海辺で砂の城を作っても、次の波が来れば一瞬で消え去ってしまう。でも城を作っていたという跡だけは、ほんのわずかに残っていたりする。リアルタイムで素直の記憶を引き継げない私は、浚われたあとの砂地に何かが浮き出てくるのを、いつだって辛抱強く待っている。
もどかしさを感じていた。私はもっと素直の役に立ちたい。素直に褒めてほしい。素直に、喜んでほしい。
季節が巡り、学年が上がっていくにつれて、素直が学校の勉強に追いつけていないことを知った。
私は隙を見つけて教科書を開いては何度も読み込み、内容を頭の中にまとめた。
素直には私の記憶や経験、怪我は共有されない。たぶん必要がないからだ。愛川素直は愛川素直であって、彼女を構成するのにレプリカの要素はいらない。
だからあるとき勉強を手伝うと申し出てみたけれど、素直はガラス玉のような目を向けてきて呟いた。
「いい。代わりにテスト受けてきて」
素直に恥ずかしい思いはさせられない。私は自分にできる限りの努力をして精いっぱいの点数を取るようにした。
当初、素直は私のことを気が置けない友人か、あるいは双子の姉妹のように接していた。素直は鍵っ子だったので、私の存在は彼女の気を紛らわせていたのだろう。
素直は私を呼ぶと、大好物のシュークリームを半分こにしてくれた。一緒に本を読んだ。アニメを観てたくさん笑い合った。一緒にいるところを誰にも見られてはいけない私たちは、秘密を共有した二人きりの親友のように仲が良かった。
そういう時間は、気がつくとなくなっていた。私を呼びだした素直は用件を呟くだけで、他のことは何も言ってくれなくなった。
私は素直のために、喧嘩した友達と仲直りをする。
私は素直のために、テストを受けていい点数を取る。
私は素直のために、山登りをして、マラソンをして、シャトルランだって腕を振って走る。
素直のために、素直のために。私のすべては、素直に捧げるためにある。
食事や排泄、睡眠は、私にも人並みに必要だけれど、素直が「もういい」と言えばどこへともなく消えるので、素直は私の生活に頓着しなくなっていった。
だから私は、朝ご飯を食べたことがない。昼ご飯はよく食べる。お菓子は、素直が分け与えてくれた頃にだけ。分けても二倍、お腹は膨れないシュークリームを素直はひとりで食べるようになっていた。
夕ご飯はほとんど食べたことがない。ついでにいうと誕生日ケーキを食べたことも一度だってない。
高校に上がってから、お昼は給食じゃなくてお弁当になった。私はそれが本当に嬉しかった。忙しいお母さんが用意してくれるお弁当には、前日の夕ご飯の残りが入るからだ。
プラスチックの容器に入れるためにキッチンバサミで切られたからあげ。コロッケにハンバーグ。味が染み込んでいてどれもおいしかった。
しかもわざわざお弁当のスペースを埋めるために、用意してくれるおかずもあった。甘いマヨネーズが溶けたポテトサラダ。アルミホイルに載ったマカロニのグラタン。苦いアスパラガスを抱きしめるベーコン。塩が振りかけられた茹で卵。食が進むように、白米には鮭のフレークや牛そぼろ、のりたまのふりかけもかかっている。
私が毎日のふりかけに喜びを見いだしていることを、素直は知らない。
今じゃ素直は根っからの運動嫌いで、私は好き。
素直は勉強が嫌いで、私はまぁまぁ好き。そう思い込まないと、レプリカなんてやっていられない。
◇◇◇
次の日も、素直は私を呼んだ。重い生理痛に苦しむ素直は、私を呼ぶ頻度が増す。
今朝は起き上がる気力もないようだ。私は水と鎮痛剤を猫足のテーブルにそっと置いてから家を出る。
授業を受けて、ひとりでお弁当を食べて、午後はうとうとして、放課後は教科書を片づける。誰も、代わりにレプリカが授業を受けているとは夢にも思わない。
文芸部室に行く。いつも通り部室の鍵は開いている。りっちゃんは、放課後になると真っ先に鍵を取りに行ってくれる。
鍵のかかっていない部屋は、なんとなく安心する。学校から戻ってきた私を迎える家の玄関も、素直の部屋も、しっかりと施錠されているから。
「おはよう」
「おはようございます、ナオ先輩」
卵の額がつやつやしている。汗の影響も大いにあるみたい。
りっちゃんの表情には疲れが見える。全開になっている窓から見上げれば、夏そのものみたいな形をした入道雲が気持ち良さそうに空に浮かんでいた。
錆びた扇風機が部屋の隅でかくかくと首を揺らしているが、そこから吹いてくる微風はあまりに頼りない。私たちを生かそうとする気力がなければ、自分がこの夏を生き抜いてやるという気概も感じられない。
名ばかりの梅雨はまだ明けないまま。天気予報は雨マークが続いていたはずなのに、昨日も今日も日が照っている。
「支給金があれば、新しい扇風機が買えるのにね」
「まったくです。ないものねだりですけど」
りっちゃんは机の上にだらしなく寝そべり、半目で扇風機を睨んでいる。
部員が二人しかいない文芸部に、学校が貸し与えてくれるのは小さな部室だけだ。
「部費の徴収とか、します?」
ぎくりとした。
当然だけれど、レプリカの私にお小遣いは与えられない。
お人形を、リップクリームを、洋服を、ブルーレイを、スマホを買ってもらう素直の記憶を見て、羨ましいなと思ったことはある。クラスメイトに不審がられないようスマホを持参してはいても、結局これは私のものじゃないのだ。
何も持っていない私は、自分だけの何かがほしかった。
子どもの頃は率先してお風呂掃除や洗濯をして、手伝い賃をもらった。
埃をかぶった缶の中に、私は五十円玉を隠し続けた。小学六年生の頃、素直が卒業旅行でディズニーランドに行ったとき、お土産に買ってきたクランチチョコレートの缶だ。
私が内緒で缶を使っているのを、素直は知らない。缶のこと自体を忘れているのだと思う。
手伝い賃は今の今まで、一度も手をつけずに貯めている。大きな缶はとっくに五十円玉でいっぱいになって、困った私は二階の廊下にある戸棚の奥に、二重にしたスーパーの袋と缶を置いている。
どちらも中身は五十円玉だらけだ。ざっくざく。素直にばれてはいけないので、たっぷりと錆のにおいがする袋を持ち上げてみたことはない。
「扇風機って、どれくらいするのかな」
「家電量販店で見たら、古いやつならけっこう安かったですよ。いちばん安いと千円くらい」
「えっ、やす!」
夏場の扇風機の価値を考えれば、てっきり一万円くらいはするのかと思っていた。
「それなら、ひとり五十円玉が十枚あれば買えるよね」
「なんで五十円玉換算なんですか」