第1章 迷宮の誘惑 ④

 同じくクラスメイトの山下だった。メタルフレームの眼鏡を掛けたいわゆる理系男子で、寡黙だが芯を食った一言をよく言うので一目置かれている。普段ならばそのまま騒ぐ上田をたしなめるところだったが、か今日は興味深そうに俺を見て言った。


「しかし、男の影を見せないあの完全無欠の会長が、えんどうだけは気に掛けているように俺も思う。やはりかの才女も、《英雄》の魅力にはかなわないか」

「……そんなんじゃない」珍しくじようぜつな友人の言葉にため息をこぼす。「あと頼むから俺をその名で呼ばないでくれ……」


 えんどう英雄。《英雄》と書いて、『てせうす』と読む。当然、ギリシア神話に登場するアテナイの大英雄テセウスから来ている。

 恐るべき、キラキラネーム。まあ、世の中には《皇帝》と書いて、『しいざあ』と読ませる場合もあるらしいので、それと比べたらいい勝負だ。

 ……いい勝負など、初めからしたくなかったけれども。

 ちょうどそこで予鈴が鳴った。上田と山下は、自分の席へと戻っていく。タイミングがよくて助かった。俺としてもこの件はあまり掘り下げられたくない。

 やがて教室に現れたのは、物理教師だった。一限目からの物理は……正直しんどい。

 物理教師の口からつむがれる、眠りの呪文にも似た言葉を子守歌に、俺の意識は次第にまどろんでいった。



 かったるい四限目までをどうにかやり過ごして、ようやく昼休みに入った。俺はクラスメイトからの誘いを断り、母が作ってくれた弁当を片手にふらふらと教室を出た。廊下は早くもにぎわい始め、購買目当てとおぼしき生徒たちが目の色を変えて階下へ駆けていく。

 御苦労なことだ、とそんな彼らを横目に見ながら、俺は本校舎を抜けて別館の部室棟へ入る。さすがにこの時間の部室棟は静かで大変過ごしやすい。

 様々な部活名の書かれたプレートが両側に立ち並ぶ廊下を突き進み、目的の《哲学部》の前で足を止めた。

 さすがにまだ来ていないだろう、とは思いつつ念のためにノックをしてからドアを開ける。


「いらっしゃいえんどうくん。今日も私のほうが早かったですね」

「…………」


 先客がいた。しかも、取り立てて急いできた様子もなくのんびり紅茶など飲んでいる。

 おかしいな……授業終わって最速で来たはずなんだけど……。

 納得のいかないものを感じながらも、後ろ手にドアを閉めて現実を受け入れる。


「……お邪魔します、会長」


 部室のソファにゆったりと腰を下ろしていたのは、完全無欠の生徒会長、つくしずくその人なのだった。ちなみに、この哲学部の部長でもある。

 俺は半ばあきれながらいつものようにテーブルを挟んで向かい側のソファに腰を下ろす。


「どうしていつも俺より先に部室へ来られるんですか……俺だってかなり急いでるのに」

「生徒会長たるもの、常に生徒たちの規範として素早く行動しているのですよ」


 答えになっていない。困惑していると、会長はティーカップをソーサに戻して、どこか不機嫌そうに唇をとがらせる。


「二人のときは『会長』禁止、といつも言っているでしょう。普段どおりにしてください」

「……でも、学校だと人目が気になるんで。あと先輩に敬語使うのは普通です」

「今はお昼休みですよ。こんな文化部の隅っこなんて誰も来やしませんよ」


 そうかもしれないけど……朝のようにどこで誰に見られてるかわかったものではない。

 葛藤が募るが、目の前で悲しげに瞳を揺らされると、余計な保身はどこかへ霧散していく。


「──わかったよ、しずく


 早々に諦めて名前を呼ぶと、会長──しずくは、とてもうれしそうに口元に三日月を浮かべた。


「よくできました! えんどうくんはいい子ですね! アメちゃん要りますか?」

「いらねえ……」


 相変わらずの子ども扱いにへきえきする。小さな頃から、ずっと変わらない扱い。

 そう、完璧超人の生徒会長ことつくしずくは──俺のおさなみなのであった。

 つまり、この人望あふれる生徒会長様こそが、《真珠星探偵社》の自称名探偵のケットシー族、スピカなのである。

 見た目もキャラも違いすぎるので、にわかには信じがたいけれども……残念ながら紛れもない事実だ。どちらの状態も知っている俺でさえ、たまに別人なんじゃないかと思うときがある。

 世の不条理を嘆いている俺を尻目に、しずくは本棚の奥の隠し戸棚から二台の次世代VRヘッドギア──アミュスフィアを取り出した。ナーヴギアの後継機に当たる安全なものだ。

 どういう事情があるのかは俺自身よくわかっていなかったが、哲学部の部室にはALOを遊ぶためのVR機器が二台分そろえてあるのだった。


「え? 何やってんの? 飯は?」


 率直な質問。しずくはあっけらかんと答えた。


「ごはんならで食べればいいかなあ、って。それよりも例の手記が早く読みたくて」

「…………」


 ゲーム廃人が過ぎる。VR空間内での飲食によって満腹中枢が刺激されるとは言っても、体内には一切の栄養が入って来ないのだから身体からだにいいはずがない。

 俺はため息交じりにソファから立ち上がり、しずくを手伝いながら告げる。


「……わかったよ。先に行って軽く例の手記に目を通してから、早めに切り上げてこっちでちゃんと飯食うぞ」

「ええー」不服そうにまた唇をとがらせる。「ごはんよりゲームですよ。健康など二の次です」

「黙れ廃人。生徒会長なんだから生徒の規範になれ」

「ちぇー……わかりましたよう」


 まだふて腐れてはいたが、しずくはしぶしぶ提案を受け入れた。これが学校中からせんぼうを集める麗しの生徒会長様の本性だというのだから、何というか泣けてくる。好きなことにとことんのめり込むだけの子どもなのだ。俺を子ども扱いしている場合ではない。

 手早く準備を終えたところで、俺たちは改めてそれぞれのソファに座り直して、リクライニングさせる。座ったままでも問題はないが、背中を預けたほうがダイブ中は安定するためだ。

 お互いアミュスフィアをかぶり、心を落ち着けるために一拍置いてから、ほぼ同時につぶやいた。


『──リンク・スタート』




【謎の手記・第1節】


 この呪われた石と鉄の巨城《アインクラッド》の片隅で、俺たちがその未踏破ダンジョンを見つけたのは、サービス開始から間もなく一年がとうとしていた九月二十三日のことだった。

《他人のやってるRPGをはたから眺めるほど詰まらないことはない》というゲーマーたちのある種の共通認識が、に薄っぺらい冗句であったのかを、まざまざと思い知らされる日々。

 近頃は、いい加減プレイヤーもこのとらわれの現実を受け入れて、皆思い思いに生活していた。

 解放される日を夢見て、危地に身を置いて攻略を進める者。解放を夢見ながらも、目の前にある死から顔を背けるように《けんない》に籠もる者。あるいはそれ以外の選択をした者──。

 俺たちのギルド《アルゴナウタイ》は、広義の意味では攻略組に属するのだろうが、厳密な意味で最前線にいるわけではない。鍛え上げたステータスでフロアボスモンスターを撃破するのは、本当に一握りの最前線プレイヤーたちの仕事。

 俺たちの使命は、そんな最前線プレイヤーたちの生存確率を、わずかでも上昇させるための《情報》を収集することだ。

 この日も、俺たちは情報収集のためすでに踏破済みであった二十層の調査を行っていた。

 まだみんな勝手がわからなかった頃、第一層の攻略には一ヶ月もの時間が費やされ、その時点ですでに二千人を超える犠牲者を出してしまっていたが、最近では犠牲者の数は激減し、攻略ペースも上がってきていた。フロアによっては、わずか数日で踏破されることも珍しくないほど、攻略組最前線プレイヤーたちの練度は上がっていたのだ。

 反面、一つのフロアに掛ける時間が相対的に減ってしまったため、各フロアの広大なマップも、攻略に必要な箇所以外は手付かずになることも増えてきた。

 だが、そういう場所にも、直接攻略の役には立たないかもしれないが、重要なアイテムやクエストが隠されていたりするかもしれない。

 この《アインクラッド》を制御している《カーディナル・システム》には、《クエスト自動生成機能》なるものが備えられているとも聞く。これは、AIがインターネットを介して世界各地の伝承などを収集し、それらを下敷きにしたオリジナルのクエストを自動で導入するものなのだという。

 つまり、この世界では日々クエストが生成されており、ともすれば攻略組の生存確率を上げることに寄与できるようなアイテムやクエストが新たに発見されるかもしれないため、俺たちは常にアンテナを張り巡らせて、情報収集を行っているのだった。

 だからこの日──二十層の《ひだまりの森》の片隅で、見知らぬ洋館を発見したときは、皆色めき立った。


「──《ひだまりの森》にこんな不穏な洋館が建ってるなんて話、聞いたことないっすね」

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