意味のわからない文字列に、命の思考が真っ白に変わる。
そんな彼女に顔を寄せ、マスクに指をかけ──整った顔立ち、どこかセクシャルに。
美しい唇をわずかに歪め、笑みの端に白磁の牙を覗かせて。
「手下の首輪には、十分だけど」
「……何なのよ、あんた……!」
黒白男と車椅子。一方はニヤリ、もう一方は警戒心も露わに。
朝の通学路でしばし──睨み合った。
*
「大昔、神様やら英雄やらがいたころは──……か」
都立アカネ原はごくごく普通の公立校だ。
設備は最新。建物は広く、生徒数も多いが人は少ない。
感染対策のリモート授業が進んだ結果、各クラス、学年ごとに交替制で登校するため、生徒全員が顔を合わせる機会は入学式と卒業式くらいのものだ。
そのせいか、どこかがらんとした印象を与える校舎内。
登校日を迎えた2−Aの教室、車椅子でも出入りしやすい最後列の席で、タブレット端末に表示された教科書の頁をめくりながら、賣豆紀命は呟いた。
運動一筋、ほぼ歴史に興味などなく。
テストは重要語句を意味もわからぬまま覚えて書くだけだったから、知らなかった。
「必死で戦わないと、ヒトは滅びちゃうとこだった。……って。噓くさ」
だがそれは過去の話だ。
ヒトを石に変える魔女だの、睨んだだけで命を奪う魔王だの、そんな代物はとうに滅びた。
化石だのボロボロの武器だの手だの指だの髪の毛だの、何だかインチキ臭いものが世界中の博物館に収められているらしいが、まったくといっていいほど現実味がない。
子供の頃、男子が夢中になっていた恐竜図鑑を眺めたのと同じ感覚だ。
とっくに滅びたモノに価値があるとは思えない。
「あれ? 転校生クンたち、どこ行った!?」
「ゆみ。目がコワいよ。どったの」
「だってさあ! イケメンじゃん! もう一回言うよ。……イケメンじゃん!!」
昼休み。適当に昼食を済ませてタブレットを眺める命の耳を、やたらと溜めた声が打つ。
何となくそちらへ視線を向けると、同級生のギャル風コンビが騒いでいて。
「白黒の……れーじ君だっけ? あっちは確かに。けど黄色い人はイケメンじゃなくね?」
「わかってないな~。あれはイケてる。絶対腹筋バキバキ割れてる、うちには見える」
「ただのフェチじゃん……。まあいっけど、二人とも人獣でしょ?」
何気ない会話に含まれた人獣という単語に、命はぴくりと反応した。
「たまにいるんだよね。大昔のお化け? みたいなやつの子孫とか、そういうの」
「お化けて。ないし」
「いやマジだって。今はほとんどいなくなっちゃったけどさ、狼男ー、とか? そういうの。今は変身したりとかできなくなっちゃってるけど、でぃーえぬえー? のやつ」
「めっちゃ曖昧」
「興味ないもん。前政経のセンセが話してたけどさー、法的には犬とか猫と同じなんだって」
「え、動物ってこと? イケメンなのに? ……もしかして飼える? イケメンを!?」
「その結論にびっくりだわ、あたし」
聞いているだけで頭が悪くなりそうな会話に、うんざりしながらも。
(特殊永続人獣、か)
ガラケーの画面に表示された個人情報は、転校早々クラス全員に開示された。
まさかの同じクラス。マンガじみた運命に驚くより、命は気味の悪さを感じてしまう。
(ホントに偶然かしら。……そうじゃない、ってこともありそうだわ)
野生の勘、とでも言うのだろうか。
事故に遭った時は何の反応もしなかったから当てにならないが、それでもあの妙なイケメン、霞見零士と同時に転校してきたもうひとりには、得体の知れない何かを感じていた。
「フツーの人獣は、ほら。街で《魔剤》キメた時になるやつだよ」
「あー、あれ。面白いよね、ウサギになったり犬になったり猫になったり」
「そそそ、アレ。一時的で、キメた分が萎えたら戻るじゃん?」
「そりゃ戻らなかったら不便でしょ。めっちゃ目立つし」
「その戻んないバージョンが特殊永続人獣、トクニンってやつだって。たまにいるらしいよ」
「へー。でもあの人たち、普通じゃん?」
「あたしに言われてもわかんないッピ。そういうのもいるんでしょ」
「ふーん、ま、差別とかよくないし。イケメンしか勝たんし、よくね?」
「ある意味真理だわ、それ」
まだ続いていた同級生の頭の悪い会話を聞き流す。
「基本扱いは動物なんだけど、税金払ってるし? いちおう学校とかも行ける? らしいよ」
「ふーん。だから転校してきたんだ。あ、でもさ、確か《街》にあるよね、学校」
「あそこはねー、キメてるときにエッチしてできたトクニンが行くとこ。親いないし、だからめっちゃ荒れてんだって。近寄んないほうがいいよ、ギャングみたいなもんだし」
「はえー、そうなんだ。くわしーねー」
「噂よ、ウワサ。ホントかどーか知らないよ? あたし《街》行ったことないし」
「えー? 楽しいとこだよ、刺激的だし。……今度行ってみない? 魔剤オゴるし」
少し身を屈め、耳元で囁くような誘い。密談のつもりらしいが、丸聞こえ。
「やだ。アレ、変身ランダムだよね? ブタとかなったら一生の恥だわ」
「それさ、最近聞いた話だと、人によるんだって」
「何ソレ」
「なんかね? 犬になりやすい子とか、猫になりやすい子とか、オカピになっちゃう子とかさ。同じ魔剤キメても、ガチャなだけじゃなく、あるみたいよ? そういう法則」
「オカピは無いわ……」
「え、かわいーじゃん? オカピ。しましまだよ?」
「知らんし、どんなだか想像つかんし。ますます拒否りたくなった」
「あー、でもなんか噂だと、そういうの以外のトクベツなのが……」
急に声をひそめられ、続きは耳に届かない。
少し残念だが、そんな様子は表に出さず──命は机に頰杖を突きながら空を見上げて。
「どーでもいいけど、さ」
昼休みになるや早々、教室を出て行った怪しい転校生たち。
人獣、ニンジュウ、マンビースト。そんな風に言われる妙な奴らが。
「邪魔になんなきゃ、いいけど」
あいつが、今朝のように変に絡んできたら、少し困る。
放課後、行くべきところがあり、やるべきことがある。邪魔はされたくない。
結果、役立たずのこの身がどうなろうとも。
だから、勝負は──今夜だ。
*
賣豆紀命が思い悩んでいるのと同日、同時刻。
校舎屋上に設置されたベンチにて。
「オレたちめちゃ噂になってんよ、零士。有名人じゃね?」
「知るか。さっさと食え」
冷たいビル風が吹きすさぶベンチに男子が二人、並んで座ってもぐもぐタイム。
一人は黒が7で白が3、黒白髪のぶっきらぼうな少年、霞見零士。
背丈はおよそ172㎝。スラリと長い脚と小顔のバランスが、成長期の少年らしい恰好よさと、どこか大人びた怜悧な雰囲気を両立させている。
「今日の弁当、手抜きじゃね? 茶色ばっかじゃん、野菜入れろっての」
素っ気ないタッパー。
冷えたふりかけおかか飯。くたくたに煮たキャベツ。特売の安物ソーセージ。
以上、それだけの──量だけはそこそこ多い雑男飯、まったく同じ弁当が2つ。
「野菜は高いんだよ。キャベツが入ってるだけマシだろ」
「くったくたに煮たやつじゃん、お爺ちゃんかよ。せめて生! サラダにしてくんない!?」
「傷みかけた特売品だ、生で食うと腹を壊す。配慮だ」
「マジかよ。つれーわー……みじめだわー……」
もう一人は制服の下にたるんだTシャツを身につけた、少年──いや、男だ。