先生は物言いたげな顔で不自然にこの話題を切り上げて、板書の一部を消していく。
その反応は実に怪しかった。
作戦その3、シンデレラが落としたガラスの靴を返却。
日本史の授業での反応を見るに、隣人の正体はほぼ天条レイユで確定だろう。
その最後の一押しをするべく強硬手段に出る。
実は昨夜お隣さんが落としていったサンダルを学校まで持ってきていた。
昼休みになると、俺はそれを持参して職員室を訪れる。
「失礼します。天条先生、少しお時間いただけますでしょうか?」
「に、錦くんッ!?」
天条先生は俺が現れて、椅子から転がり落ちそうになるほど驚いていた。
そして俺がサンダルを入れた袋が昨夜イチゴを入れた百貨店の紙袋だとすぐに気づく。
「生徒指導室、使います。錦くん、一緒に来なさい」
天条先生は硬い表情で俺の腕を引き、職員室の隣の生徒指導室に連れていかれる。
「どういうつもり?」
後ろ手でガチャリと鍵をかけてから、天条先生はこちらを睨んでくる。
「なにがです?」
「アタシを脅す気?」
声を殺しながら怒ってくる。
「脅すなんてって大げさな。俺は忘れ物を返しに来ただけです。そのついでにお隣さんが先生なのか確かめようと」
部屋の中央に置かれた長机を挟むように置かれた椅子の一方へ先に座る。
「家のドアノブにぶら下げておけばいいでしょう! なんで学校まで持ってくるのよ!?」
「じゃあ、お隣さんは天条先生なんですね」
俺が改めて確認すると、先生は「あ!?」と息を吞んだ。
やはり俺の見間違いではなかった。
「君ってば大人しそうな印象だけど、意外と大胆なのね。びっくり」
「ご迷惑なのは承知しています。だけど、サンダルが片方しかないのも不便でしょう?」
「そういう問題じゃないってば」
動揺を隠しきれない先生は、教室で見せる大人の余裕は微塵もない。
「いやいや、実際俺たちは大問題に直面しているんですよ。あの、先生が昨夜逃げたってことは自分の正体を誤魔化しておきたいんですよね?」
「……当然じゃない」
なにを今さらとばかりに先生は両腕を組む。
「秘密にしておきたい事情はわかります。だけど冷静に考えてください。毎日隣にいる先生を気にしながら卒業まで過ごすのは正直しんどいです」
さすがに壁一枚向こうに自分の担任がいる生活なんて、交流がゼロでも落ち着かない。
「それは、アタシもだけど」
「知ってしまった以上はお隣さん同士、プライバシーを守るためにも最低限の話し合いはするべきです。先生だって恋人がお泊りした翌日に、俺とうっかり顔を合わせたら気まずいでしょう?」
俺としても、そんな場面に遭遇するのは嫌だ。モヤモヤしてしまう。
「彼氏なんていないからッ!」
先生はなぜか耳まで赤くしていた。
不都合な一例を示したつもりが、思った以上の反応だった。
「あ、そうなんですね」
正直興味はあったが、これ以上詮索するのは失礼にあたると思いさらりと流す。
が、先生の恋人がいないという事実に俺は安心していた。
「シンデレラの王子様じゃあるまいし、まさか探し当てる人が現実にいるなんて」
天条先生は諦めたように、反対側の席に着く。
「それで先生、具体的なことですが」
「焦らないで」
ステイ、と言わんばかりに手を突き出す。
「──ここは学校だからプライベートの話は学校の外でさせて」
仕事とプライベートは完全に別、という潔い態度でキッパリ線引きをする。
「わかりました。じゃあいつにします? 俺が先生の予定に合わせます」
俺としてはできるだけ早く状況整理したいが、先生は仕事も忙しいだろうしデートのお誘いも引く手あまただろう。
「えーっとね……、そうだなぁ、いつがいいかな」
先生の歯切れが悪い。
「……もしかして、また逃げようとしてません?」
「そんなことは」
図星のようで露骨に目を逸らされた。
「見苦しいですよ。覚悟を決めてください」
「わかったわよ、行けばいいんでしょう! 上等よ! 今晩そっちに行く! その代わり残業で遅くなるから、それは許してよね」
そんな気合いを入れるほどのことなのだろうか。
「来てくれれば大丈夫です。俺はひとり暮らしなので、いくらでも融通ききますから」
「え、高校生でひとり暮らしなの!?」
俺が頷くと、先生はますます険しい顔になる。
「あの、まさかとは思いますけど、男のひとり暮らしする部屋に上がるのが問題でも?」
「教師と生徒なのよ! そんなこと意識するわけないでしょう!」
食い気味に否定された。
そりゃ教え子である俺を男扱いするはずもないか。
「ここは考え方も変えましょう。先生はたまたま近所に住む教え子の相談に乗るだけです」
「相談って?」
「天条先生、実はお隣さんとの距離感に悩んでいます。どうか力を貸してください」
俺は深刻な顔つきで打ち明けてみる。
「オーケー、アタシはあくまでも生徒の相談に乗っているだけ。そう、臨時の家庭訪問みたいなものよ!」
天条先生は自分自身を納得させるように念を押していた。
「いいわ。とにかく今夜ハッキリさせましょう」
「わかりました。では、サンダルだけ先にお返ししておきます」
俺は恭しく紙袋を差し出す。
「一応ありがとう」
最後にきちんと礼を述べるあたり、律儀な人だ。
俺のお隣さんは天条レイユで確定した。
俺は学校から帰宅して部屋の片づけを軽くしてから、夕飯作りに取りかかる。
今夜の献立はカレーライス、付け合わせにサラダとスープ。
料理が完成した頃、ちょうど部屋のインターホンが鳴った。
玄関に向かって、小さく深呼吸してからゆっくりと扉の鍵を開けた。
「こんばんは、錦くん」
天条先生はやや硬い表情でそこに立っていた。
「こんばんは。先生」
俺はできるだけ自然体を装う。
「遅くなってごめんなさい」
「いえ、お気になさらず。……なんか緊張してません?」
学校での自信に満ちた姿は鳴りを潜め、どこかぎこちない様子だ。
「えッ!? そ、そんなことないよ。ふつうだから!」
両手を振りながら慌てて否定する。
「夜の家庭訪問、落ち着きませんか?」
「妙に含みのある言い方をするな」
彼女は唇を尖らせた。
「まず確認ッ! 君のドッキリとかタチの悪いイタズラじゃないよね?」
俺の戯言を無視して、本人もくどいと承知しつつも慎重な顔つきで訊ねてくる。
「正真正銘、この102号室が俺の住んでいる部屋です」
「アタシは103号室。じゃあ、つまり……」
「間違いなく俺たちはお隣同士です」
俺が結論を口にすると、天条先生は頭を抱えていた。
「生徒が隣に住んでいるなんてミラクルすぎるでしょう!」
天条先生は泣きそうな声で叫ぶ。
「いやーこんなことあるんですね」
奇跡のような偶然に笑うしかなかった。
「笑いごとじゃないってば! どうしよう!?」
「だから話すために来たんでしょう」
「錦くんは、その、なんでそんなにふつうなの?」
俺との温度差に、先生はどこか不満げだ。
ムスっとした顔をしていてもかわいらしい印象を抱かせた。
年上なのに愛らしい。