事務所から呼び出しのメールが届いたのは、二日後のことだった。
週一で通っているホットヨガが終わって、シャワーも済んでさっぱりと着替え、スマホをチェックすると、三十分ほど前に全体グループに投下されていた。
明日の十四時、スケジュールが空いている人は事務所に顔を出せ、という内容で、すずねは丁度、収録と収録の合間で空いていた。
事務所全体グループでの連絡は珍しい。大抵はマネージャーとのやり取りだ。
何か大きな発表があるんだろうな、とは察しがつく。
事務所全体が関わるプロジェクトかな、と思いつつ、最悪の場合の考えも浮かばなくはなかった。
マネジメント業務の終了──以前は考えたこともなかったが、声優が人気の職業となるにつれて、既存のプロダクションがマネジメントを始めたり、事務所そのものを立ち上げたりすることも増えると共に、業務を畳むところも現れた。
利益を生めなければ打ち切られるのは、何もコンテンツに限った話ではない。声優も結果を出せなければ、いずれ契約を切られる。
毎期、オーディションは針の筵だ。まずは事務所によって参加できるかふるいにかけられるし、それを通ったとしても、実際にオーディションに受からなければ意味がない。
事務所から落胆されるのもだが、審査すら受けさせてもらえなかった人たちの気持ちを思うと申し訳なくなる。
そんなの気にしてもしょうがない、実力社会なんだから、と結衣香は言ってくれるが、そんな彼女だって、そう自分に言い聞かせている気がする。
だが、事実でもある。結局のところ、常に自分を高めて、ひとつひとつ、案件に真摯に向き合う以外、できることはないのだ。
その気概で午前中に来期アニメの収録を済ませ、すずねはひとりで近くのラーメン店に入って鶏白湯の小サイズを食べてから、二駅ほど離れた事務所に徒歩で向かった。
体力づくりとスマホのウォークゲームを兼ねつつ、ディアゴナルの歌を聴く。
グループの曲ではあるが、鐘月かりんは在籍中は絶対センターだったから、パートも格段に多い。ぐうんと体の中に入ってきて芯に突き刺さるような声がとても気持ちがいい。
圧倒的に足りない推しを補給しつつ、一時間ほどで事務所の入るビルに到着した。
うっすらとかいた汗を、大きなトートバッグから出したハンドタオルで拭う。
少し足が痛む。スニーカーの方が足は楽なのだが、すずねはフラットヒールのパンプスが好きだった。履くと、気持ちが違う。
イアーポは十階建てのビルの二階から五階、それと地下を借りている。
一階はコンビニで、脇の入り口を抜けて、エレベーターで受付のある五階に向かう。地下はスタジオで、空いていればオーディション用のデモが録れる。あまり分量のないゲームやナレーションの収録ならば、スタジオを借りなくていいという理由で仕事が回ってくることも少なくないらしい。
「おはようございまーす」
事務所に入ると同時に、はきはきと挨拶をする。どんなベテランになっても、これだけは欠かせない。芸能の世界は礼儀や上下関係に厳しい。そして順列を決めるのは芸歴だ。人気は二の次。移籍もあるので、所属の長さも関係ない。
すずねは子役出身なので、芸歴だけなら二十年になる。もっとも、本格的な活動は声優になってからなので、実質は八年だった。芸歴二十年、は営業や配信のトークのネタとしては使うが、それで先輩ぶったりはしない。
おはようございます、と居合わせたスタッフや所属声優から声が返ってくる。
ぐるりと見回すと、休憩や簡単な打ち合わせに使うフリースペースに結衣香を見つけた。
所属声優たちは事務所に自分の椅子や机はない。なので書類を書く時はフリースペースを使うか、マネージャーの机を借りる。
三卓あるテーブルは、声優たちで埋まっていた。おはようございます、ともう一度挨拶を交わし合ってから、すずねは結衣香の隣の椅子を引いた。
「なんですかね」
ノースリーブのワンピのスカートの裾を撫でつけるようにしながら座る。
結衣香の前にはステンレスの小さな断熱ボトルがある。彼女はいつもこれに、喉に良いらしい漢方茶を入れている。すずねも前に飲ませてもらったが、苦くて無理だった。
「なんか、社長からじきじきに話があるみたい」
それだけでは、良い話、悪い話、どちらなのか判断はつかない。しかし大抵、こういうのはフラグであって、良い話のことは少ない気がする。
「まさか、倒産とか?」
「それはさすがにないと思うけど……経営状況とか、気にしたことないからなあ」
「ですよねえ」
所属はしているが、社員というわけではない。声優はあくまで個人事業主だ。
周りの声優たちも多少、不安に思うところがあるのか、はしゃいだ雑談をする者はいない。二人ほど大先輩がいるというのもあるだろうけれど、それにしても静かだ。
「結衣香さんは、このあとまだお仕事ですか?」
「仕事っていうか……ボイトレ。そろそろキャラソンが上がってくるらしいから、整えておかないと。すずは?」
「わたしはもう一本、収録です。アプリゲーのCMなんですけど」
「下?」
結衣香が地下のスタジオを指す。
「いえ、西新宿です」
「ふうん」
たぶん、一時間もかからないだろう。
演じさせてもらったキャラは、昨夜のうちに資料をチェックしてある。メインをやらせてもらっているので、ゲームもプレイしている。
最近は周辺の仕事としてイベントが結構あって、呼ばれた時にプレイしていないと、トークが盛り上がらない。
それではお客さんに申し訳ないから、何とか時間をやりくりして頑張っている。ログインするだけの日もあるが、それでも続けている。
とはいえ、プレイするとどのゲームも面白いので、時間泥棒で困る。
現在、やっているゲームは八本。ログインして、デイリーミッションをこなすだけでもなかなかに時間を取られるから、移動や待ち時間の中でこなしている。
カチャリ、と音がして会議室の扉が開き、一斉にみんながそちらを向いた。
「お待たせ」
と言って最初に出てきたのは、チーフマネージャーの青山羊子だ。四十半ばとは思えない貫禄があり、年上のベテラン声優も彼女の前ではちょっと背筋が伸びる。
当然、すずねたちもしゃんとなる。全員が立ち上がって、お疲れさまです、と言おうとしたのを彼女は手で制した。
続いて社長の森崎五郎が出てきた。大学の頃からラグビーをやっていて、五十を越えた今でも大柄な筋肉質の体格を維持している。身長も百九十近くあるので威圧感は半端ないが、いつも笑顔でそれを相殺している。
「お。なかなか集まりがいいな」
笑うと白い歯が覗くとか、アニメみたいな人だ、といつも思う。
「今日はうちのチームに新しい仲間が入ったので、紹介しよう」
会社をチームと呼び、所属声優を仲間と呼ぶところが、体育会系だなあ、と感じる。
社長が横に退くと、だぶっとしたパーカーにガウチョパンツの女性が現れた。大きな体に隠れて、いることに気づけなかった。
その姿が瞳に飛び込んだ瞬間、
──へあっ!
と変な声が出そうになった。
何とも言えない震えが足先から頭に駆け上って、総毛立つのがわかった。頭皮まで引っ張られる感じがした。
(待って待って! 待ってえ!)
込み上げた悲鳴を、日頃鍛えた喉を締めて抑え込む。
じわっと汗が噴出する。目が痛い。胸が苦しい。死んでしまう──いや死ねない!
ああ!
社長の後ろに立っていたのは。
天岩戸が開かれたかのごとく、現れたのは! 誰であろう!
(かっ、かりんさまあああああっ!?)
──だったのだ。