遅刻してきた元陸上部エースは気の強そうな顔に眠たそうな目をしながら、口からチュッパチャプスの棒が飛び出している。堂々としているというより、ふてぶてしい。この学校にしてはちょっと珍しい不良っぽい雰囲気のある女の子で、密かに気になっている男子は多い。
「…………」
気づけば、通り過ぎるはずの久宝院が目の前で立ち止まっていた。
「おはよう、久宝院。今日も重役出勤だな」
「急に話しかけるな」
彼女は俺を眼光鋭く一瞥して、窓際にある自身の席へ足早に向かってしまう。
作戦その2、遠回しに探りを入れる。
四時間目は日本史の授業で、再び天条先生が教室に訪れる。
天条先生の担当科目である日本史は生徒の間でも評判が高い。
歴史上の出来事をわかりやすく説明するのはもちろん、たくさんの人物ひとりひとりを印象的に話すので名前が頭に入りやすい。流行りの歴史物コンテンツやニュースなどのやわらかい話題も交えてくれるので、歴史に興味のない人にも大変とっつきやすいのだ。
「…………錦くーん、手が止まっているよ。ちゃんと板書している?」
声をかけられて、自分のノートが真っ白なことに気づく。
席の立地を利用して、質問するタイミングを見計らっていたせいで手を動かすのが疎かになっていた。
「すぐに書くので消さないでください!」
この最前列の視界は、教壇に立つ教師と黒板でほぼ埋め尽くされる。
座席位置だけでなく、天条レイユが前にいる時はとりわけ手が止まりやすい。
彼女ならいつまでも飽きずに見ていられるからだ。
「一番前の席だと見づらいよね。ちょっとだけ待ってあげる。他にまだの人も急いで」
天条先生はいつものように息抜きタイムを設ける。
「レイユちゃん先生が美人すぎるから、特に男子は集中できないんだと思いまぁーす」
クラスで目立つ女子グループの中心人物である黛梨々花は、先生相手にも完全に友達と話すノリだった。
黛さんは絵に描いたような陽キャなギャルだ。
長い黒髪をツインテールに束ね、紫のインナーカラーを入れている。
その派手な見た目通り、テンションは高くノリが軽くて、裏表のない性格と物言いで友達が多い。クラス内ヒエラルキーの頂点にいながらも、彼女はなんでも面白がるオープンマインドな性質なので、クラスメイトのグループなどお構いなしに話しかけるおかげである。
リア充グループと話すのはもちろん、優等生グループから勉強を教わり、体育会系グループとは一緒に盛り上がり、アニメやゲームの話題はオタク系グループと熱弁を交わす。
朗報、オタクにやさしいギャルは実在したッ!
そんな黛さんがマジリスペクトな人が、我らが担任・天条レイユである。
黛さんと同じように女子生徒は天条先生の周りに休み時間や放課後にわんさと集まり、その美しさの秘訣を訊ね、色恋の相談をしていた。
「そんなことないよ。男子は勉強熱心でよく質問してくるし」
「レイユちゃん先生とお喋りしたいだけでしょ」
黛さんは笑顔で男子の慎ましい積極性を見抜く。
やめろ、口実がなければ話しかけられない男のチキンハートをバラさないでくれ。
俺は、図星な男子生徒たちが胸を押さえる気配を背中で感じた。
「共通の話題があると話はしやすくなるでしょう。勉強、恋愛、仕事、どんな場面でも会話は弾む方が楽しくていいじゃない」
誰も否定することのない言葉選びと説得力のある率直な言い方。
これこそ天条先生が男女を問わず人気を集める真の理由だろう。
「それで錦くん、もう書き終えた?」
思わず感心していた俺に対して先生が確かめてくる。
「すみません、まだです」
「もう、集中しなさい。こっちのこと見すぎ。なんか変なところでもある?」
先生は自分の身なりを確認する。その何気ない仕草でさえ色っぽい。
どうする、ここでいきなり昨夜の件を訊ねてみるか。
「…………」
「ちょっと、黙りこまないでよ。不安になるじゃない」
「いえ、なんでもありません。実は先生に見惚れてしまっていて」
俺のわざと冗談めかした発言に、クラス中がどっと笑う。
「ほらやっぱり」と黛さんの明るい声がよく響く。
冷静になれば、授業中に探りを入れるのは悪手だ。
ほんとうにお隣さんが先生だった場合、その事実がクラスメイトに知れ渡るのは俺にとっても先生にとっても不都合がある。
「きちんとメリハリをつけなさい」と慣れた様子で俺の言葉を軽く聞き流す。
「ただ、別のことで相談があります」
俺は手を動かしながらも、別の相談をぶつけてみることにした。
「どんな悩み?」
「実は、この席だと授業中に居眠りがしづらいんです」
「……錦くんっていい度胸しているね」
先生は吹き出していた。
言葉ほどに怒っている様子はない。
「先生の日本史の授業は面白いので起きてます」
「アタシの授業だけじゃなくて全教科で起きてなさい」
「睡眠時間の確保は重要なもので」
「そこは、ほんとうにそうだよねぇ」
えらく共感していた。
「先生、寝不足なんですか?」
「ほとんどの働く大人は睡眠時間が足りてないからね」
社会人を代表するように先生はぼやいた。
「大人も子どもも健康的な生活をしなきゃダメよ。睡眠、運動、食事、息抜きはどれも大切。そうでないと大切な判断を誤るかもしれない」
教室全体に呼びかけると、先生を好きなクラスメイトたちが行儀よく声を上げた。
「そういう話を聞くと、あんまり働きたくなくなりますね」
「ずっと高校生をやっているわけにもいかないでしょう」
「先生なら制服を着ても余裕でJKに見えます」
女子高生の制服を着た天条レイユを想像してみる。
うん、現役JKと言われてもあっさり信じられるくらい滅茶苦茶似合っていた。
ヤバイ、ちょっと見てみたい。
「どんなフォローよ」
不機嫌そうな先生は前のめりになって、こちらの顔を覗きこんできた。
顔を近づけられて俺は目を伏せてしまう。
そして視線が逃げた先にはもっと刺激的な光景が待っていた。
はち切れそうなブラウスの下にあるたわわに実ったふたつの果実は圧倒的な存在感を示す。バストの大きさはとても同級生たちでは敵わない。
あまりにも大人すぎる。
しかも屈んでいる本人は気づいていないが、先生の豊かな胸元は前傾により教卓の上に押しつけられたせいで、そのやわらかさと質量を一層強調していた。
刺激が強い。
「年齢を過度に気にしすぎないようにって意味です。人は誰しも己の中に幼い自分がいるものですから」
俺の誕生日は四月で、十七歳になった。先生はまだ二十三歳。
こうしてくだらない会話にも応じてくれるおかげで、あまり年齢差を感じない。
「現在進行形で十代の男の子に言われてもなぁ」
身体を起こすと揺れる胸部。うん、やはり高校生と称するには育ち過ぎだ。
「先生だって童心に返る瞬間ってありません?」
「たとえば?」
「子どもの頃から好きな食べ物を食べる時とか? 先生の好物ってなんですか?」
「イチゴかな」
訊かれるがまま天条先生は答える。
「あー奇遇ですね。俺もイチゴ好きです。ちょうど昨夜、お隣さんからおすそわけでイチゴを貰ったんですけど、それが凄い美味しかったんですよ」
俺は待ってましたとばかりに、昨夜の件を遠回しに匂わせてみた。
「──お喋りしすぎたね。はい、授業に戻るよ」