道路に盛大にはみ出した居酒屋では衛生観念のかけらもない金ダライになみなみと注がれた安酒を、サラリーマンとおぼしき乱れたスーツ姿の獣人たちが飲みあさっている。
身体的特徴を書き換え、あらゆる公的な追跡を遮断し、記号的な『動物』に変身する。
副作用なし、違和感なし、インスタントでカジュアルな《変身》。
まったく違う自分になれる《魔剤》──怪物サプリ、合法特区。
人類史のゲームチェンジャーとされる、21世紀初頭のパンデミックと社会の混乱は、人々に強い危機感を募らせ、抜本的な解決が叫ばれた。ウィルスの不安なき世界、清浄な世界を!
ヒステリックな叫びに圧されるように完成した超管理社会だが、主導した政府、財界の暴走を糾弾する声は大きく、人々は抑圧の中でわずかな自由を求め続けた。
その解答こそ、パンデミック抑制に大きく貢献した巨大企業──
《Beast Tech》がその功績と強権を以て成立させた、特区法案。
魔剤をキメた人間は、ヒトならざる生理と代謝を獲得する。
即ち一般的なウィルス、細菌性の病気に感染するリスクは極小、理論上ほぼゼロ。
さらに、サプリ効果中の人体は異様なまでに細胞分裂・自然治癒が促進され、ささいな外傷なら数分。骨折などの重傷も、適切な処理を行えば数時間もあれば完治する。
文字通り、夢の薬。
感染症対策、戦時体制を名目にあらゆる制限を突破。SNS義務化と公的個人認証の独占。言論規制、集会、宴会、性風俗などが規制、信用スコアの減点対象となり──
事実上禁止された超管理社会における例外。あらゆる自由が約束された街。
人獣特区──仮面舞踏街、夏木原。
*
夏木原駅を少し外れた繁華街の裏路地に、二人の少年が立っている。
陽は落ち、空に月。スモッグに霞むそれを、頼山月は魅入られたように見上げていた。
傍らに立つのは黒白の少年、霞見零士。この人獣特区においておかしなことに、ふたりとも獣にならずヒトのかたちを保っており、退屈そうにガラケーをいじっていた。
「……まだか?」
「もうちょい。もうちょいだ。きた、きた、きた……きたぁ……おおおおっ……!!」
ぞわわ、と月の髪が逆立ってゆく。
牙が伸び、揉み上げが伸びて頰と繫がり、分厚い毛皮が制服を内側から膨らませる。
厚く丸々と膨れた筋肉と骨。鋭い眼に灰色の毛皮、頭部にはかつてのヒトの痕跡を残すかのように、黄色く染められた髪がメッシュのように残っていた。
「アォォオオオオオオ………────ンッ!」
人狼。
人狼。
そのように呼ばれる古の怪異、とうに廃れたフィクションの産物じみた存在が、ハフッ……とリアルな狼のごとく息をつき、ふたまわりほども大きくなった巨軀を丸めた。
「わりぃ。待たせちまったな、もういいぜ?」
「それはいいんだが」
──シュウウウゥゥゥ……と、スプレーを噴いたような音がする。
人狼と化した少年の隣、霞見零士の傍。マスクに覆われた口元からだ。
顔半分を覆う黒のマスク。その隙間から白い霧が噴き、もわりと蛇のように渦を巻く。
冬場に置かれる加湿器に似た、しかし生き物じみた挙動。マスクの隙間から洩れた白霧は、彼の口元から下顎、首にかけてマフラーのように包み、隠している。
「毎度毎度、うるさい。吠えるな」
零士がイラッとしたような面持ちで睨むと、月は毛皮を搔きながらぼやくように答えた。
「悪い悪い。ムズムズすんだよなあ、シューセーってやつ?」
「無駄吠えの躾もできてない飼い主と思われたら恥ずかしい。我慢しろ」
「ナチュラルにペット扱いすんな!? むしろお前だろ、病んだOLに飼われてそうなの!」
「他のヤツにも言われたがお前ら俺を何だと思ってるんだ!?」
ぎぎぎ、としばし人狼と霧の少年は、暗い裏路地で睨み合い。
「……モメるだけ無駄だ。骨ガムやるから次は耐えろ」
「あいよ、それで手打ちにすっべ。……うまっ」
包装を剝いて渡されたペット用の骨ガムをぱくりとくわえ、月を先頭に歩き出す。
「うまいのか、それ」
「ヒトのときだと物足りねえけどな。この形になると舌もそっちに寄るんよ」
「そうなのか」
「そうなのよ。人間の食い物もうまいけどな、味がよくわかるようになる? 気がする」
「曖昧だな……。お前、好物は何だった?」
「鳥ささみとブロッコリー! 茹でたやつな」
「……やっぱ犬だろ、それ」
「あんだとぅ!?」
そんな、くだらないやりとりを交わしながら裏路地を歩く。
無法の街に赤々と灯るコンビニの光。だが窓は強化ガラス、ゴツい壁一面の鉄格子。輝きに吸い寄せられるかのごとく、毛並みの悪い獣人たちが折り重なるように寝転んでいる。
布団のかわりは新聞紙と段ボール。腐った弁当と嘔吐物とアルコールの臭いを漂わせながら、うっそりと寝ている塊を踏まないように避けて進むと、月はうんざりとボヤいた。
「帰らないヤツ、増えてんなあ」
「たまに来るだけじゃ飽きたらず、路上に住み着いた奴らか」
仮面舞踏街で居住許可が下りるのはごく一部だ。
それ以外は無法地帯の廃墟に住み着くか、あるいは路上を寝床とするしかない──
そうした占拠者は、仮面舞踏街のどこにでも、いくらでもいる。
「何がいいのかね? 外の方がキレーだし、メシもうまいし、臭くねえし、静かじゃん」
「そう聞くとたいていは『自由がない』と答えるな」
「ま、いくらでもあるわな、ここなら。ただし……」
「自分の身を自分で守れるヤツに限られるが、な」
コンビニの門前。
落ちていたホットスナックのかけら、串に残ったちっぽけな肉をめぐって。
「俺んだ!! 放せ、この野郎!」
「見つけたのは俺だろ! げっ、ごは……!? ちくしょう、死ね!!」
ホームレスらしき瘦せた野良犬男がふたりもつれあい、嚙みつき、殴り合っている。
たむろするホームレスたちは止めるでもなく、つまらなそうに眺めながら──
……ゴキッ!
いい拳が顎にヒットし、ふらふらと野良犬男がひとり、ゴミに埋もれるように倒れ。
すかさず周囲の占拠者がわらわらと群がり、そのポケットに手を突っ込んだ。
「ちっ、しけてんな。小銭も持ってねえ」
「……魔剤が切れる前に次を買わねぇと。おら、金、金だよ、金!」
「げっ! がっ! や、やめ……やめろ、てめえら!」
「しょうがねえ。このボロで勘弁してやるか。脱げや」
「ひぃぃぃぃ!」
倒れた野良犬男から小銭はおろか、着ていた服まで引っ張り、剝ごうとするさまを。