2 ②


「今日付けで所属となった、しようつきかりん君だ」


 まるで、社長はまんの宝物をろうするみたいだった。

 かんちがいでも、ちがいでもない。


(本当に、本物の──かりんさまだあ!)


 すずねは、ぶるぶるぶるっとぶるいして、胸の前で両手をぎゅっとにぎり合わせた。心臓が激しく脈を打つ。脳が熱い。なんだか鼻血が出そうだ。


「知ってる者も多いんじゃないかな?」

(もちろんです!)

「彼女が所属していたアイドルグループ、ディアゴナルはいくつかアニメにも起用されていたからね」

(どれも最高の曲でした!)

しようつき君の前の事務所のマネージャーは私の旧知でね。彼女のこれからを相談されて、あれこれ確かめさせてもらった後、まあいろいろ調整することがあって、今日からの所属となった。事務所の、そして声優のせんぱいとして、いろいろ教えてやってくれ」

(もちろんです!)


 過呼吸でくらくらする。


(わたしに任せてください!)


 社長はまた輝く白い歯を見せて、わずかにわき退いた。


「じゃあ、しようつき君。あいさつを」

「はい」


 軽くうなずいて、しようつきかりんは半歩、前に出る。

 のそっとしたゆるい動きは、見知った彼女の体の切れとは正反対だった。メイキングでも見たことがない。

 きんちようしているのか、表情も少しかたい。いつものはじけた明るさは鳴りをひそめている。


(なんだか初めてのおうちに来たねこみたい! かわいい!)


 心の声を聞かれたら、要はなんでもいいんじゃない、とに言われそうだが、実際そうなのだから仕方がない。


しと同じ空間! 同じ空気! 死ぬ!)


 かつしていたし成分が満たされていく。三日は何も食べなくて過ごせる、と思う。

 しようつきかりんは周りをいちべつした。

 目が合った!──かもしれない。


「今日からお世話になります。しようつきかりんです。右も左もわからない新人ですが、声優としていつしようけんめいがんります。ご指導のほど、よろしくお願いいたします」


 深々と頭を下げる。


(ここははくしゆ!? はくしゆとかしていいのかな!?)


 むずむずした手をもてあましながら周りを見たが、だれもしようとはしなかった。

 ベテランのせんぱいたちはにこやかにみを浮かべながら、へえ、とつぶやいたりしていたが、若手の中にはかすかにまゆひそめた者もいる。

 さすがにこのじようきようで、ひとりではしゃぐほど空気が読めなくはない。

 とはいえ、何も言わないのも社会人としてはNGだ。あいさつは基本。あいさつはされたら返すのが人として当然。

 胸の前でぎゅっと手をにぎりしめ、すずねはのどを開いた。

 心からのかんげいの気持ちをこめて──


「ひょろしくお願いします!」

んだあ!)




 あいさつが済むと、しようつきかりんはチーフマネージャーと再び会議室にもどり、すずねは、ボイトレまでまだ時間があるといううでをつかんで、事務所近くのきつてんに引っ張っていった。

 だれかと話さずにはいられない。

 個室に飛び込み、いつものおすすめ紅茶を二つたのむと、


「夢じゃないですよね!」


 テーブルに身を乗り出して、かくにんした。しが足りなさ過ぎて、とうとう白昼夢を見ていた可能性もある。


だいじようぶ、起きてるよ」


 しようしながら、はそう答えてくれた。

 ほっとした。

 ではあれは、本当のことだったのだ。しようつきかりんの少しハスキーな生声も、姿も、彼女と同じ空気の中にいたことも。

 まだ脳が熱い。ちりちりと焼けるみたいだ。


「……お待たせしました。ニルギリです」


 運ばれてきた紅茶を目の前にして、すずねはすごくのどかわいていることに気付いた。カップに手をえるようにして持ち、ストレートのまま飲む。

 熱かったが、のどを焼くほどではない。ここのマスターはすずねたちの仕事を知っていて、火傷やけどなどをしないように温度を調節してくれている。


「……はあ」


 紅茶の香りのするためいきをついて、すずねはカップを置いた。ソーサーが、ちん、とれいな音を立てる。


「まさか、こんなことがあるなんて……せきって、本当にあるんですね……」


 なまかりんは何度も見てきたが、それとはちがかんがいがある。

 アイドルしようではない、の生かりんは初めてだ。オフショット的なは見ているものの、あれが本当のではないことは、わかっている。

 しかし今日のあのかりんは、しようしんしようめい、アイドルではないのかりんだ。

 きりりとしたな顔も、愛らしい。


「彼女が、例のし?」


 は、自分の紅茶にだけ付いてきた小さなピッチャーから、はく色の液体をカップに注いだ。ブランデーだ。香り付け程度だが、紅茶には必ず入れるのが彼女のりゆうぎだ。


「そうです! しようつきかりんさま! かわいいですよね!」


 は、ふふ、と笑ったけれど、積極的に同意はしてくれなかった。

 まあいい。

 しを押し付ける気はない。何をいと思うかは自由だ。


「でも、おどろいた。まさか、アイドルの次の道が、声優とはねえ……それともうちの事務所、事業を広げるのかしら」

「それはないと思いますけど。社長も、声優のせんぱいとして、っておつしやってましたし」

「じゃあ、声優になりたくてうちに来たってことね。彼女、演技はどうなの?」


 すずねは首をひねった。


「かりんさま、ドラマとか映画とかに出たことないんですよね」


 くやしいが、ディアゴナルはその手のオファーが来るほどの、トップアイドルではなかった。テレビの看板番組を持つこともなかったし、楽曲のCMもアニメとのタイアップ曲だけだ。

 ミュージックビデオはあるが、ダンスパフォーマンスが主で、ソロのイメージパートがあっても、曲が流れているから、当然、台詞せりふはない。


「ふうん……じゃあ、未知数か」

「でも、こんなイレギュラーな時期にうちに入所したってことは、期待はされてるってことですよね?」

「期待の方向がどっちに向いているかはわからないけどね」


 ふくみのある言い方に、すずねは小首をかしげた。


「どういうことですか?」

「それなりに名前の知れたアイドルで」


 指を立てる。


「ダンスと歌もできて」


 もう一本。


「すでにファンも一定数確保されている」


 三本目。


「これって、新人としてはとても高いアドバンテージよね。きっと話題にもなるし」


 そういう言い方は、と言いかけて、すずねは口をつぐんだ。

 の言う通りだ。

 最近の声優は、演技だけできればいいというものではない。

 そこは最低条件で、アーティスト活動が前提のオファーもある。さらにグラビアやネット番組など、顔出しも多くなってきた。

 すでにアイドルとして名の知られたかりんなら、指名で案件もくるだろう。話題先行で、演技は二の次でも、という話もあるかもしれない。


「で、でもきっと、かりんさまは演技もできますよ! げんえき時代はとにかくストイックにかんぺきを目指す人だったんですから! いい加減な仕事はしません! わたしは信じます!」


 こぶしにぎってみせると、は、ふふ、と笑った。


「すずが言うなら、そうかもしれないけど、あまりはしゃがないようにね。内心、おもしろくなく思っている人もいるだろうから」


 それはわかる。

 オーディションのオファーには限りがある。

 人が増えればチャンスは減る。

 芸能の世界は実力主義だ。経歴、知名度、特技はもちろん、SNSのフォロワーまでも武器にして、自分をきわたせて仕事を取りに行くものだ。

 それはみな、わかっている。

 だからといって気持ちは割り切れるものではない。オーディションに落ちれば落ち込みもするし、受かった人をうらやみもする。


「……さんもですか?」

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