第1章 迷宮の誘惑 ⑤

 オルフェウスが、いつもの軽口を飛ばした。剣士というよりは吟遊詩人のようなラフな格好をした男だが、ムードメーカーとしていつも俺たちの仲を取り持ってくれるなくてはならない存在だ。

 しかし、そんな根明な男の口から、不穏などという言葉が飛び出すほど、実際にその洋館からはただならぬ気配が漂っていた。

 この辺りは随分と森が深くなっており、日の光も届きづらく日中の今でもかなり薄暗い。そんな中に突然現れた、にも古めかしい石造りの建物は、まるで童話に出てくる悪い魔法使いのすみにも見えて何とも不気味だった。

 館の入口には、薄汚れた金属プレートが貼りつけられ、《迷宮館》などと仰々しく記されている。名前からして、ただの民家ではない。

 彼の隣に立つカイニスが、不敵に口元をげて言った。


「──見てみろよ、そこの立て看板。面白いことが書いてあるぜ」


 どこか皮肉っぽいハスキーな声に釣られて、少し離れたところに設置されていた看板に目を向ける。

 幾分朽ちたにも手作り然としたチープな看板には、刻み文字が記されていた。


『Abandon all "HOPEs", those who enter in the labyrinth.』


 それを一目見て、オルフェウスが悲鳴にも似た声を上げた。


「英語はやめてくれぇー。先生、なんて書いてあるんすかぁ!」


 先生と呼ばれた男──アスクレピオスは、一歩進み出て眼鏡のブリッジを押し上げた。


「『迷宮に足を踏み入れる者、すべての希望を捨てよ』ってとこかな。オルフェウス、本気で音楽で食っていくつもりなら、英語もちゃんと勉強しないと駄目だよ」

「ちぇー……。先生は厳しいなあ」


 現実での本業が医師であるアスクレピオスにとっては英語など容易たやすいのだろうが、高校を中退してメジャーデビューを目指すバンドマンをやっているオルフェウスには、中々難しいらしい。

 助けを求めるようにオルフェウスは、年下の少女に水を向ける。


「アタランテちゃんも読めんかったっすよね? そうっすよね?」

「──いえ、読めましたよ」落ち着いた声でアタランテは答えた。「高校レベルだと思いますけど……オルフェウスさん、本当に途中まででも高校行ってたんですか?」

「うんにゃ。ほぼ行ってなかったっすね。だってそんなのロックじゃないっしょ?」

「……意味不明です」


 あきれたようにため息を吐く少女。見かねたようにヘラクレスが割って入った。


「まあ、俺もよくわからないし、そんなに気を落とすな。筋肉があれば英語なぞ不要だぞ」

「うわぁー! 脳筋の旦那に慰められるとかいよいよおしまいじゃないすか! やっぱ現実戻ったらちゃんと英語勉強しますわ!」


 オルフェウスが叫ぶと、周囲から自然と笑みがこぼれた。いいチームだな、と改めて思う。

 実際、この《アルゴナウタイ》は、非常にバランスの取れたパーティーだ。

 前衛が、両手剣の俺と、片手剣のカイニス。カイニスは一見するときやしやな女性だが、心は男性という少々複雑な背景を持っている。システム的には女性と認識されているカイニスだったが、このパーティーでは彼の望むとおり男性として扱われている。実際、彼の剣技は力強く豪快で、女性的なたおやかさとは無縁だった。今では、共に前線を守るよき相棒となっている。

 後衛は、短剣のアタランテとやりのオルフェウス。

 アタランテは、小柄でにも生真面目そうな黒髪の少女だ。デスゲームが始まったときには高校一年生だったという。全国大会に出場したほど弓道にひいでているらしいが、SAOには弓がないため現在は、短剣メインに加え、ピックなどのとうてき武器でのサポートに回っている。

 オルフェウスは、二十五歳のバンドマンだ。インディーズバンドとしてはそこそこの知名度を誇っており、メジャーデビューも夢でなかったらしい。金色に染めた髪をだらしなく肩まで伸ばしており、見るからにだるげな男だが、これで意外と真面目で仲間おもいのいいやつだった。

 そして両手斧持ちのヘラクレスはタンク役で、細剣使いのアスクレピオスはブレイン担当だ。

 ヘラクレスは、筋骨隆々の大男。本業では消防士をしているというので、それによってつちかわれた急場の判断力は俺たちの重要な生命線の一つになっている。身体からだが大きく、また基本的に寡黙であるため一見すると威圧感があるが、性格は非常に穏やかで情にあつい。パーティーの頼れる『兄貴』的な存在だ。

 アスクレピオスは、細面の美男子だ。二十八歳の外科医ということで、現実では大層モテそうだが、本人はかなり重度の廃人ゲーマーで色恋に一切の興味がないらしい。その地頭のよさをかし、パーティーの頭脳として非常に重宝している。

 SAOの世界では現実の視力は無関係だが、メタルフレームの眼鏡を掛けている。本人いわく、現実でも常に掛けているものなので、ないと落ち着かないらしい。眼鏡は命の次に大事なものなのだとか。ちなみに、命中補正なども付いていない完全なファッションアイテムだ。

 皆、元前線の攻略組だったこともあり、練度も高く、探索でも戦闘でも非常に頼もしい。

 彼らのリーダーである俺──イアソンが一番、何の取り柄もない一般人で申し訳ないくらいだが……ありがたいことに皆俺を慕ってくれていた。

 さて──、と意識を改めて、怪しげな立て看板に目を向ける。

 すべての希望を捨てよ、か。

 物々しいが、ある意味お約束の文言とも言える。おそらく館に入ると、特別なクエストが開始されるのだろう。どうしたものか、と腕組みをしてしばし考え込む。

 未知のクエストに臨むときには、必要以上に安全マージンを取る必要がある。ならこの世界ではちょっとした不注意から簡単に──人が死んでしまうからだ。

 様々な法律によって守られている現実より、よほど死にやすいとさえ言える。

 俺は日本という国で生まれ育ち、これまで人並みに法律や政治に不満を抱いていたが、この無法の異世界に放り込まれて、初めて自分の生まれ育った世界がに安全で尊いものだったのかということを思い知らされた。

 人が生まれながらに持つ、ただ生きるという権利を当たり前に行使できる世界。街の外に出ても、理不尽に殺されることがほぼない夢のような世界。

 だが、そんな安寧の日々は──突然終わりを迎えた。

 無慈悲に、容赦なく。

 だから俺は、ギルドのリーダーとして、パーティーのみんなが絶対に死ぬことのないよう、冷静かつ的確に状況を判断していかなければならない。俺の小さな判断ミス一つで、全員が死んでしまう可能性すらあるのだから、それは慎重にもなる。

 しかし、それと同時に慎重になりすぎるわけにもいかない。どれだけ安全マージンを取ったところで、誰かが死ぬ確率がゼロになるわけではないためだ。誰も死なないようにするためには、システムによって安全が確保された街の中──つまり《けんない》に立て籠もるしかないが、それではいつまでっても攻略が進まず、俺たちがこのデスゲームから解放される日がとお退くばかりだ。

 つまり、ある程度のリスクを許容しなければ、俺たちは永遠にこの世界にとらわれてしまうことになる。しかも、医師のアスクレピオスによると、それは永遠ではないという。

 俺たちがSAOの世界にとらわれている間、現実にある俺たちの肉体は完全な寝たきり状態になっているわけだが、そんな不自然な状態は本来人体にとっては想定されていないため、早ければ二年もたないあたりから肉体的限界を超えた人がくなっていく可能性があるという。

 寝たきり状態により体力と免疫力が低下したところで、じよくそう──いわゆる床ずれなどから感染症を起こし、最終的に死に至るらしい。

 早くて二年、保って三年。

 そんな見立てを現役の医師に出されてしまったら……多少のリスクは取らざるを得なくなる。座してただ死を待つことなど、俺にはできない。

 だから慎重にマージンを取りながらも、時には大胆に決断する。

 みんなの命を預かるリーダーとして、俺は常にぎりぎりの判断を求められるわけだが……。

 俺は目の前の怪しげな洋館を見つめながら思案にふける。

 事前情報になかったこのダンジョンが未踏破であることはほぼ確実なので、クエストの内容次第では貴重なアイテムが手に入る可能性は高い。もし、攻略を優位に進められるようなアイテムが手に入れば……俺たちがこのデスゲームから生還する確率だって必然的に高くなる。

 そして何よりも──未踏破ダンジョンのクエストをクリアして貴重なアイテムを持ち帰ることで、最前線の攻略に寄与したというささやかな栄誉も得られる。

 ここで一旦引いてしまえば、他のパーティーに先を越されてしまうかもしれない。

 ──結局のところ、そんなことを判断基準に盛り込んでしまう程度には、俺も廃ゲーマーなのだろう。


「……行くか」


 俺の決断に、皆色めき立った。


「そうこなくちゃな、相棒!」上機嫌に背中をたたいてくるカイニス。


「アイテム取り尽くしてやるっす! 今夜はごそうっすね!」オルフェウスもそれに続く。

 対して、アタランテはどこか不安そうだ。

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