第1章 迷宮の誘惑 ⑥
「……でも、何の準備もなく突入して大丈夫でしょうか? 一旦立て直しても、こんな辺境ならそう簡単に他のパーティーには見つからないと思いますが……」
「そうかもしれないが、それも絶対じゃない」アスクレピオスはまた眼鏡の位置を直す。「それに僕たちは最前線の三十層台後半だって十分に戦えるレベルと練度がある。二十層のダンジョンなんて楽勝だろう」
「それはそうかもしれませんが……」
まだ不安げに
「──大丈夫だ、俺を信じろ」
それは俺の口癖だった。どんなに不安なときだって、その言葉を口にするだけで、不思議と力が湧いてくる。みんなもきっと耳にタコができるくらい聞かされ続けているので、またか、というふうに苦笑する。狙いどおりアタランテの不安も、多少は和らいだようだ。
「何があっても、俺が責任を持ってみんなを守るよ。それに強い敵が出てきたなら、ヘラクレスの陰に隠れればいい。ウチの最強タンクは
期待を込めてヘラクレスを見やると、彼は分厚い大胸筋を自信満々に
「ああ、イアソンの言うとおりだ。俺が誰も死なせやしないさ」
その言葉で、少女の顔に苦笑が浮かんだ。
「……わかりました。でも、守られるばかりの私ではありませんよ。
パーティー全員、覚悟は決まったらしい。
一度皆で顔を見合わせて思い思いに
──事前の警告どおり、すべての《希望》を置き去りにして。
6
──そこまで読んだところで、俺たちは一度学校の部室へ戻ってきた。
昼休みは短い。あまりVRの世界に長居をしてしまうと、昼食を食いっぱぐれてしまうため、早めに引き揚げてきたのだった。
本気で昼食の用意を何もしてこなかった
「わあ、
などと
時間も惜しいので、俺もありがたく弁当を食べながら、先ほどまでの内容で気になった部分を振り返ってみる。
「なんか日記というよりは、回顧録みたいだったな。誰かに読まれることを想定してるっていうか」
そうだね、と
「システム的にはあり得ないことだけど、ひとまず、あの文章は《本当にSAOで書かれたものである》という前提で話を進めていこうか。そのほうが面白いからね。さて、その場合、もしかしたら記述者はあえて日記に詳細な説明や描写を増やすことで、SAOクリア後に備えた記録を取っていたのかもしれない」
「記録?」
「だって、SAOがクリアされて現実の世界で目覚めたら、中で起こっていたことを可能な限り正確に、外の人間に説明する必要があるだろう? 彼らがSAOの世界に
事件の後、SAOサバイバー、つまりSAO帰還者によって執筆された『SAO事件記録全集』は、世界中で大変な注目を集めたと聞く。もしかしたら、将来的な小遣い稼ぎのためにも、中で詳細な記録を取っていた者は結構いたのかもしれない。
不幸にもゲームクリア後、サーバに残されていたすべてのデータは消去されてしまったため、せっかくの記録を外部へ持ち出すことは
ならばこの手記は、そんなSAOサバイバーのALOプレイヤーによって書かれたということなのだろうか……?
と、そこでようやく自らの口調の違和感に気づいたのか、照れたように頰を染めて
「──とにかく、
「遊び半分は
俺の真っ当な
「そういえば、『SAO事件記録全集』によれば、ゲーム内のアバターはキャラクリエイトされたものではなく、現実の容姿だったのですよね」
通常、MMOで自分の分身となるアバターは、メーカーから用意された様々なパターンの中からモンタージュ写真のように組み合わせて作られる。
SAOも本来は、豊富なパターンから性別を含め自由にキャラクリエイトできる仕様だったはずだが、デスゲームが開始された時点で現実の容姿に戻されてしまったらしい。なお、性別を偽り、男性であるにもかかわらず女性キャラを使用していたプレイヤーも多かったようで、現実の容姿に戻された瞬間、
ちなみにALOの場合、アバターは性別以外、完全にランダムで自動に作られる。スピカと
「現実の容姿にされた話は、俺も聞いたことあるけど……眉唾だろ。実際に可能なのか、それ?」
「正直、私も半信半疑ではありますが……不可能ではないと思います。顔はナーヴギアで覆われていたわけですから、測定は容易でしょうし、身体データも初めのキャリブレーションで収集可能でしょう。実際、一部のVRタイトルではアミュスフィアによる生体スキャンで、現実の容姿に近いアバターが設定されます。技術的なハードルはそれほど高くありません」
キャリブレーションというのは、ヘッドギアを過不足なく動作させるために必要な、個人に合わせた微調整のことだ。
「おそらくそれも、開発ディレクター
そういうものなのだろうか。俺にはそのこだわりが理解できない。
でも──と、自分の手を見つめる。現実の、本物の自分の手だが、VR世界から戻ってきてすぐだと、妙に現実感が薄くて、まるで自分の手ではないように感じてしまう。そう考えると、人間の脳が現実を正しく理解することに、自分の容姿というものが、全くの無関係ではないような気もしてくる。
そのとき、不意に
「──大丈夫ですよ。ここは紛れもなく現実です」
間近で
そうだ……。この
そんな当たり前のことに今さら気づくと、何だか急に気恥ずかしくなってきた。
俺は努めて冷静を
「……ここが現実かどうかなんて、高校生らしい哲学じみた問いだな」
「おや、
そういえばそうだった。完全にVRゲーム部だと思ってたわ……。
「というか、どうして哲学部の部室にVR機器が
純粋な質問だったが、
「今さらですねえ。そんなもの、現実と仮想現実を比較しそこに抽出、投影された事象の差異を主観的に認識することで現実性の本質を探るために決まっているではありませんか」
「ちょっと何言ってるかわからない」
すると
「──会話の途中で、相手を
つん、と人差し指で俺の額を軽く突いて、
「さて、この続きは放課後にしましょう。手記も気になりますし。お弁当、分けてくれてありがとうございました。お母様にも
言いたいことだけを言って、
その細身の背中を視線だけで見送ってから、半ば無意識に額に触れてみる。先ほど
そこに紛れもない現実性を