夜、とある寂れた街角。
築半世紀は経っていそうなコンクリの壁に無数の室外機。
錆びたベアリングが音をたててファンを回し、カビ臭く生温い風を起こしている。
ビルの谷間には窓から棄てられたとおぼしきゴミ袋が積み上がり、腐ったバラ肉じみた層を形成して、白く立ち昇る発酵ガスが室外機の風にゆらゆら、亡霊のように立っていた。
この街はゴミ溜めだ。
表通りは清掃会社の巡回も来るが、道を2つも挟めば地主も管理を放棄した廃墟が連なり、後ろ暗い振る舞いを好む『客』がめいめい勝手に店や住居を構えている。
その生活によって生じるゴミや排泄物は、管理放棄地故に公共のサービスを受けられぬままただただ積み上がり、古漬けのごとく腐ってゆくばかりに見えた。
「はあ、はあ、はあ、はあ……ハアッ!!」
そんな中、ゴミ袋の山を泳ぐように──《狼》が走る。
街の外なら一目置かれたに違いないハイブランドのスーツは無残に汚れ、はだけたシャツの胸元にはもふもふと分厚い胸毛が膨れ上がって、ボタンが千切れそうに張りつめている。
掌には柔らかな肉球、顔面すべてを覆う柔い体毛。焦りと恐怖を表すように突き出した舌はハッハッと獣臭い息をたてて、ゴミをかき分けながら必死に足搔いていた。
「来なきゃ良かった! 来るんじゃなかった! こんな街! こんな街! こんな街!!」
狼という字から想像できるような精悍さとは無縁の、無様な叫び。
絵本に出てくる、山羊の子を何匹も腹に収めて丸々と肥えた狼のように、ムチムチと太い腹を揺らしながら、高級スーツを着た二本足の狼は慌てふためき、ゴミをかきわけ逃げている。
比率で言うならヒトが7で、狼が3の、半人半狼。
「ヒッ!?」
──《でぶ狼》としか言いようのない男が、振り返ると。
ガダダッ! ガダダッ! ガダダダダッ……!
ゴミ袋を跳ね飛ばし、アスファルトにU字の烙印を捺しながら、でぶ狼に追いすがる。
切れかけた街灯に照らされた影が長く長く、まるで古の白黒映画の1シーンのように──
無数の室外機が張りついた凸凹の壁に、四つ脚の影が伸びる。
「わ、悪かった!! 悪かったよ!! だから──殺さないで!!」
ゴミ溜めに溺れたでぶ狼が悲痛に叫ぶ。
だが四つ脚の影は動じることなく、諾足のリズムを刻んで駆けてくる。
これが《外》ならば、辻々に仕掛けられた監視カメラの映像を基に、治安部隊が出動。
重火器の使用も視野に入れた武力行使により《でぶ狼》は救われたかもしれない。
事実、彼は最後までその希望を捨てることなく、無様に助けを求め、慈悲を乞うた。
「悪ふざけだったんだよ!! この街なら何してもいいって! 身元も顔もバレずにどんなことでもできるって聞いたから、だから、だから、だから……!!」
最後の言葉はもはや掠れてただの嗚咽に変わっていた。
「ほ、本気じゃなかったんだ! アンタもそのつもりだったんだろ!? そんな恰好でここ歩くとか、もう誘ってるようなもんだよな!? 俺は悪くねえ、俺は……!」
温い風が吹く。室外機が流す油やカビの臭いではなく、もっと生臭く、生々しい風だ。
それはでぶ狼の遥か頭上、3m超えの高みから──吹いてくる。
「ヒギッ!?」
ぞくりと震えたでぶ狼が、振り返る刹那。
棹立ちとなった四つ脚の獣。それがU字形の巨大な蹄を振り上げて。
──グシャッ!!
「あいいいいいぃぃぃいいいいいっ」
デタラメな悲鳴。
うずたかく積みあがったゴミ袋に半ば埋もれた、でぶ狼。
狙いすましたかのように、その腕が半ばから潰れ、ちぎれていた。
ぺらぺらに踏まれた断面がアスファルトにへばりつき、血糊が広がる。辛うじて残った肩の骨と腕をつなぐ肉の断面、汚れた象牙色の生々しい骨と筋に、でぶ狼は一瞬見入り。
「あれ? 俺 ほんとに 腕、あ も、 げ……ッ!!」
肉体の一時的獣化をもたらす魔剤──怪物サプリは、肉体を著しく強化する。
それは単純な筋力の増大などに留まらず、脳に作用して痛覚を抑制し、文字通り野生動物に等しいしぶとさ、生命力すら与えるのだ。しかし、その恩恵は今や──
素直に死ねないというだけの、拷問と化した。
「あああああああああああああぁああぁあぁっ……ぁあああああああああっっっっ!!」
信じられない、という面持ちで、でぶ狼はちぎれた腕を拾おうとする。
泣きべそをかきながらスーツの袖に爪をひっかけた時、背後から迫って来た追跡者が、再びその前脚を振り上げると、無様に身を屈めたでぶ狼の背中を踏んだ。
「が あ ……ッ!?」
背骨が砕ける音がして、肺の空気がすべて吐き出されてカスッと鳴った。
それは、蹄だ。中指と薬指が変化して二股に分かれたウシやブタのような形ではない。
ヒトで言うなら足の指が全体を覆うほどに変化した一体成形の蹄。奇蹄目と呼ばれる動物が備える特徴がありありと、水溜まりを踏んだように真っ赤な鮮血に染まっていた。
ブルルルッ……!
鼻腔が震える音がする。
愉悦を含んだ響きだ。ウマが行う感情のサイン。
喜びと興奮を示す仕草と共に、ソレは今ひとつの命を無残に踏み潰そうとしている。
「たす け ……でっ!?」
……グシャッ!!
命乞いは届かず、転げ落ちた卵のように。
イヌ科とヒト科がミックスされた異形の頭蓋骨は砕け、中身がこぼれた。
数トンの圧力をこめて蹄は狼男をほぼ垂直に踏み潰し、挽肉となった死体がゴミに埋もれ、破れたゴミ袋からこぼれた異臭を放つ腐敗物の中に沈んでいく。
ソレは大きかった。
でぶ狼が全身沈み込んだゴミの山、そこに脚の半ばまで埋めながらもすっくと立っている。
もこもこと膨らんだイヌ科の毛皮とはまったく異なる、薄く短い褐色の体毛。アスファルトを踏めしめる四つ脚は太くて長く、生き物というより頑丈極まる重機のソレを連想させる。
一見、それは馬だ。
本来のウマという生き物の首がある位置からくっきりと6つに割れた腹筋が並び、豊かな胸と薄い色の先端を、内からの膨張に耐えられず破れた下着の残骸が辛うじて包んでいる。
袖を通したジャージは、ミチミチと張りつめてハムのよう。