第一章 ネズミ肉串と小籠包 ③

 そして、その取り残された廃墟に流れ着いた、多くの人々もまた。


『田浦を過ぎた。進路を少し西にズラして大回りで北に向かうよ』

「了解。この辺は去年の浄化作戦でちょいちょい山肌や木が削れてるとこがあるからな。気をつけろよ」


 モニターに映る光のともらぬ廃墟の群れを横目に、二機のヒュムテックが北上する。

 その先には微かに、人の住む光がまばらに灯り始めていた。



 本格的な小籠包は、行儀よく食べるのが案外難しい。

 その理由はひとえに、その内に秘められた豊かな肉汁とその温度にある。

 けんたん家の男性なら、小さな小籠包など一口でぺろりと食べてしまえるが、女性の口ではなかなかそうはいかない。

 単純に口いっぱい頰張るのがみっともないというのもあるし、蒸したての小籠包でそんなマネをすればあふれる肉汁が口からこぼれてしまう。

 かといって二つに割ると味わいの豊かさの根源である肉汁があふれ出てしまい、口に入れたときの満足度にりようてんせいを欠いてしまう。


「どうした、もうお腹がいっぱいなのか?」


 小籠包の蒸籠せいろを前に如何にしてこの場を乗り切ろうかと考え込んでいた矢坂弥登に、隣からスーツ姿の年かさの男性の声がかかる。


「いえ、そういうわけでは。ただどうやって食べればいいかな、と」

「気安い席だ。一口で一気に行けばいい」

「そうはいきません。これでも食料国防隊の幹部隊員です。食事のマナーは徹底しなければ」


 弥登の堅苦しい答えに、声をかけた男性は困ったように苦笑した。


「いや、親としては誇らしいが同時に心配でもあります。厳しく育てすぎたのか、こうして融通がかないことが多々あります。鎌倉署でご迷惑をおかけしていなければいいのですが」


 すると、弥登のはす向かいあたりから別の中年男性の高い声が応えた。


「そんなことはありません。御息女の厳粛さは鎌倉署の全隊員の手本です。この半年で我が署が持ち直したのも、御息女の……矢坂隊長の手腕によるところが非常に大きいのは間違いのない事実です。我が署のエースと評しても過言ではありません」

「署長。あまり持ちあげないでください。ただでさえ若いのに出世しすぎて周囲にうとまれているんです。ほどほどに厳しくしてくださらないと」


 弥登が署長と呼んだ男は、食料安全維持法の肥満規定に引っかかりそうなだらしない腹を揺らしながら笑った。


「いや、私は本心で言っているよ。仕事に関して噓は吐かない。ちちうえの前で言うことではないが、昨年の浄化作戦の直後のことを思えば、今こうしてヒュムテック隊の成果を誇れる現状が奇跡のように思える」

「あの浄化作戦は残念でしたね。結果として首都圏の食品衛生環境に大きな不安の影を落とすことになってしまった。私も作戦立案に協力した身として、後悔が残っています」


 昨年冬の三浦半島浄化作戦は、戦後三十年の節目に首都圏の食品衛生環境状況をクリーンにするために敢行された武力制圧作戦だった。

 首都圏には横須賀を始めとして戦後復興から取り残されてスラム化し、アディクターの根城となってしまった地域がいくつも残っている。

 中でも横須賀は首都東京や南関東州の横浜近郊でありながら天然の要害たる三浦丘陵に遮られ、食品衛生環境の無法地帯となっていた。

 首都圏で摘発されるあらゆる違法食品のうち実に四割が横須賀を経由して流入していると言われており、節目の年に目の上のたんこぶたたき潰したい政府は、南関東州食料国防隊本部に、横須賀スラムの制圧とアディクター組織の完全排除を命令した。

 ところが海外密輸組織ともつながりの深い横須賀アディクターの組織力と武装は当初の想定を何倍も上回る規模であり、南関東州本部が派遣した旧式ヒュムテック部隊は半数以上が破壊され、作戦に従事した千人規模の部隊から百人以上の死傷者を出し撤退を余儀なくされたのだ。


「我が鎌倉署も多くの人員を失った。しかしあの作戦で重傷を負い行方不明になった矢坂隊長の無事の帰還が、かろうじて戦意をつなぎとめたんだ。その後の鎌倉署の復活劇は、エースの名に恥じない働きをした君のおかげに他ならない」


 歯の浮くような世辞も笑顔で受け入れなければならないのが、板挟みのつらいところだ。


「それにエースというのも私一人が言っているわけではない。君の部下の君はいつも吹聴しているし、それに『鎌倉の浄化フィルター』の評判は決してではないよ」


 何だその恐ろしくも勇ましくもかいぎやくに富んでいるわけでもない二つ名は。

 あと何をしているのだ恥ずかしいことを吹きまわって署長にまで届かせている部下は。

 弥登は顰めつらをしそうになるのを誤魔化すため、思い切って一口で小籠包を口に入れた。

 悩んでいた時間が功を奏したのかあふれ出る肉汁の温度は豚ひき肉と野菜と香辛料のうまみを存分に爆発させ、脂で喉を潤せるのではと錯覚させるほどのジューシーさを主張した。


「いやお見事。三浦半島のアディクター共を震え上がらせる矢坂隊長の迫力は、こうして日々の食卓から発せられるというわけですな、矢坂次官! はっはっは!」

「ありがとうございますもり署長。娘に活躍の場を与えていただき、感謝に堪えません」


 頭を下げるスーツの男に、署長はどこかこそばゆそうに慌てて見せた。


「何をおっしゃいますか次官。全ては矢坂隊長の才覚によるもの。私は建前上鎌倉署の最高指揮官ですが、実態は事務屋にすぎませんから!」


 弥登は『次官』と『署長』の会話にうんざりしながら、次に出てくるものがなんなのかを張り付いた笑顔の裏で想像していた。

 横浜シェルターセントラルの高級中華料理店『龍魚楼』。

 弥登は、自分が所属する食料国防隊鎌倉署署長の小森とともに、食料国防隊のトップであり弥登の実の父親である、矢坂しげおみ食料国防庁次官の招待を受けていた。

 建前上は、昨年の失態をとうの勢いでばんかいしている鎌倉署のエースをねぎらうというものだが、実質の半分は父が自分と食事をしたいから。もう半分は鎌倉署にげきを入れるためだ。


「あまり持ちあげられると居心地が悪くなってしまいます。折角のそうなんですから、お父さん、署長も、もう少しリラックスしていただきましょう」

「ああ、すまない。弥登、グラスが空のようだが、飲み物のお代わりは?」

「ええ、それじゃあ……」


 その途端、傍らからすっとドリンクメニューが差し出される。

 三人が食事をする個室には常にウェイターが一人控えていて、今も弥登の手を煩わせずにドリンクメニューを見やすい位置に差し出しているのだ。

 弥登はしばらくメニューを眺めながらふと、ウェイターにのみ聞こえる声で呟いた。


「こちらのお店にワンラオジーは……」

「は?」


 メニューにないものを呟いた弥登にウェイターはげんな顔をし、弥登も慌てて首を横に振る。


「いえ、冷たいジャスミンティーをお願いします」

「かしこまりました」


 ウェイターが下がると弥登は小さく溜め息を吐く。


「小森署長。お腹には余力を残しておいてくださいね。この店のキンダックは絶品だが、実はたんたんめんこそがこの店の真髄でね。ちょっとよそでは食べられない味だから、楽しみにしていてください」

「ほー! 担々麵ですか! 私、辛いものには目がなくて、楽しみですな!」

「……」


 実は弥登がこの店で食事をするのは初めてではない。

 食料国防隊に入る前は、父のお気に入りの店として幾度も家族で来たことがある。

 当然父お勧めの担々麵は弥登も食べたことがあり、確かに美味しいことは間違いない。

 間違いないのだが。


「……はあ」


 先ほども、つい王老吉などと口走ってしまった。

 担々麵に限らず麵類の食べ物を見聞きしただけで、どうしても思い出してしまう。

 九ヶ月前、大失敗に終わった三浦半島浄化作戦のときに口にした、あのカップラーメンを。

 醬油味とカレー味。

 あのやたらと甘い中国茶が王老吉という中国の伝統飲料だと知ったのはあれから三ヶ月もしてからだった。


「失礼いたします。白身魚とさんしよう揚げでございます」


 そこに新たな皿が運ばれてくる。

 柔らかく分厚い白身魚と茄子を山椒と香味油でさっと揚げた、香り高い一品だ。

 白磁の高級食器に盛られたそれを見た弥登の瞳にフラッシュバックするのは、缶詰を直接あぶったあのオイルサーディンの缶詰だった。

 食料国防隊員として、それ以前に一人の日本国民として、恥ずべきことだ。

 だがそれでも忘れられないのだ。

 あのニッシンという男に分からされてしまった、あの味を。

 干上がりかけた命に慈雨のわたった、あの得も言われぬ満足感を。

 違法なインスタント食品と比べるなど、龍魚楼の一流シェフに対する侮辱以外の何物でもない。

 この思いを誰かに知られれば、弥登は罷免。父にとってもスキャンダルとしてキャリアの大きな傷となるだろう。

 アディクター予備軍として危険思想の矯正プログラムにかけられてしまうかもしれない。

 だがそれでも、忘れられないのだ。