第1章 迷宮の誘惑 ⑥

「……でも、何の準備もなく突入して大丈夫でしょうか? 一旦立て直しても、こんな辺境ならそう簡単に他のパーティーには見つからないと思いますが……」

「そうかもしれないが、それも絶対じゃない」アスクレピオスはまた眼鏡の位置を直す。「それに僕たちは最前線の三十層台後半だって十分に戦えるレベルと練度がある。二十層のダンジョンなんて楽勝だろう」

「それはそうかもしれませんが……」


 まだ不安げにうつむくアタランテ。俺は彼女を安心させるために優しくほほみかけた。


「──大丈夫だ、俺を信じろ」


 それは俺の口癖だった。どんなに不安なときだって、その言葉を口にするだけで、不思議と力が湧いてくる。みんなもきっと耳にタコができるくらい聞かされ続けているので、またか、というふうに苦笑する。狙いどおりアタランテの不安も、多少は和らいだようだ。


「何があっても、俺が責任を持ってみんなを守るよ。それに強い敵が出てきたなら、ヘラクレスの陰に隠れればいい。ウチの最強タンクはじゃないさ」


 期待を込めてヘラクレスを見やると、彼は分厚い大胸筋を自信満々にたたいた。


「ああ、イアソンの言うとおりだ。俺が誰も死なせやしないさ」


 その言葉で、少女の顔に苦笑が浮かんだ。


「……わかりました。でも、守られるばかりの私ではありませんよ。とおなら私が一番強いんですから、皆さん私のことも頼ってくださいね」


 パーティー全員、覚悟は決まったらしい。

 一度皆で顔を見合わせて思い思いにうなずいてから、俺を先頭にして未知なるダンジョンの中へ足を踏み入れていった。


 ──事前の警告どおり、すべての《希望》を置き去りにして。



 ──そこまで読んだところで、俺たちは一度学校の部室へ戻ってきた。

 昼休みは短い。あまりVRの世界に長居をしてしまうと、昼食を食いっぱぐれてしまうため、早めに引き揚げてきたのだった。

 本気で昼食の用意を何もしてこなかったしずくに、弁当を半分分け与えると、


「わあ、えんどうくんのお母様の手料理です! 卵焼きが絶品なのですよねえ……!」


 などとのたまいながら至極幸せそうな顔で、弁当をかき込んでいった。先ほどは食事よりゲームが大事だと言っていたのに現金なものだ。

 時間も惜しいので、俺もありがたく弁当を食べながら、先ほどまでの内容で気になった部分を振り返ってみる。


「なんか日記というよりは、回顧録みたいだったな。誰かに読まれることを想定してるっていうか」


 そうだね、としそうにタコさんウィンナーをかじりながらしずくは同意した。まだ意識が半分向こうの世界へ行っているのか、口調がケットシー族の自称名探偵に戻っていた。


「システム的にはあり得ないことだけど、ひとまず、あの文章は《本当にSAOで書かれたものである》という前提で話を進めていこうか。そのほうが面白いからね。さて、その場合、もしかしたら記述者はあえて日記に詳細な説明や描写を増やすことで、SAOクリア後に備えた記録を取っていたのかもしれない」

「記録?」

「だって、SAOがクリアされて現実の世界で目覚めたら、中で起こっていたことを可能な限り正確に、外の人間に説明する必要があるだろう? 彼らがSAOの世界にとらわれている間、自分たちの行動が外から観察されている保証なんてなかったし、実際にそれはできなかった。下手なことをして人質たちの脳を焼かれてしまったら大変だし、誰もそんな重大な責任は負えなかった。ならばと保険の意味も込めて、詳細な記録を取っていた者がいたとしても不思議じゃないよ。実際、『SAO事件記録全集』なんて本も出版されてるし」


 事件の後、SAOサバイバー、つまりSAO帰還者によって執筆された『SAO事件記録全集』は、世界中で大変な注目を集めたと聞く。もしかしたら、将来的な小遣い稼ぎのためにも、中で詳細な記録を取っていた者は結構いたのかもしれない。

 不幸にもゲームクリア後、サーバに残されていたすべてのデータは消去されてしまったため、せっかくの記録を外部へ持ち出すことはかなわなかったようだが……少なくとも詳細な記録を取ることは記憶の定着にもつながるため、決して無駄な行動ではなかっただろう。

 ならばこの手記は、そんなSAOサバイバーのALOプレイヤーによって書かれたということなのだろうか……?

 と、そこでようやく自らの口調の違和感に気づいたのか、照れたように頰を染めてしずくはわざとらしくせきばらいをした。


「──とにかく、どころや出典に関しては今考えたところで答えは出ないでしょう。重要なのは、です。この手記がどのような結末を辿たどるにせよ、それが遊び半分でこの件に首を突っ込んでいる私たちの義務です」

「遊び半分はしずくだけだと思うけど……」


 俺の真っ当なつぶやきはさらりと無視された。


「そういえば、『SAO事件記録全集』によれば、ゲーム内のアバターはキャラクリエイトされたものではなく、現実の容姿だったのですよね」


 通常、MMOで自分の分身となるアバターは、メーカーから用意された様々なパターンの中からモンタージュ写真のように組み合わせて作られる。

 SAOも本来は、豊富なパターンから性別を含め自由にキャラクリエイトできる仕様だったはずだが、デスゲームが開始された時点で現実の容姿に戻されてしまったらしい。なお、性別を偽り、男性であるにもかかわらず女性キャラを使用していたプレイヤーも多かったようで、現実の容姿に戻された瞬間、きようかんの地獄絵図だったのだとか……。

 ちなみにALOの場合、アバターは性別以外、完全にランダムで自動に作られる。スピカとしずくが全く似ていないのと同様に、俺もまた全く別人の顔の男性アバターになっている。なお性別は、肉体的つまり生物学的なものに固定され、変更することは不可能だ。


「現実の容姿にされた話は、俺も聞いたことあるけど……眉唾だろ。実際に可能なのか、それ?」

「正直、私も半信半疑ではありますが……不可能ではないと思います。顔はナーヴギアで覆われていたわけですから、測定は容易でしょうし、身体データも初めのキャリブレーションで収集可能でしょう。実際、一部のVRタイトルではアミュスフィアによる生体スキャンで、現実の容姿に近いアバターが設定されます。技術的なハードルはそれほど高くありません」


 キャリブレーションというのは、ヘッドギアを過不足なく動作させるために必要な、個人に合わせた微調整のことだ。


「おそらくそれも、開発ディレクターかや氏のこだわりだったのでしょうね。VR世界が本物の異世界なのだとしたら、人工的に作られたアバターなど無粋の極みです」


 そういうものなのだろうか。俺にはそのこだわりが理解できない。

 でも──と、自分の手を見つめる。現実の、本物の自分の手だが、VR世界から戻ってきてすぐだと、妙に現実感が薄くて、まるで自分の手ではないように感じてしまう。そう考えると、人間の脳が現実を正しく理解することに、自分の容姿というものが、全くの無関係ではないような気もしてくる。

 そのとき、不意にしずくが見つめていた手に触れてきた。温かく、柔らかな感触が伝わってくる。


「──大丈夫ですよ。ここは紛れもなく現実です」


 間近できらめくしずくそうぼうを見て、急に胸のつかえが取れたような気がした。

 そうだ……。このぬくもりも、芳香も、すべて現実のものだ。

 そんな当たり前のことに今さら気づくと、何だか急に気恥ずかしくなってきた。

 俺は努めて冷静をよそおいながら、おどけてみせる。


「……ここが現実かどうかなんて、高校生らしい哲学じみた問いだな」

「おや、えんどうくんはお忘れかもしれませんが、ここは哲学部ですよ? 哲学的思索にふけるのはむしろ当たり前のことです」


 そういえばそうだった。完全にVRゲーム部だと思ってたわ……。


「というか、どうして哲学部の部室にVR機器がそろってるんだよ。しかも二つも」


 純粋な質問だったが、しずくは下らないことを問うなとばかりに肩をすくめた。


「今さらですねえ。そんなもの、現実と仮想現実を比較しそこに抽出、投影された事象の差異を主観的に認識することで現実性の本質を探るために決まっているではありませんか」

「ちょっと何言ってるかわからない」


 するとしずくは、急に茶目っ気たっぷりにちろりと赤い舌をのぞかせて言った。


「──会話の途中で、相手をけむくのは名探偵の特権なのだよ、助手くん」


 つん、と人差し指で俺の額を軽く突いて、しずくは上機嫌に立ち上がる。


「さて、この続きは放課後にしましょう。手記も気になりますし。お弁当、分けてくれてありがとうございました。お母様にもしかったですとお伝えください。それでは、いつもの時間に《フリーリア》中央広場の噴水前で」


 言いたいことだけを言って、しずくはさっさと部室を出て行ってしまった。

 その細身の背中を視線だけで見送ってから、半ば無意識に額に触れてみる。先ほどしずくに突かれた箇所から波紋のように広がる甘い感触がまだ残っていた。

 そこに紛れもない現実性をいだして感慨にふけっていた俺だったが──そんな慣れない哲学的思索は、遠くから響いた五限目の予鈴によってあつなく打ち消された。

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