文庫本に栞を挟む。白くて小振りなかすみ草が閉じ込められた手作りの栞は、部室に転がっていたのを一時的に借りている。
私は本を読むのが遅い。それに読書するのは部活の時間だけだから、読み終えるにはそれなりに日にちがかかる。
図書室で借りた本は、本来であれば自分の目の届く範囲で管理すべきだろうけど、私には自分の場所といえるようなところは部室しかない。
だからいつも、部室にある本棚の隅っこに本をそぅっと差し込んでおく。部室には普段は鍵がかかっているから大丈夫だと思いつつ、明確にルールを破っているという感覚は心臓をひやっとさせる。
貸出期限は二週間。返却までは、あとちょうど一週間。素直が呼んでくれないと、私はなかなか本の続きが読めないから少しやきもきさせられる。
部室を施錠して、無人の廊下をりっちゃんと並んで歩く。
「来週から部活お休みですね」
「だね」
期末試験の十日前から、運動部も文化部も活動が制限される。
「部室には来るでしょ?」
「もちろん」りっちゃんがにやりと頷く。「勉強場所として最適ですから」
余計なものの少ない部室は、自室よりずっと勉強がはかどる。
「んーん、ヒロインの名前はどうしようかなぁ」
自作のことを熱心に考え続けているりっちゃんは、数秒前の話の続きを口にするように言う。
「どうしようねぇ」
これは答えを求めていない呟きだと分かっているから、私は相槌だけを返す。
声に出すことで、頭の中が整理されていろんな考えが浮かぶそうだ。ぶつぶつ呟いている最中、「あっ!」と叫んだりっちゃんがメモ用紙にがががっと殴り書きするのは、よくあること。
今日はまだまだ、頭の中の豆電球が明るい光を灯すには時間がかかるらしい。私は心の中で、努力家の後輩にエールを送る。
「ナオ先輩は小説書かないんですか?」
「んー。書かない、というか書けないと思う」
私にはきっと無理だ。真顔でも、逆さまになっても、一文字も書ける気がしない。
素直なら、どうだろう。
聞く機会が訪れることはないだろうけど、なんとなくそんなことを思った。
職員室にはひとりで入室する。鍵置き場はすっからかん。運動部も吹奏楽部も、辺りが薄闇に包まれるまで熱心に練習している。
鍵を返したあとは昇降口に向かう。上靴をローファーに履き替え、私の帰りを今か今かと首を長くして待っていた自転車と合流する。
りっちゃんとは裏門の前で別れた。高校のすぐ近所にお家があるのだ。制服のキュートさではなく、立地的な通いやすさで進学先を選んだそう。
からからとホイールは回る。ペダルにぺったりと乗せた足を、私はくるくると動かし続ける。
ローファーの踵はどうにも丸まりたいみたいで、私のアキレス腱を思いだしたように押してくる。もう、元の形を忘れてしまっている。
◇◇◇
私が生まれた日の話。
その日、素直はどうしても子ども会の集まりに行きたくなかった。
りっちゃんと喧嘩していたからだ。素直は意地っ張りな女の子だったから、喧嘩をしても自分から謝ることができない。でも喧嘩の原因が自分にあると知っていたから、謝りたくない自分と謝らなければならない自分の間で、板挟みになってしまった。
そんな気持ちの葛藤の末に、私は生みだされた。ただ実際は、素直がりっちゃんと喧嘩をするのはその日が初めてではなかったから、それが理由だったとは言い切れないのだが。
素直は驚きながらも、私に向かって手を合わせた。
まるで神様にお祈りをするポーズのようだった。
「私の代わりに公民館行って、りっちゃんと仲直りしてきてくれる?」
自分と同じ顔を持つ生き物への、緊張と警戒。それとわずかな期待がにじむ声だった。
私はその言葉に従った。初めて公民館に行き、初めて広中律子という少女に会い、愛川素直らしい苛立ちを挙動の端に見せながら、遠回しな謝罪の言葉を口にした。
りっちゃんは素直をあっさりと許し、私は凱旋するような心持ちで初めての帰路を辿った。私の帰りを今か今かと待ちわびていた素直は報告を聞くなり、大喜びで私を抱きしめた。
その日の夕方、両親が帰ってくる前に素直と私は手を振って別れた。素直が「じゃあね」と言えば、私の意識はそこで途切れていた。
翌日、素直はまた私を呼んだ。
消えている間の記憶はなかった。だけど素直に呼ばれると、薄暗いところから急に意識のかけらのようなものがぶわりと浮かび上がり、集合して、私という存在を形作っていった。
私は呼ばれるたび、合わせ鏡のように、今現在の素直と同じ格好をしてどこかから現れる。パジャマを着ていればパジャマ、新しい洋服を着ていたら新しい洋服。消えると、着ていた服も一緒に跡形もなく消える。
ただし途中でパジャマから洋服に着替えた場合は、私が消えると、私が着ていた洋服だけがその場にぽつんと残るらしい。私が着てきたパジャマは、私と同時刻に消えてしまう。
なんにも増えないように。なんにも減らないように。神様か誰かの都合なのか、物事というのは辻褄が合うようにうまく調整されているらしい。
素直の大きな瞳には、誰も持っていない珍しいオモチャを手に入れた喜びと誇らしさだけが、爛々と浮かぶようになった。
「知ってる? ほんものとおんなじに見えるのに、ほんものじゃないものは、レプリカって呼ぶんだよ」
覚えたての知識を披露する素直は、得意げだった。
それに幼い頃の素直は子どもらしく好奇心が旺盛で、いろんなことを試したがった。
レプリカはどれくらいの時間、存在していられるのか。お菓子を分け合って食べたら、二倍、お腹は膨れるのか。同じテストの問題を解いたら同じ点数を取れるのか。じゃんけんをしたら、いつまでも続くのか……。素直は子どもの小さな脳が思いつく限りのありとあらゆることを試した。
そうして分かったのは、素直と私は生物学的にはほとんど同じ存在だということ。ただ、二人の間には川が流れるように大きな隔たりがあった。
着ている服だけじゃない。私は出し入れされるたび、最新の素直の記憶を持って生まれてくる。でもそれは自分自身の経験としてではなくて、川の向こうの景色に目を凝らすように、実感とは遠いものだった。
たとえば、素直が昨日見たバラエティ番組の内容を私ははっきりと覚えていない。素直自身がちゃんと記憶していないからだ。
小説を読むのは、私が素直の記憶を探る感覚と似ている。素直にとって印象的な出来事はくっきりとした明朝体で書かれていて、整っていて読みやすい。でもにじんでいる字や、インクでべとべとの字を読み取るのは難しい。
どうやら素直にとって嬉しいこと、いやなことなど、喜怒哀楽を司る記憶は明瞭で、それ以外の興味が薄いことは、私には曖昧に感じられるらしい。