中庭から戻った夕方のことだ。
俺は、血圧と体温を計りに来た看護師の刈谷さんに、訊いてみた。
「俺と歳が近い感じで、入院してる子っていたりしますか?」
「……石田好位置と歳が近ぇ子?」
初日から俺をフルネームで呼ぶこの刈谷さんは、清潔なナース服をキッチリと着こなし、看護師らしい頼もしきテキパキさを備えているにも関わらず、目の下のクマだったり、ダメージを受けてしまった髪質だったり、気怠げなハスキーボイスがそう思わせるのか、どこか深夜の歓楽街(札幌在住の身にとってはススキノだが)の退廃的な雰囲気を、院内で漂わせていた。
「そんだけじゃわかんねえな。ヒント寄越せヒント」
他の看護師さん達は、一回りも二回りも年下の俺に対し、慎重というか丁重に接してくれていて。それは俺が余命宣告を受けている中学生だからだろう。
もちろん刈谷さんも俺の病気はわかってるはずだが、そのコミュニケーションに過度な慎重さや丁寧さを感じさせない。だから初日から異様に話しやすかった。
「髪が綺麗な女の子で、えっと」
「おい石田好位置よ。若い女の髪は、だいたい綺麗なんだよ。んなの特徴になんねえ。キューティクルが殆ど死んでる髪の女なら特徴になるけどな」
「髪だけじゃなく、顔も綺麗なんで……」
「世に言う美少女ってやつか?」
「世に言う美少女ってやつです」
刈谷さんの顔はいつのまにかニヤニヤしたものに変わっていた。
「当院きっての美少女といえば、そりゃ、ほのかだろうね」
「ほのか」
「石田好位置とも同い年のはずだ。なんだ、ほのかと話したのか?」
「いやあ」
ミステリアスガールに扮しちゃった彼女と、消灯後の病室でわけのわからない出会いを果たしてしまっただけで、まともな会話はしていなかったに等しい。
上腕式血圧計を俺の腕にセットし始めていた刈谷さんが、畏まった顔でこちらを見ていた。なんだろう。
「あのさ、他でもない石田好位置に頼みがあるんだけど」
「他でもない俺にですか」
上腕式血圧計が俺の腕をグイグイ締めつける中、刈谷さんのまなざしは鋭くて、血圧が正常値の域を出そうだった。
「ほのかと、仲良くしてあげてほしいんだ」
「……」
「あの子は幼い頃から入院してて。学校にはまるで通えてなくて。だから同世代との交流もなくてさ」
「そうなんですか」
あ、でも。
「俺みたいに入院してくる同世代もいますよね」
「まあ、いるな」
「そういう子と仲良くなったりは?」
「目処が立ちそうだから、無理だ」
「メド?」
「ほのかは遠ざけちゃうから。退院時期の目処が立ちそうな子を。たとえ仲良くなっても、相手はいずれ退院して。病気と向き合い続けないで済む世界に行っちまうからさ、キツいんだよな」
「…………」
「ってなわけでさ、ひとつよろしくしてあげてくれよな。でもよ、石田好位置もさ、好きになるよ。ほのかは看護師達の間で、病棟の天使って呼ばれている子だから」
「……天使」
「ン? もう一回、血圧計り直すぞ。なんかエラー出てんし」
中庭を後にするときにも思ったが。
やはり、恋に恋しているほのかの目を覚まさなければならない。
俺は恋愛をしないほうがいい人間なんだ。
特に、天使と呼ばれるような女の子との恋愛は。
※ ※
好位置という名前がベストポジションと変換され、略された「ベスポジ」というあだ名が抜群の定着率を誇った半生において。
ベスポジの他にも、俺に浸透したあだ名があった。
堕天使製造機だ。
あだ名における基本スタンスである呼びやすさを一切無視した長尺異名(9音!)を頂戴することと相成った経緯。
それは小学五年生にまで遡る。
あの頃。
うちのクラスには、天使がいた。
やれ誰それは天才だとか。
誰それは怪物だとか。
誰それは神だとか。
小学校という極小コミュニティーのなかでは、平均値を僅かでも上回る一素養を発揮したやつを、天才呼ばわり、怪物呼ばわり、神呼ばわりしてしまいがちな井の中の蛙の腹の中のバクテリア期にあって。
各クラスにもれなくいる秀才や運動自慢や一芸持ちに与えられた「天才」「怪物」「神」といったお手軽即席称号とは格が違う、大称号──それが「天使」だった。
まず「天使」は、呼称としてのハードルが高いのだ。
いかに小五といえど、同級生の女の子のことを陰でならいざしらず、表だって「天使」と呼ぶのは、どうしたって気恥ずかしさを覚えるもの。恥ずかしいことは全力疾走で回避したいお年頃だ。普通なら、ちょっと天使みたいな子がいてもおいそれと天使呼ばわりはしない。オフィシャルに飛び交うあだ名にはなりえない。
だが。
同級生を「天使」と呼ぶことへの羞恥なんて微塵も感じなくさせるほど、うちのクラスの天使のそのお姿は、天使そのものといった愛らしさで。
そして、天使と言わずにはおれないほど、異次元の優しさを持っているとみんなが口を揃えていた。
天使の優しい心にまつわるエピソードなら、小五の間だけでも、壁新聞にできるくらいあった。
たとえばそれは──
社会科見学のバス移動で酔った女の子が吐いちゃったものを、自分のナップサックでキャッチしてあげたり。
国語の時間に、切ない物語を朗読中に涙ぐんでしまったり。
ドッジボールで顔面ヒットの末、半泣きになった男の子に、痛いの痛いの飛んでけをしてあげたり。
筆圧が弱すぎるせいで、字が薄すぎる子に、5Bの存在を教えてあげたり。
国際ロマンス詐欺のせいで、英語の授業ができなくなった先生がもう一度ネイティブな発音で「ILOVEYOU」と言えるまで慰めたり。
我がクラスが開校以来の点数のベルマークを集める原動力になったり、と。
俺はドッジボールで顔面に向かってきたボールは、やはり反射的によけてしまうため、半泣きにもなれず。
同じクラスにいながら俺と天使は、絡むことはなかった。
だが、俺と天使のそれは知らない間に絡み合っていた。
それとはなにか。
この頃、教室で育てていたアサガオだ。
鉢が隣同士だった俺と天使のそれは成長著しく、ある連休明けには、蔓がUSBケーブルのワゴンセールみたいな絡まり方をしていた。
その「アサガオ絡まり事件」を機に初めて話すと……。
いつしか、俺と天使は付き合うことになった。
男子一同は、生まれてまだ十年そこそこにもかかわらず、大失恋を経験し。給食時間の校内放送には連日、失恋ソングがリクエストされた。
女子一同は天使の恋愛を祝福した。
俺に呪詛の言葉を吐き捨てていた男子連中も、このままでは天使に嫌われると危惧したからか、唇を嚙みしめながら表面上は祝福するようになった。
三ヶ月、半年、一年。
交際は順調に続いた。
俺は天使が好きだったし、天使は俺を好いてくれていた。
みんなの前ではイチャイチャするのは控えていたが、俺達が知らず周囲に振りまいていたその、ラブラブの空気感(自分で言うのは恥ずかしいったらないが)は、周囲に影響を与えていたらしく。
ある男子は言う。