「昨夜のお隣さんは、ほんとうに天条先生だったのか?」
翌朝。登校した俺は、自分の席で昨夜の出来事について改めて考える。
ひとり暮らしをしている男が無意識に抱えるさびしさが見せた幻影ではなかろうか。
まさか自分の担任教師がお隣に住んでいるなんて。
俺こと錦悠凪は都内にある進学校、私立輝陽高等学校に通う。
二年C組、出席番号は23番。帰宅部。生活費を出してくれている実の父親との約束で学業は真面目にやっているので成績は悪くない。休み時間に話すくらいの知り合いはいるが、親友と呼べるほど仲のいい相手もない。恋人ナシ。
そんな俺のクラスの担任こそが天条レイユその人だ。
「いや、でも手も触れたし」
重なり合った手の感触や体温は本物だった。
俺の部屋の冷蔵庫の中にも彼女の持ってきたおすそわけのイチゴが冷やしてある。
朝食に食べてみれば彼女の言葉通り、甘くてジューシーで美味しい。
玄関には去り際に落としていった女性物のサンダルを念のため回収しておいた。
履き物を忘れていくなんて、まるでシンデレラのお伽話みたいだ。
実際にお姫様と言われても俺は素直に納得してしまう。
天条レイユはそれくらい眩しいほどの美人なのだ。
とはいえ、俺が名乗るなりお隣のお姉さんは一目散に逃げ出した。
「交流のない隣に住んでいる男が自分の名前を知っていたら、そりゃ先生じゃなくても女の人なら恐くなって逃げ出すよな……」
一晩経って冷静に己の行いを振り返り、思わず苦笑い。
部屋や郵便受けには部屋の番号だけ。俺も先生も名前のわかる表札を出していない。
若い女性の反応としてはごく自然なものだ。
むしろ生徒と教師が偶然にもお隣さん同士になる確率の方が遥かに現実味は薄い。
「先生がお隣さんだなんて、そんなことあるか」
驚きながらも俺は少しだけ浮かれてしまっていた。
同じ屋根の下、壁一枚向こうに美人が住んでいるだけでドキドキしてしまう。
「みんな、おはよう! 今朝は晴れて気持ちいいね!」
朝のホームルームの時間になり、天条レイユが元気よく教室に現れた。
彼女はいつも通り明るい笑顔を浮かべながら教壇に立つ。
俺が座っているのは教室の中央列の最前席で、ちょうど教卓の真正面。
つまり、俺は先生の目の前に座っている。
一瞬、俺と目が合うも天条先生は爽やかな笑顔を崩すことはない。
昨晩プライベートで鉢合わせした生徒が目の前に座っているのは、かなりのプレッシャーを感じているはずなのに大したものだ。
クラス委員の号令後、テキパキと出席をとっていく。
天条先生は俺が入学した昨年、同じく新卒として輝陽高校にやってきた。
とんでもなく美人の新任教師が入ってきたとして当時から学校中の注目を集める。
はじめて彼女を見た時、アレが噂の天条先生だと一目で理解した。
間違いなく、今までの人生で出会った女性の中で一番に綺麗な人だ。
顔やスタイル、溢れる余裕や知性などすべてが超一級品。
あまりにも極上な女性は、まともに生きていても一生縁のないタイプ。
目の覚めるような美人という表現が真実なのを俺は天条レイユによって教えられた。
ただ、俺が彼女を気になるようになったのは外見のせいだけではない。
最初に魅了された瞬間のことは、今でも覚えている。
入学して間もないある日、たまたま日直だった俺は数学の先生から宿題のプリントを集めて職員室に運ぶ役目を任された。
職員室へ持っていくと、その数学の先生が見当たらない。
代わりにひとり、真剣な表情で机に向かっている先生に目を奪われた。
それが天条レイユだった。
職員室の中にも拘らず、その人の横顔に見惚れて動けなくなる。
自分と大して年齢の変わらない女性が真剣に働く姿がカッコよく見えた。
迂闊に声をかけるのも躊躇われるくらい没頭できることが羨ましい。
その本気さが尊かった。
俺自身、どちらかと言えば一生懸命になるのが苦手なタイプだから憧れてしまう。
そしてあれほどの美貌の持ち主でありながら、教職に就いたことが不思議だった。
たくさんの想いが次々に湧いて、興味が尽きない。
要するに、俺は天条レイユのがんばっている姿が愛おしいと感じていた。
『あれ、なにか用事?』
そんな俺の視線に気づいた彼女が顔を上げた。
声をかけられて、俺はどんな風に話したかが曖昧だ。
多分しどろもどろになりながら、なんとか用件を説明していた気がする。
天条先生は笑いながら『先生の席はそっちよ』と教えてもらった。
大して中身のない事務的な会話。
それでも俺にとっては初めてのふたりで話した瞬間だった。
以来、俺は憧れの対象のように天条レイユという先生が気になるようになる。
そんな若くて見目麗しい彼女が今年、二年C組の担任になると知った時はクラス全体が歓喜の渦に包まれた。もちろん俺もその中のひとりだ。
黙っていれば超絶美人、口を開けば気のいいお姉さん。
どうせ一年間受け持ってもらうなら恐い先生より天条先生がいい。
そして一学期最初の席替えにより、俺はこうして先生の正面に座ることになった。
「錦くん」
俺はできるだけ自然に「はい」と答える。
天条先生は動揺を見せず、そのまま次の生徒の名前を呼んだ。
いつも通り。特に異変は感じられない。気負っていたのは俺だけなのだろうか?
現時点ではわからない。
だから昨夜の一件が俺の勘違いかをハッキリさせるために、いくつか作戦を考えてきた。
作戦その1、天条先生をよく観察してみる。
色素の薄い長い髪は窓から射しこむ陽の光に透けて輝いて見える。内側から光るような色白の肌は瑞々しい。大きな宝石のように煌めく目と艶やかな小さな唇、鼻筋の通った高い鼻梁は小さな顔の中に、美の女神によって最良のバランスで配置されていた。
服装は白いブラウスに淡い水色のカーディガンを羽織り、タイトなロングスカートという組み合わせ。シンプルなアイテムで合わせたビジネスカジュアルな装いながら、知的な色気と爽やかな印象をあたえる。
水泳部の顧問をしており、背筋がしっかり伸びた立ち姿も絵になった。
天条レイユは教師なのにあまりにも華がありすぎる。
「じゃあ、今日も一日がんばろう!」
最後に連絡事項を伝えて、天条先生は何事もなかったように教室を去った。
はっ、見惚れているうちに朝のホームルームが終わっていた。
「うーん。昨夜は俺の見間違いだったのか?」
もしやお隣さんは先生ではなく、整った顔立ちをした別人なのかもしれない。
ほんの短い時間のやりとりだったから、ハッキリと天条レイユその人だという確信がなんだか揺らぎそうになる。
だが、俺の心は別人説を否定していた。
俺が唸っていると、遅刻してきた女子生徒・久宝院旭が机の前を通ろうとする。