日々の暮らしのつぶやき、陸上選手として栄冠を勝ち取る誇らしい姿などが参照され──。
『交通事故による脊椎損傷 右脚麻痺』
『生活支援要度:B』
同じ車両に乗り合わせた人々の端末に、通知が飛ぶ。
社会管理システム《神の眼》により、社会的・身体的弱者へのサポートは推奨され。
──その実行者は、模範的市民として確実にポイントを稼ぐことができるのだ。
ピンポン♪
『おめでとうございます。生活支援貢献Bが達成されました』
『信用スコア+1。社会信頼度に加算されます──』
非通知にしていなかったのだろう。
人波のいずこかから、端末の機械音声と信用スコアの加算通知がピコンと鳴る。
「どうぞどうぞ!」
「お嬢さん、お困りなら手伝いますよ?」
「……いらない」
顔半分を覆う群衆マスク。だがわずかな皺が、その裏の笑みを隠しきれない。
たかが1ポイント、されど1ポイント。この超管理社会において、信用スコアは税控除からクレジットカードやローンの限度額に至るまであらゆる社会活動の基準となる。
道を空けるだけで稼げるとあらば当然、ニッコリ笑顔もこぼれるというもの。
「……あり、がとう」
重々しい、言わされている感のにじみ出るようなお礼にも。
「「「はい! どういたしまして!」」」
善行を積んだ、という確信から、群衆はハキハキと返事をする。
そんな人々を胡乱げに見渡すと、命は今時珍しい手漕ぎの車椅子を走らせ、車両を降りる。
当然、何も言わずとも全自動でタラップが出現。彼女のいくところ雑踏など無縁のものだ。どんなに混んでいようと道は空き、にこやかな笑顔とポイント加算通知が響き続ける。
ピンポン♪ ピンポン♪ ピンポン♪ ピンポン♪ ピンポン♪ ──……ピンポン♪
「……うっっっざ!!」
群衆を抜け出し、ようやく駅構内から出ると。
賣豆紀命は溜まりに溜まった鬱憤を吐き出すように、そう咆えた。
空は青く、風は澄み、街路はゴミひとつなく美しく。
時間をわずかにずらしたせいか通勤通学のピークを外れ、自分以外の人影はなく。
故に我慢の必要もなく、わずかな間に溜まった黒いものを言葉に変えて吐き出した。
「親切面するなら、せめて通知音くらい切っとけっての……!」
今、彼女が暮らす世界において【匿名】は特権で。
みんな、優しいふりをして、生きている。
ギッ、ギッ、ギッ……!
体脂肪率ひとケタ台。極めて精悍に搾られた、女子とは思えない腕。
それが今時珍しい完全人力、動力アシストの一切ないアナログ車椅子を進ませる。
首筋に汗を浮かべながら見上げた坂道、傾斜のきついその先に校舎の壁が見えた。
「……ふっ、くっ……ぎっ……!」
歯を食いしばって車輪の握り──ハンドリムを強く回そうとした、その時だった。
袖から滴った汗が掌に伝い、つるりと滑る。
「はあっ!?」
女子らしくない声があがる。滑ったハンドリムから手が離れ、タイヤが制御を失った。
真後ろ──慣性の法則に従って急な坂道を転がり出す。
(ヤバっ、死ぬ……!?)
坂を上り切れず車道に転落したら、その先は交通量の多い一般車道。
とっさに聞き取る、車のエンジン音、通行音。自動運転車両のオートブレーキがあろうと、勢いよく飛び出した異物に対処できるか怪しい。最悪、そのまま、撥ねられる。
(……あ。でも、ま……)
ブレーキレバーを倒そうとした手が、萎えた。
(いっ、か……?)
歯を食いしばっていた顎から力が抜ける。
世界のすべてを諦めたように、ふっとブレーキレバーから手が外れた。
転がる車椅子。真後ろへすっ飛ぶように流れる風景が──。
──キイッ!
「っ!?」
突然、停まった。
慣性で椅子から投げ出されそうになる身体を反射的に押さえ、振り返る。
ピントのずれた命の視界に、真っ先に映ったものは。
通り過ぎる車。
歩道の縁石に乗り上げかけた車輪を、誰かが割って入って止めたのだ。
……もし、一瞬でも遅れていたら?
「~~~~────………っっっっ!!」
ぞわっと背筋が凍り、バケツの水を被ったように冷たい汗があふれ出る。
かつて味わった感覚が蘇る。そう古い話ではない、ほんの数か月前だ。部活の後輩と一緒に、くだらない話……確かアイドルの誰それがどうとかいうネタに気のない相槌を打った直後。
真横から突っ込んできたフルマニュアル。今時珍しい手動運転のスポーツカーに真横から、がっつり撥ね飛ばされて背骨が曲がり、ぶっ飛ばされたあの感覚……。
(死んだよな、あんとき、あたし)
リアルに感じた《死》。あの時、一度自分は死んだのだ、と命は思う。
足が動かなくなっただけで命はとりとめた。手術を受けてリハビリをして、先端医療の力で回復を遂げた。わあラッキー、助かった。大事に前向きに生きなくちゃ……!
なんて思える、わけがなくて。
(走れなくなったら、なんにも無くて)
それだけにすべてを懸けてきた。ただ走るのが好きだった。それ以外何も無かった。
足を失って抜け殻になって、どこへいってもピンポンパン。
押しつけがましい通知に追い回されて、にやにや同情されながら。
ありがたい善意に感謝して、残りの余生を過ごすのだ──と。
あまりにも惨めと、思い知ったから。
「誰も」
強がりが、漏れた。
「助けてくれなんて、頼んでないけど?」
「……」
車椅子のハンドルを摑み、我が身を盾に飛び出しを防いでくれた人物──少年。
年齢は彼女とほぼ同じか、やや下だろうか。髪は7対3の割合で黒髪と白髪に分かれ、特殊な左右非対称。奇抜なファッション……にしては他に飾り気や洒落っ気がまるで見えない。
命と同じ、アカネ原高の男子制服。黒のウレタンマスクで口を覆っているが、ウィルス遮断、飛沫抑制効果が薄い代物を今時使う人間など、よほどの田舎者くらいだろう。
ぼんやりと淀んだ目つき、青白い肌。クールな顔立ちは正直かなりのイケメンに見えたが、生憎、やさぐれた命にとって、何の慰めにもならなかった。
「余計な事、しないでよ」
命がそう言い、振り返りながら見上げた時だ。
風にそよいだ少年の白髪、その前髪の先端がわずかに溶けた。
(え? 今の……気のせい?)
まるで線香の煙のように、ほんのわずか──
白髪の先端がごくごく薄い煙を放ち、漂う空気にスパイシーな香りが混ざっている。
決して悪い臭いではない、むしろ上等の香水じみた大人の空気を醸している、のだが。
(何て言うのかしら。……モテそうな奴だわ)
そこが強くひっかかる。顔立ちの良さもそうだが、どこか憂いを帯びた陰のある雰囲気は。
「金持ちのOLとかに囲われてそうなイケメンね、あんた」