涼やかな秋の早朝だった。
まだ空は暗い。
九州のド田舎に、小さな町道場があった。
ようやく町が起き始めた頃にもかかわらず、パシンパシンと竹刀の軽やかな音が響き渡っている。
竹刀を打ち合うのは、一組の少年少女。
男子のほうが、やや優勢。
しかし力量は拮抗しているようで、一本が決まらずに10分以上もやり合っている。
長丁場に決着をつけたのは、少年の竹刀であった。
綺麗な横薙ぎで打ち込まれた竹刀が、少女の胴を捉えた。
互いに防具を脱いで、すぐに水のペットボトルを思いっきり傾ける。
ぷはあっと息をついて、少女──乙女がにこっと笑った。
「識兄さん。絶好調だね」
「ああ。動きは悪くない」
淡々とした口調で答えるのは阿頼耶識。
中学三年生。
今年、受験を控えた普通の剣道少年である。
「識兄さん、朝ご飯どうする?」
「駅のコンビニで適当に買う」
今日はこれから遠出をする。
朝一の電車に乗って、とある高校の受験に向かうのだ。
本来なら道場で打ち合っている場合ではないのだが、これは彼なりのルーティンだからスルーするわけにはいかなかった。
「ん?」
乙女が時計を見て首を傾げた。
「あ、やば! すぐ準備して出なきゃ!」
「汗かいたから、風呂に入ってくる」
「そんな暇ないよ識兄さん! お風呂好きも大概にしなきゃ!」
しっかりもの気質の幼馴染に背中を押されて、識は急いで支度を整えた。鞄を持って道場を出る。
乙女の両親の車で、駅まで送ってもらう。
ホームに向かう前に、乙女が肩を叩いてきた。
「識兄さん。頑張ってね!」
しかし識の返事は渋かった。
「俺にとっては記念受験だ。それに……」
切符を改札に通して、ホームへと歩み出る。
「ラディアータのいない世界には、もう意味ないし」
「…………」
識の背中を、乙女は少し寂しそうに見つめていた。
入試会場まで、特急で2時間ほどだ。
窓の外では、なだらかな田舎の景色が続いている。
その間、識はスマホで動画を見て過ごしていた。
それはこの夏、世界で最も再生された動画だった。
聖剣演武。
世界グランプリ・決勝トーナメント最終戦。
常勝の王者。
剣星一位〝シリウス〟──ラディアータ・ウィッシュ。
旧き英雄。
剣星五位〝ベガ〟──王道楽土。
立場こそ逆転しているが、奇しくも6年前と同じマッチアップ。
世界中の聖剣士たちのトップたる『剣星二十一輝』。
彼らが頂きの座を懸けて火花を散らす、3年に一度の世界大会。
その最終戦の公式配信であった。
競技ステージが燃えていた。
いや、ステージという表現がふさわしいのかはわからない。
その競技ステージには、とある戦場の市街地が再現されていた。
割れた道路があり、倒壊したビルがあり、根元からぽっきり折れた街路樹もある。ひしゃげた自動車なんかも転がっている。
コンクリートの隙間やビルの割れた窓から、赤々とした火炎が立ち昇っていた。
その火炎の中を、一人の大男が暴れ回っていた。
王道楽土。
2メートル以上の巨軀に、隆々とした筋肉が備わっている。その浅黒い肌には無数の傷跡が刻まれ、特に唇から顎にかけての古傷が痛々しかった。
しかしその歴戦の雄姿より目立つのは、彼が両腕で振り抜く真っ赤な大剣だった。
聖剣〝烈火〟。
日本で最強の『剣星』である王道楽土が誇る炎撃の大剣。
地獄の業火の如く燃える周囲の火炎は、この聖剣によって放たれたものである。
鬼気迫る王道楽土の攻撃の度に、ステージに火柱が立つ。
テレビ中継のアナウンサーが「3大会ぶりの『大宝剣』の奪還が懸かっている」と興奮気味に説明している。
双肩に国の威信を背負う王道楽土。
しかしそんな彼の燃えるようなプライドすらも、涼しくいなす存在がいた。
ラディアータ・ウィッシュ。
北米出身。齢21。
すらりとしたシルエットの立ち姿だ。
神秘的なほど真っ白い肌。鮮やかな翡翠色の瞳。淡く色づく唇。
耳たぶに、音符を模したイヤリングがあった。
ラディアータが瓦礫の上を跳ぶたびに、そのイヤリングが揺れる。
「王道。そんな力業じゃ、私には勝てないよ」
ラディアータは独り言ちると、右手を高く振り上げた。
握られているのは小ぶりな指揮棒である。
同時にラディアータの周囲を、身の丈ほどの八つの大剣が旋回した。
それぞれが音符のような形状を模した飛剣。
ラディアータが指揮棒を振るのに合わせて、軍隊の如き統率でピタリと止まる。
「調律、完了。──王道。これが最後だ」
翡翠色の瞳に、ギラリとした輝きが宿った。
指揮棒を真上に構え、一気に正面へと振り下ろす。
「共に歌おう。──〝溺れる刹那の愛〟」
八つの飛剣が舞う。
横。斜め。縦。それぞれが空中で大きく弧を描きながら、王道楽土に狙いを定める。
ラディアータ本人も走り出した。
ビルの残骸を器用に駆け下りながら、疾風ともいうべき速度で王道楽土へ迫る。
「チッ……!」
王道楽土は舌打ちすると、大剣を地面に突き立てる。
周囲に4本の巨大な火柱が立つ。
赤色の壁と見紛う隙のない防御技。
ラディアータは近づけまい。
観客席のサポーターたちが、さらに大きな歓声を上げる。
その火柱の中で、王道楽土が秘技を準備していた。
やや溜めに時間がかかるが、放てば一撃必殺の威力を持つ。
大剣を構え、火炎を纏わせた。
「〝天才〟よ。これで終わりだ!」
周囲の熱がぐんぐんと上がっていき、やがて陽炎がその姿を歪めたとき──。
「──そんな隙だらけの剣技じゃあ、私は蕩けないよ」
ふと声がした方向に、王道楽土は絶句した。
彼の背後に、いつの間にかラディアータが立っていた。
「な、なぜ。飛剣はすべて墜としたはず……」
「……それもわからない人とは、踊る気にはなれないね」
ラディアータの持つ黒い指揮棒が、白銀の輝きを纏っていた。
仕込み刀。