前を留めるチャックはすべて開けているが、それでも子供が大人のそれを無理して着たかのように窮屈そうに──頼りない街灯の光に照らされて、点々とついた返り血まで見えた。
半人半馬。
ウマの胴体に人の身体を繫いだような異形の正体は、都市の暗闇に紛れて判然としない。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……っっっっ♪」
ただその口元、荒い息を吐きながら。
隠しきれない喜びのリズムと共に、かすかに覗く口元が吊り上がる。
京東仮面舞踏街 夏木原──ヒトを獣化させる《怪物サプリ》合法特区を震撼させる殺人鬼《轢き逃げ人馬》は、どこか踊るような足取りで駆け、去っていき──。
「ひでえな、こりゃ。ぐちゃぐちゃでやんの」
「3Dスキャン、デジタル保全完了した。遺体は回収、作業開始」
現場を訪れた二人組が潰れた死体と加害者の痕跡をスキャン。
舐めるように光が走り、精密にデジタルデータ化された犯行現場が記録、保全される。
耐衝撃ケースに詰められたモバイルPCは、本来の仕様なら即座にデータを送信、専門部署での解析を実行するが、通信回線がほぼ死んでいるこの街では、それもできない。
「今時、手でデータ持って帰るのってどうなのよ。ローテクすぎんだろ……」
「古今東西、超大容量データ通信の最速は、記録媒体ごと交通機関で運ぶこと、だそうだ」
「そこまでデカくねーだろ、この程度。ま、しゃあねえ。お仕事あるだけマシかぁ」
作業着にゴーグル、分厚いゴム手袋で衛生対策。顔も素性もわからないふたりは早くも猛烈な腐臭を放つ遺体を拾い、苦心しながら袋に詰めると口々に言った。
「この臭い、取れっかなあ。今日だろ、転入すんの。めっちゃ緊張しねえ?」
「別に。半分仕事だ」
「あ、ずっり。ひとりでクールぶりやがって、お前そういうとこあんよなぁ」
「ぶっちゃいない、というか──……」
作業着のひとり、二人組の片割れは、マスクをずらす。
ヒトのかたちを保った輪郭のライン、唇に微かな喜びを湛えて。
「わくわくは、してるな。──ようやく《普通》になれそうだ」
生態系の下支え、分解者の如き立ち位置。作業着に記された社名は《幻想清掃》。
どこかのビルや街角で見かける清掃員のような姿で、彼らは静かに動き出す。
「やらかしを止めんのと、高校デビュー。両方やるのって、ムズくね?」
「前者は仕事、後者は人生だ。どちらが大切かは言うまでもないな」
「そりゃそうだが俺らの場合、前のをサボると後ろが潰れっし」
二人組のもうひとりは、膨れた毛皮でパンパンに張りつめたツナギとマスク。
獣の輪郭を宿した人の姿を雑な作業着で隠しながらぼやき、潰れた成人男性の遺体を詰めた大袋をサンタクロースのように担ぐと、夜明けが近い街を歩き出す。
「行こうぜ、相棒。せめてシャワーと着替えはしねえとやってらんねえ」
「ああ」
肩を並べてふたり、死体と機材を担ぎ、情報を抱えてえっちらおっちら。
警察ではない。声の調子は十代の若者のようで、隠しきれない青さが溢れている。
「とっとと犯人とっ捕まえて青春しようや。目星はついてんだしな」
「悪いが、少し早めに行って捜査を進めてくれ。俺は書類を出してからになる」
「あいよ。つうかさ」
被害者。獣と化したまま死んだ、顔も素性もわからない誰かの遺体。
裕福そうなスーツ。財布も腕時計も靴も、血まみれの靴下まで現場近くに潜んでいた誰かが持ち去り、裸同然の状態となって袋に詰まった、名前すらない哀れな肉塊。
「外で死んだら大騒ぎ。ここで死んだら紙切れ一枚。何でこんなとこ来んのかね?」
「暇なんだろう。《外》の大人は」
オフィスに戻ってから書き込む書類のテンプレートを思い出しながら、ひとりが告げる。
事件ですらない、清掃作業報告書。形式ばった文章を解体するなら。
『デカいゴミが落ちてました。片付けました。終わり』
それで済んでしまう適当さ。ヒトの命は重く、獣の命はゴミより軽く。
けれど誰かが片付けなければ、目障りでしょうがない。──それもまさにゴミのよう。
死に損とでも言うべき誰かを担いで、掃除屋たちは朝靄けぶる街角に消えていった。
──── 01 特殊永続人獣 ────
時は流れ、時代が変わっても、駅には独特の臭いがある。
石炭と煤煙に燻された蒸気機関車の黎明期は遥か昔。ホームに列車が入り、停まると同時に消毒液が噴霧され、顔のない人々が薄い霧をかき分けるように降りてゆく。
「………」
「………」
ぞろぞろ、と擬音が似合う足取りで、無駄口ひとつ叩かず人々は歩く。
サラリーマン、学生、通勤時間帯を占める多数派のマスク着用率は100%。近年開発された皮膚密着型の使い捨てマスクは、着用者の肌の色を読み取って調和し、溶け込む。
いわゆる『モブ顔』──眼以外の口元、鼻腔など露出部を極薄皮膚で覆ったようなそれは、飛沫、ウィルスをほぼ完全に遮断。顔認証を妨げない密着構造で公的な場でも着用可。
モブ顔の人々は、ホームと車両に設置された監視カメラにその移動経路を認知されている。
365日、24時間、全国民の所在、移動経路をリアルタイムで監視する《神の眼》。
感染対策に端を発する監視システムは当初プライバシーの侵害、個人情報の保護が叫ばれたものの、強行策を求めるヒステリックなSNSの圧力に負け、実装されて数年が経つ。
ピピピッ……!
降車しようとした人々の中で、端末が鳴った。
すると人波が一斉に左右に割れ、道を空ける。
ニコニコと群衆顔のマスクの裏に笑顔を張りつけながら、拍手でもせんばかりに──
「……ふん」
割れた人波の先にいるのは、ひとりの少女だった。
駅近くにある都立校、アカネ原高の制服姿。ツンツンと尖った癖っ毛、可愛げより鼻っ柱の強さを感じさせる眼差しで周囲を見渡すと、軽く頭を下げてから。
──キッ……!
タイヤが軋み、彼女が乗った車椅子が割れた人波を進んでいく。
ミニスカートから覗く彼女の足は健やかに肉づいて、健康そのもののスポーツマンのようだ。が、それが詐病の類でないことは、道を空けた人々全員が証明している。
車両の天井に隠されたカメラが少女の顔にフォーカス。
所持端末と同期し、顔認証により個人情報を解析する。
『国民登録番号XXXXXX 京東都立アカネ原高校2−A』
『賣豆紀 命 賞罰履歴 都中学総体陸上 女子1500m 1位 大会記録』
暗号化された国民登録番号に基づき、所持端末でSNSが起動。