「……推しが足りなすぎるんですよぉ……」
スタジオ近くのバーの個室で、仙宮すずねは、溜息と共にそう漏らした。
魂が抜けていきそうな声に、向かいの席に座った先輩声優のくちびるから、くすくすと甘い笑いがこぼれる。
「なぁに? まだ立ち直れてないの?」
彩葺結衣香は、声に違わぬ優雅な動作で、軽く握った拳で口を隠すようにして、自分より六つ下の、とはいえもう二十五だというのにまるで子供のような後輩の様子に、優しく目を細めた。
「そんなに引きずること?」
「ことですよ!」
すずねは突っ伏していたテーブルから体を起こすと、はああ、と肩を落とした。
落ち込みもする。最推しのアイドルが、卒業してしまったのだから。大切な日々の糧を失ったも同じだ。
「けど、もう半年も前のことでしょ?」
「まだ半年ですー」
すずねはくちびるを尖らせた。
結衣香の前では、ついつい甘えた態度をとってしまう。それを彼女も楽しそうに受け止めてくれるから、ますます甘えてしまう。
隠すことがない相手というのは貴重だ。
某作品の打ち上げの帰りに、
『ちょっと付き合わない?』
とお酒に誘われ、連れて行かれた素敵なバーでいきなり《そう》だと見抜かれた時は、それはもう驚いたけれど。
『わかるのよねえ、なんとなく』
手を握られ、耳元でそう囁かれて、混乱と緊張で心臓が破裂しそうだった。
するりと自然な仕草で腰を抱かれ、やわらかいくちびるが頰に触れる。
バーテンダーは見て見ぬ振り。
一瞬、心が揺らいだが、結衣香のくちびるがその先に進んでこようとするのを、すずねは何とか断った。
百合営業的なことまでならいいけれど、それ以上は本当に好きな人とでないと、と言うと、あら残念、と意外にあっさりと受け入れてくれ、それからは、先輩後輩の枠を超えて仲良くさせてもらっている。
『わたしたちは《本百合》ね』
と結衣香はその時、言った。
《営業》ではない、という意味だ。
ファンに向けてのアピールテクのひとつに、百合営業と呼ばれるものがある。
女同士で『好き』と言ったり、友情間で嫉妬したりといった、シスターフッド的な女性特有の仲の良さを見せることで、主に男性ファンに恋愛関係的な錯覚を起こさせるものだ。
今日のイベントでもそういう場面はあった。
三百人規模のアニメソフトのリリースイベントだったのだが、スタンディングでのトークコーナーで、最近楽しかったこと、というお題を振られた。
司会進行の芸人さんが何を求めているのかは、空気でわかったので、
『このあいだ、まりあちゃんと水族館デートに行ったんですよー』
あえて《デート》という言葉を使った。
女子の場合、デートは、男子と出かけたときだけではなく、女の子同士でも使うことがある。特に仲良しである、とアピールしたいときに。
まりあちゃんは、レギュラーの一人、加賀見まりあ。他事務所のほぼ同期で、メッセージのやり取りをするくらいには仲が良い。定期的に、ごはんにも行っている。
このイベントのアニメの中でも、お互いを大好きだという設定だった。
『わたし、ペンギンが大好きじゃないですかー』
まりあのペンギン好きは有名で、何とか飼えないかと考えているほどだ。
『都内の水族館に新しい子たちが入ったから、すずねをアフレコ終わりに誘って、会いに行ったんですよー』
『まりあちゃん、本当に詳しかったよね。わたし、ほとんど見分けつかなかった』
『彼氏面で説明しました』
ふふん、とまりあがドヤ顔で胸を張ると、客席から笑いが起こった。
『楽しかったよねー!』
『ねー!』
ハートが見えそうな感じで二人で首を傾げ合うと、
『……え? わたし、誘われてないんだけど?』
同じくレギュラーの結衣香が、機を逃さずに食いついてきた。
『どういうこと? 二人で行ったの? いつ? アフレコ、わたしもいたんじゃない? 何でわたし誘われてないの』
マイクを手にぐいぐい来る彼女に、すずねとまりあは、ええ? と引く感じで距離を取りつつ、ぎゅうとしがみついた。
『だ、だって、その日、結衣香さん、うしろもあったじゃないですか……』
『終わってから、合流することもできたんじゃない? 水族館のあと、どうせごはんもいったんでしょ?』
『あー……考えもしませんでした』
すずねの答えに、結衣香の眉が険しく上がる。
それを見て、すずねとまりあは怯えた振りで、ぎゅっと抱き合った。頰と頰がくっついて、観客席が低くどよめく。
『はいはい、痴話喧嘩は楽屋でやってくださいねー! 個人的にはもっと見ていたいけど!』
芸人さんの言葉に笑いが起こって、そのくだりはお終いとなった。
イベント終了後、ネットでエゴサーチをすると、『今日も百合百合してて良かった!』『ゆいゆいの闇百合たまらん』という、肯定的な書き込みが多数で、喜んでもらえて良かった。
女は同性同士の肉体的な接触にあまり忌避感がないので、時には壇上で抱き合ったり、手を繫いだりもする。仕事で男性声優とそんなことをしたら、今の時代、すぐに大炎上だろうが、同性ならば問題になることはない。
まあ、それもどうかとは思うけれど。
結衣香とは、《本百合》だと見抜かれた以降も、作品で一緒になった時は積極的に百合営業をしているけれども、数ヶ月ぶりに新しい彼女ができて同棲を始めたと聞いたので、
『彼女さんから嫌がられたりしないんですか? その……百合営業』
と訊いたら、
『仕事だからね』
答えはあっさりとしたものだった。
『わたしが俳優だってわかって付き合ってるわけだから、その辺はね。あ、でも、さすがに友達とのお泊まり会だけはやめたかな』
そういえばしばらく結衣香とはしてないな、とすずねは気づいた。
女子同士のお泊まり会は本当に楽しい。
とはいえ、自分が本百合であることは、隠している。
性的な目がないからこそ奔放に自由に振る舞えるのに、そう見られているかもしれない、と思われて空気を壊したくはない。
他の人はどうか知らないが、すずねは、ただの友達をそういう目で見たことはない。性的な魅力を感じることはあるけれど、それは、誰彼構わず性的妄想を伴って見るのとは違う。
……ということを、懇切丁寧に説明するのは、難しい。業界人ではないけれど、それで疎遠になった友人もいた。
警戒されてるな、というのは態度でわかるものだ。
なので、秘密にしている。
だが、結衣香がお泊まり会に参加しなくなったのは、そうしたことではなく、恋人への気遣いだろう。
もし、自分が結衣香の彼女だったら、やはり嫉妬すると思う。実際にどうかという話ではなく、恋をする可能性がある相手とのお泊まり会なんて、嫌だ。何であれ、可能性はゼロではないのだから。
「新しい人を見つけたら?」
シングルモルトのウイスキーの入ったグラスを傾けながら、結衣香は小首を傾げた。
大人だ。
すずねの前にあるのはカクテル。バーテンダーが結衣香の、「彼女に似合うもの」というオーダーで作ってくれたもので、ラムベースで甘め。名前は気恥ずかしくて忘れた。
「そんな簡単じゃないんですよー」