に付き合わされ、《助手》などと呼ばれている。


「──それにしても」


 早々にシュークリームを平らげたスピカは、二杯目の紅茶を飲みながら再びテーブルの上の紙束に目を向けた。


「イタズラにしても手が込んでるね。しかも、あの《ソードアート・オンライン》を引き合いに出すとは……悪趣味にも程がある」


 僅かに顔をしかめて、彼女は帽子からはみ出た猫のような耳を揺らした。


 ──《ソードアート・オンライン》。

 ALOよりも先、ナーヴギアの発売から半年後に公開された世界初のVRMMOタイトルだ。

《巨大浮遊城アインクラッド》と呼ばれる、全百層からなる巨城の中で展開される広大なフィールドを、インターネットを介して世界中の人々と共に、剣の力だけを頼りに冒険するというかなりハードなロールプレイングゲームである。

 世界初の本格的な仮想現実のRPGということで話題になり、初回ロットの一万本はまたたに市場から姿を消した。幸運なことに転売のじきにもならず、サービス開始の午後一時過ぎには接続率が九十五%を超えていたというのだから、人々がに熱狂してこのゲームをびていたのかがよくわかる。

 ところが。

 サービス開始から数時間が経過したところで異変が起こった。ゲームサーバにログインしていたプレイヤーがログアウト──つまり、ゲーム内の仮想世界から肉体のある現実世界へ帰って来られなくなっていたのだ。当然運営はすぐにこのトラブルを把握。直ちにサービスの一時停止とプレイヤーの強制ログアウトを実行しようとするが……この段になりいよいよ本格的に事態は深刻化していく。

 このログアウト不可は、《ソードアート・オンライン》──SAOの開発ディレクターかやあきひこが仕掛けたある種の仕様であった。その上で、外部から回線を切断する、ナーヴギアの電源を落とすなど、プレイヤーのゲーム進行を妨げる行為を行うと、ナーヴギアから高出力マイクロウェーブが発生し、装着者の脳を焼き切ってしまうことが判明した。

 にわかには信じがたかったが、実際にそれらの行為が行われた結果、全世界で数百名以上の犠牲者が出てしまったのだから、人々はこの悪夢のような現実を認めるしかなかった。

 かやはナーヴギアの基礎設計にも携わっており、この犯行はかなり以前から綿密に計画されていたであろうことがうかがえた。

 かやが運営、警察、マスコミに出した声明によると、ゲーム内にとらわれたプレイヤーは、ゲーム内で死亡すると同じように肉体も脳が焼かれて死亡するのだという。彼らが無事に生き残り目を覚ますには、ゲーム内で次々に襲い掛かる試練を乗り越えて、見事最終ステージである百層をクリアする必要があるのだとか。

 つまりかやあきひこは、自らが生み出した仮想現実の世界に、一万人近い人々を幽閉したのだ。

 たいの大量殺人犯となったかやは行方をくらませ、その二年後の二〇二四年十一月七日、閉じ込められていたプレイヤーたちによってようやくゲームがクリアされた後に、長野の山奥で遺体となって発見された。

 最終的に、ゲームがクリアされるまでに犠牲になった人は、四千人を超えていたという──。


「でも、実際のところ、SAOの世界で書かれたテキストファイルが、何かの拍子にこっちのALOの世界に紛れ込む、みたいなことはないのか?」

「あり得ないね」澄まし顔で断言をして、ケットシーの少女は優雅に紅茶をすする。「そもそも両者はシステム的に完全に独立している。ALOはSAOと同じ基幹の《カーディナル・システム》を使っているらしいから、システム的な仕様の多くは共通しているけど、アイテムみたいなユーザーデータがこちらに紛れ込む余地はないよ」


 自信ありげに言うからには、きっとそれは事実なのだろう。


「ならこれは、最初からALOの世界で書かれたってことか」

「それが論理的帰結だね。しかし問題は、、だ」


 ほしくずそうぼうを好奇心にきらめかせてスピカは続ける。


「結局、この手記はその一言に尽きる。まだすべてに目を通したわけではないので確かなことは言えないが、手記の記述者は、SAO内で未知の殺人事件が起きていたと主張したいらしい。それが事実であれ虚構であれ、わざわざSAO内で書かれたように偽っているのか、それこそが最大の謎と言えるね。助手くんが知らないうちに所持していた、というのも不思議と言えば不思議だけど……。まあ、どこで入手したのか覚えていないアイテムがストレージに入っていることなんてゲームではよくあることだし、それほど気にすることでもない」


 上機嫌に言って、スピカはふところから焦げ茶色のパイプを取り出してくわえた。先端からはぷかり、ぷかりと煙──の代わりにシャボン玉が浮かんでいく。あれは格好付けで使っているだけのパイプ型シャボン玉ストローである。

刊行シリーズ

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ソードアート・オンライン28 ユナイタル・リングVIIの書影
ソードアート・オンライン オルタナティブ ミステリ・ラビリンス 迷宮館の殺人の書影
ソードアート・オンライン オルタナティブ グルメ・シーカーズの書影
ソードアート・オンライン IF 公式小説アンソロジーの書影
ソードアート・オンライン27 ユナイタル・リングVIの書影
ソードアート・オンライン26 ユナイタル・リングVの書影
ソードアート・オンライン プログレッシブ8の書影
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ソードアート・オンライン23 ユナイタル・リングIIの書影
ソードアート・オンライン22 キス・アンド・フライの書影
ソードアート・オンライン21 ユナイタル・リングIの書影
ソードアート・オンライン プログレッシブ6の書影
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ソードアート・オンライン20 ムーン・クレイドルの書影
ソードアート・オンライン19 ムーン・クレイドルの書影
ソードアート・オンライン18 アリシゼーション・ラスティングの書影
ソードアート・オンライン17 アリシゼーション・アウェイクニングの書影
ソードアート・オンライン プログレッシブ4の書影
ソードアート・オンライン16 アリシゼーション・エクスプローディングの書影
ソードアート・オンライン プログレッシブ3の書影
ソードアート・オンライン15 アリシゼーション・インベーディングの書影
ソードアート・オンライン14 アリシゼーション・ユナイティングの書影
ソードアート・オンライン プログレッシブ2の書影
ソードアート・オンライン13 アリシゼーション・ディバイディングの書影
ソードアート・オンライン12 アリシゼーション・ライジングの書影
ソードアート・オンライン11 アリシゼーション・ターニングの書影
ソードアート・オンライン プログレッシブ1の書影
ソードアート・オンライン10 アリシゼーション・ランニングの書影
ソードアート・オンライン9 アリシゼーション・ビギニングの書影
ソードアート・オンライン8 アーリー・アンド・レイトの書影
ソードアート・オンライン7 マザーズ・ロザリオの書影
ソードアート・オンライン6ファントム・バレットの書影
ソードアート・オンライン5ファントム・バレットの書影
ソードアート・オンライン4フェアリィ・ダンスの書影
ソードアート・オンライン3フェアリィ・ダンスの書影
ソードアート・オンライン2アインクラッドの書影
ソードアート・オンライン1アインクラッドの書影