魂が抜けそうな溜息が、出た。
「あんなに沼った推しって初めてだったんですから」
「《ディアゴナル》、だっけ?」
「そうです」
等星は様々だけれども、数でも輝きでも、いずれも星のような女性アイドルたちの中で、《ディアゴナル》は、興味がない人でも、一度は名前は聞いたことがある、という程度に知名度はあるグループだ。
全曲、著名なボカロPに楽曲を提供してもらい、さらにチアのような躍動的なダンスをすることで、他とは一味違うパフォーマンスを見せてくれていた。
その絶対的センターが、鐘月かりん──しょうつき、かりん。
今は存在しない事務所の公式プロフィールでは、年齢二十二歳。身長が百五十八センチ。その他の身体的なことは非公開。子役からアイドルに転身、となっていた。
非公式情報では、出身は東京で高校は公立。免許なし。何であれ、生のものは食べない。果物でさえも、だ。昔、食中毒になったことで生ものがトラウマになったらしい。
鐘月かりんは、結成から五年、《ディアゴナル》でセンターだった。
当然、歌も、ダンスも、他のメンバーよりパートは多い。五曲もやれば体力はゼロになってしまうだろうに、彼女は、それを欠片も表に出したことはなかった。
ファンクラブ限定版アルバムの特典についていたドキュメンタリーには、ライブ後にぶっ倒れる様子が映っていて、カメラに気づいた彼女が苛立たしく手で払う仕草をする姿が収められていた。
ファンには無様な姿は見せない、という意思が感じられて、胸が震えて泣きそうになった。
「本当に、すごかったんですよ……」
「なんだか、好きな子が転校しちゃった子みたい」
からかうような結衣香の言葉に、すずねは体を起こし、
「いえ、それは違います」
きっぱりと否定した。
「わたしの鐘月かりんさまへの気持ちは、ガチ恋ではありません。あくまで彼女のストイックなパフォーマンスに、心酔しているだけですから」
「ふうん? でも、写真集とか持ってるよね? 写真は歌わないし、踊らないけど?」
「グッズの購入は、推しを支えるファンとしての責務です。納税義務です」
「税金なんだ」
「もちろんです」
即答したけれど、とはいえ、もちろんそれだけではない。
「……まあ、お顔も大好きですけど」
それも含めて、推している。
鐘月かりんは、特に目がすごい。
大きさもさることながら、黒目が微かに碧がかっていて黒曜石のよう。睫は箸が載りそうなほど長く、動くと、ぐりん、と音がしそうだ。
肌もすごく白い。
首筋とか、血管の浮き方とか、見ているとどきどきする。
今や写真の加工技術は本物と見紛うばかりだが、鐘月かりんは違う。握手会で会って、確認した。そのまま──否、それ以上だった。
すずねは基本、二次元よりも三次元の人だったが、かりんに触れて生身のすごさを知った。ふわっと香る匂い。ひんやりとした掌の体温。そうしたものは三次元でなければ、生きていなければ感じられないものばかりだった。
ほんの三十秒のことであったし、その一度きりだったけれど、匂いも、体温も、今でも全てが、ありありと思い出せる。
そして、声。
彼女はどちらかと言えば童顔で、くちびるがぷるっとしているのだが、その弾力のありそうなくちびるからこぼれる声が、たまらなく心地いい。
仕事柄、すずねは人の音に敏感だった。
鐘月かりんの声には力がある。彼女の公演も何度も見に行ったが、声が風になって客席を吹き渡るのを肌で感じて、ぞくぞくした。
激しいダンスで他のメンバーの息が切れても、彼女だけは違う。まるで乱れず、踊りながら完璧に歌い上げるのだ。
いずれは世界に知られるだろう──そう思っていた。
……けれど、そうはならなかった。
鐘月かりんは、突然、いなくなってしまった。
ある日いきなりSNSに『重要なお知らせ』と書き込まれた内容は、関連ワードも含めてトレンドを席捲した。
《ディアゴナル》の公式アカウントは、
──『本日付けで、鐘月かりんは《ディアゴナル》を卒業いたしました』
そう書き込んだ。
それだけでも大事なのに、続けて彼女の所属事務所が、
──『鐘月かりんとのマネジメント業務が、昨日付けで満了しましたことをご報告させていただきます。なお、鐘月かりんとの連絡は、弊社としては承りかねますこと、何卒ご了承ください』
とHPに上げた。
駆け落ち、結婚、引退、誘拐、果ては自殺説まで、様々な憶測がネットを駆け巡った。
動画配信者はこのことをこぞって取り上げ、好き勝手に煽った。兄弟、親、恋人を名乗って、再生回数を稼ごうとする配信者が次々と現れ、カオス状態になった。
すずねも、どこかに真実があるのではと、ありとあらゆる情報に飛びついたが、何も得ることはできなかった。
誰もが、鐘月かりんの口から真相を聞きたがった。
だが──本人からの発信は、なかった。
彼女はSNSをやっておらず、《ディアゴナル》のサイトからも鐘月かりんのプロフィールは削除されてしまっていた。
彼女を見た、という書き込みも散見されたが、いずれも真偽は不明の噂ばかり。
事件性があったわけでもなく、二週間後には別のアイドルのもっとスキャンダラスな事件が発覚したため、鐘月かりんは急速に忘れられていった。
だが、すずねは違った。
忘れることなどできず、ほぼ毎日、ライブの映像ソフトを鑑賞し、写真集を眺め、ラストシングルとなった曲を聴いた。
とはいえ、彼女の行方を追うのはやめた。
いくらネットの情報を漁っても何も得るものはないと早々に気づいたし、万が一見つかったとして、彼女が《ディアゴナル》に戻るとも思えない。
すずねにできるのは、思い出から推しを補充することだけだった。
しかし、さすがに半年も経つと、物足りなくなってきていた。
飽きるなどありえないが、映像も写真も、もはや目を瞑っていても、細部までありありと思い描ける。
だが、それとは逆に、永遠に魂に刻み込まれたと思っていた、推しのあの香り、体温が、日々薄れていくのは、とてもつらかった。
「かりんさま、何してるのかなあ……」
地の底に沈んでいきそうな溜息交じりの言葉に、結衣香は微笑んだ。
笑ってはいるが、馬鹿にしてはいない。
自分たちも、誰かの推しだから。
昔と違って、声優個人にファンがつくことも普通になってきた。結衣香も、そしてすずねにも、少なからず、そういう人間がいる。
声優のあり方として、それが良いのかはわからないが、声を、演技を好きだと言ってもらえるのは、とてもありがたい。
「結衣香さんは、推しがいたことないんですか?」
そう訊くと、彼女はウイスキーを一口喉に流してから、小首を傾げた。
「んー……ないかなー。作品を好きにはなっても、登場人物に嵌まったことってないし、アイドルとか興味なかったし。この人が出てる舞台は全部観る、って役者さんはいるけど、グッズとかは買わないし、プライベートには興味ないから、インタビューとかも見ないしね」
「ですかー……」
何をどう好きになるかは本当に人それぞれだな、とすずねは思った。