第一章 ネズミ肉串と小籠包 ④

「ジャスミンティーでございます」


 そのとき先ほど注文したジャスミンティーが弥登の前に置かれる。

 弥登は小籠包の脂と危険思想を押し流そうと、大きくジャスミンティーを口に含んだ。

 あのただ甘いだけの缶飲料に比べれば、今この瞬間に弥登のこうをくすぐる華やかで甘い香りと秋晴れの空を思わせる爽やかな苦みのなんと素晴らしいことか。

 それなのに、満たされない。


「弥登、やはり何か、心配事があるようだね。先ほどから顔色がすぐれないが」


 父の目は誤魔化せないのか、やはり憂鬱な気持ちが顔に出てしまっていたのだろうか。

 弥登は慌てて思考を回転させ、何でもないことのように言う。


「申し訳ありません。部下達はちゃんとやってくれているかな、と。お父さんも署長もご存じの通り、このところ磯子から金沢八景にかけての地域で、大勢のアディクターを逮捕しています。中には武装したアディクターもいるので、部下が気を張っているときに隊長である私だけ美味しいものを食べているのが、何だか申し訳なくて」


 我ながら白々しいが完璧な言い訳をしたと思う。

 幸いにして署長は弥登の言うことを全く疑う素ぶりもなく、


「君は少し働きすぎだ。上の人間が休まねば、部下も気が休まらないものだよ」


 と、何の創意工夫も無い使い古されたアドバイスをくれた。


「仕方ありませんよ署長。若いうちに責任のある立場に立つと、気がくものです。何なら、部隊の方にお土産を持たせよう。直属の部下は何人いるんだい?」

「矢坂隊長の部隊である警備三課ヒュムテック隊は八名です。優秀な隊員達です!」


 弥登が応える前に署長が息巻いてそう言い、父も納得してウェイターに手を上げた。

 会話の流れを把握していたプロのウェイターは余計な会話はせず、


「当店のお土産用黒豚肉まんを八つ、お包みしてよろしいでしょうか」


 父に確認だけして了承を得る。


「娘に八つ。署長に四つお包みしてください。確か署長は奥様と娘さんお二人の四人家族でしたよね」

「あ、いやこれは、恐れ入ります次官。私なんかに……」

「鎌倉署全員分は、さすがに私も破産しちゃいますからね。個人的なお土産ってことで」


 次官に自分の家族構成を把握されていたことがそんなに嬉しいのか、署長はしきりにいやはやと意味の無い息を吐いている。

 弥登はそんな様子を、どこか遠い目で見ていた。

 鎌倉署全員分に肉まんを買えば破産する、というのはおおでもなんでもない。

 高級中華料理店の持ち帰り肉まん。値段を見てはいないが、恐らく一個三千円は下るまい。

 小籠包とはまた違った満足度の逸品なのだろう。

 父と署長はそんなもののやりとりを当たり前のようにし、かく言う弥登自身も、九ヶ月前までそういった食べ物を当たり前に口にする自身の環境に一切の疑問を抱いたことがなかった。

 食べ物は、高いものだ。

 最低限度の健康的で文化的な生活を維持するための食料品は、高いものなのだ。


『殺してやる!!』


 弥登の脳裏に、逮捕した名も知らぬアディクターの罵声が響く。


『あなた達のれいごとでどれだけの人間が死んだと思ってるの!!』


 身の程をわきまえない犯罪者の、官憲に対する取るに足らない理不尽な罵声だ。

 悪いのは、法に違反する食料品を持ったり食べたりしていたアディクターではないか。


『お前が守りたい法律は、お前の命を投げ出す価値があるものか?』

「っ……」


 大楠山で救助されたあとの精密検査では、軽い脱水症状と栄養失調と診断された。

 足の傷を考えれば奇跡だと医者に言われたが、もしあのときニッシンの差し出すカップラーメンを食べなければ、自分はどうなっていただろう。

 人間は簡単には餓死しない。水さえあれば一週間は生きていられるという定説もあるし、足に銃創を負っていたことを加味しても、多少復帰が遅れるだけで、命の危険にまでは至らなかったはずだ。

 だが。

 あのとき弥登は恐怖に負けたのだ。

 空腹の恐ろしさ。飲まず食わずの体が発する危険信号が精神を弱らせ、差し出されたものを口に入れてしまった。


『人間、三日くらい飲まず食わずでも死にはしない』


 もしあの日、大楠山での出来事が明るみに出れば、弥登を攻撃する者の多くがこの論法で攻め立てるだろう。


『そんな誘惑にかられて違法な食品を口に入れるなど、人間として恥ずかしい行為だ』

「何も……知らないくせに」


 食べられるものが無い恐怖。食べられるものが次にいつ自分の前に現れるか分からない恐怖。それでも体が行う代謝の結果、ふん尿にようを垂れ流しけいれんを起こし自分の体に次々と異常が発生することを自覚する恐怖。

 三日くらい飲まず食わずでも生きていける。

 こんなことをのたまう者の一体どれほどが、真実『水も食料も無い』環境に『三日くらい』の間、身を置いたことがあるというのだろう。


『健康のためなら死ねるってか。バカじゃねぇの』


 誰も彼もが、健康のために死ねと、赤の他人に平気で言うことのできるこの世界で。

 そのとき、弥登の制服のポケットで、隊員用端末が特定のパターンで明滅した。

 弥登はテーブルを立ち部屋の隅に移動すると、すぐさま端末を手に取り通信を開始する。


「私よ。どうしたの?」

『隊長。古閑です。不審なヒュムテックが二機網にかかりまして、照会かけたら片方はもしかしたら昨年の浄化作戦でアディクターが使ってた機体かもしれません』

「場所と追跡状況は?」

『対象は杉田のあたりを北上中。俺が一機で追跡してます』

「分かったわ。今から出れば三十分後に磯子で合流して対処に当たれます。今は仕掛けず、追跡を続行してください」

『イエスマム。オーバー』


 部下の古閑からの通信を切ると、弥登はテーブルに戻り父と署長に頭を下げた。


「申し訳ありません。部下がアディクターを追跡中で、援護要請がかかりました」

「何だって? それくらい部下に任せておけんのかね?」


 小森署長は驚きを露わにするが、弥登は首を横に振る。


「昨年の浄化作戦で逃げおおせたアディクターと推測されています。逮捕は急務です」

「私達のことはいいから急ぎなさい。弥登」


 あせる署長に対し、父はあくまでおうようだった。


「食料国防隊員として正しい姿だ。命を大事にね。また今度ゆっくり話そう」

「ごめんなさい。行ってきます」


 弥登は父に向かって頭を下げると、さつそうきびすかえし部屋を後にした。


「よろしいのですか。今日は御息女に、大事なお話をすると伺っていましたが」

「大事な話と言えば大事な話ですが、アディクターの現行犯逮捕より優先するほどのことじゃありません。言ってしまえば任務の通達程度のことです。娘の驚く顔を直接見られないのは残念ですが、後で署長の方からお伝えいただければ」

「私が、ですか。任務と言いますと……」


 重臣はすぐには答えず、娘が退出したドアを見やると、少し表情を厳しくした。


「昨年のアディクターか。三浦半島での敵の練度には本当に驚かされましたね」

「ええ、矢坂隊長……あの当時は係長でしたが、敵を深追いして大怪我を負っていました」


 小森署長の弁舌もテンションが下がる。


「ですが、今の矢坂隊長の隊は昨年のアディクター達のヒュムテックとは比べ物にならないほどの高性能機で精鋭部隊を率いています。次の機会があるなら、同じてつは決して……」

「小森署長。娘をお預けしたがありました。その言葉が聞きたかったのですよ」

「踏まない……は?」

「次の機会があるなら、というその言葉をね」

「失礼いたします。北京ダックをお持ちいたしました」


 そのとき、銀色のトレーに満載の北京ダックをカートに乗せてウェイターがやってきた。

 こんがりと焼き上がった北京ダックの皿の中央に、丸一を焼いた証明である頭が据えられている。


「鎌倉署で弥登に活躍の場を作っていただいたことで、所轄署規模での武装アディクター特攻の部隊編成のノウハウも積み上がりました。昨年の作戦失敗の根幹は、南関東州本部の部隊が功を焦って三浦半島のアディクターの組織力と武装を完全に見誤ったこと。逆に言えば、治安維持組織側が油断なく相応の準備を整えれば適切に対処できる、ということでもあります。雑な理論ですがね」

「いえ、おつしやる通りだとは思いますが、次官、一体それは……」

「署長も耳に挟んだことくらいはあると思いますが、今政府と本庁では、全国的な食料衛生環境の綱紀粛正を至上命題としています。その大きなきっかけの一つが、昨年の三浦半島浄化作戦の失敗でした」


 重臣は早速北京ダックを一切れ摘まみ、薄皮に包んで口に運んだ。


「食料安全維持法が理想とする社会はいまだ完成しておらず、国民の食の安全には油断なく万全の備えをしなければならない、という認識が正確に、政府にも各省庁にも共有されました。その共有の熱が消えないうちに、政府は大きな実績をほつしています」

うわさ程度ではありますが聞いたことは。海外からの密輸ルートを潰すために、各地に残る被災都市を再開発する計画だとか」

「それはどちらかと言えば主目的ではないのですがね。人の口に戸は立てられないの実例を見た気がしましたが、それでも肝心な秘密は守られていることに安心しました」