☆
「今日付けで所属となった、鐘月かりん君だ」
まるで、社長は自慢の宝物を披露するみたいだった。
勘違いでも、見間違いでもない。
(本当に、本物の──かりんさまだあ!)
すずねは、ぶるぶるぶるっと身震いして、胸の前で両手をぎゅっと握り合わせた。心臓が激しく脈を打つ。脳が熱い。なんだか鼻血が出そうだ。
「知ってる者も多いんじゃないかな?」
(もちろんです!)
「彼女が所属していたアイドルグループ、ディアゴナルはいくつかアニメにも起用されていたからね」
(どれも最高の曲でした!)
「鐘月君の前の事務所のマネージャーは私の旧知でね。彼女のこれからを相談されて、あれこれ確かめさせてもらった後、まあいろいろ調整することがあって、今日からの所属となった。事務所の、そして声優の先輩として、いろいろ教えてやってくれ」
(もちろんです!)
過呼吸でくらくらする。
(わたしに任せてください!)
社長はまた輝く白い歯を見せて、僅かに脇に退いた。
「じゃあ、鐘月君。挨拶を」
「はい」
軽く頷いて、鐘月かりんは半歩、前に出る。
のそっとしたゆるい動きは、見知った彼女の体の切れとは正反対だった。メイキングでも見たことがない。
緊張しているのか、表情も少し硬い。いつものはじけた明るさは鳴りを潜めている。
(なんだか初めてのおうちに来た仔猫みたい! かわいい!)
心の声を聞かれたら、要はなんでもいいんじゃない、と結衣香に言われそうだが、実際そうなのだから仕方がない。
(推しと同じ空間! 同じ空気! 死ぬ!)
枯渇していた推し成分が満たされていく。三日は何も食べなくて過ごせる、と思う。
鐘月かりんは周りを一瞥した。
目が合った!──かもしれない。
「今日からお世話になります。鐘月かりんです。右も左もわからない新人ですが、声優として一生懸命頑張ります。ご指導のほど、よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる。
(ここは拍手!? 拍手とかしていいのかな!?)
むずむずした手をもてあましながら周りを見たが、誰もしようとはしなかった。
ベテランの先輩たちはにこやかに笑みを浮かべながら、へえ、と呟いたりしていたが、若手の中には微かに眉を顰めた者もいる。
さすがにこの状況で、ひとりではしゃぐほど空気が読めなくはない。
とはいえ、何も言わないのも社会人としてはNGだ。挨拶は基本。挨拶はされたら返すのが人として当然。
胸の前でぎゅっと手を握りしめ、すずねは喉を開いた。
心からの歓迎の気持ちをこめて──
「ひょろしくお願いします!」
(嚙んだあ!)
☆
挨拶が済むと、鐘月かりんはチーフマネージャーと再び会議室に戻り、すずねは、ボイトレまでまだ時間があるという結衣香の腕をつかんで、事務所近くの喫茶店に引っ張っていった。
誰かと話さずにはいられない。
個室に飛び込み、いつものおすすめ紅茶を二つ頼むと、
「夢じゃないですよね!」
テーブルに身を乗り出して、確認した。推しが足りなさ過ぎて、とうとう白昼夢を見ていた可能性もある。
「大丈夫、起きてるよ」
苦笑しながら、結衣香はそう答えてくれた。
ほっとした。
ではあれは、本当のことだったのだ。鐘月かりんの少しハスキーな生声も、姿も、彼女と同じ空気の中にいたことも。
まだ脳が熱い。ちりちりと焼けるみたいだ。
「……お待たせしました。ニルギリです」
運ばれてきた紅茶を目の前にして、すずねはすごく喉が渇いていることに気付いた。カップに手を添えるようにして持ち、ストレートのまま飲む。
熱かったが、喉を焼くほどではない。ここのマスターはすずねたちの仕事を知っていて、火傷などをしないように温度を調節してくれている。
「……はあ」
紅茶の香りのする溜息をついて、すずねはカップを置いた。ソーサーが、ちん、と綺麗な音を立てる。
「まさか、こんなことがあるなんて……奇跡って、本当にあるんですね……」
生かりんは何度も見てきたが、それとは違う感慨がある。
アイドル衣装ではない、素の生かりんは初めてだ。オフショット的な画は見ているものの、あれが本当の素ではないことは、わかっている。
しかし今日のあのかりんは、正真正銘、アイドルではない素のかりんだ。
きりりとした真面目な顔も、愛らしい。
「彼女が、例の推し?」
結衣香は、自分の紅茶にだけ付いてきた小さなピッチャーから、琥珀色の液体をカップに注いだ。ブランデーだ。香り付け程度だが、紅茶には必ず入れるのが彼女の流儀だ。
「そうです! 鐘月かりんさま! かわいいですよね!」
結衣香は、ふふ、と笑ったけれど、積極的に同意はしてくれなかった。
まあいい。
推しを押し付ける気はない。何を良いと思うかは自由だ。
「でも、驚いた。まさか、アイドルの次の道が、声優とはねえ……それともうちの事務所、事業を広げるのかしら」
「それはないと思いますけど。社長も、声優の先輩として、って仰ってましたし」
「じゃあ、声優になりたくてうちに来たってことね。彼女、演技はどうなの?」
すずねは首を捻った。
「かりんさま、ドラマとか映画とかに出たことないんですよね」
悔しいが、ディアゴナルはその手のオファーが来るほどの、トップアイドルではなかった。テレビの看板番組を持つこともなかったし、楽曲のCMもアニメとのタイアップ曲だけだ。
ミュージックビデオはあるが、ダンスパフォーマンスが主で、ソロのイメージパートがあっても、曲が流れているから、当然、台詞はない。
「ふうん……じゃあ、未知数か」
「でも、こんなイレギュラーな時期にうちに入所したってことは、期待はされてるってことですよね?」
「期待の方向がどっちに向いているかはわからないけどね」
含みのある言い方に、すずねは小首を傾げた。
「どういうことですか?」
「それなりに名前の知れたアイドルで」
指を立てる。
「ダンスと歌もできて」
もう一本。
「すでにファンも一定数確保されている」
三本目。
「これって、新人としてはとても高いアドバンテージよね。きっと話題にもなるし」
そういう言い方は、と言いかけて、すずねは口をつぐんだ。
結衣香の言う通りだ。
最近の声優は、演技だけできればいいというものではない。
そこは最低条件で、アーティスト活動が前提のオファーもある。さらにグラビアやネット番組など、顔出しも多くなってきた。
すでにアイドルとして名の知られたかりんなら、指名で案件もくるだろう。話題先行で、演技は二の次でも、という話もあるかもしれない。
「で、でもきっと、かりんさまは演技もできますよ! 現役時代はとにかくストイックに完璧を目指す人だったんですから! いい加減な仕事はしません! わたしは信じます!」
拳を握ってみせると、結衣香は、ふふ、と笑った。
「すずが言うなら、そうかもしれないけど、あまりはしゃがないようにね。内心、面白くなく思っている人もいるだろうから」
それはわかる。
オーディションのオファーには限りがある。
人が増えればチャンスは減る。
芸能の世界は実力主義だ。経歴、知名度、特技はもちろん、SNSのフォロワーまでも武器にして、自分を際立たせて仕事を取りに行くものだ。
それは皆、わかっている。
だからといって気持ちは割り切れるものではない。オーディションに落ちれば落ち込みもするし、受かった人を羨みもする。
「……結衣香さんもですか?」