恋に恋する少女の目を覚ます秘策が失敗に終わった翌日の昼下がりだった。
これから始まる全身性免疫蒼化症の投薬治療の方針説明を、診察室で受けた帰り。
俺は非常階段前で、病院では珍しい不謹慎なやつを目撃した。
そいつは看護師さんを捕まえて、駄々をこねていた。
「ほのか様の前で、ボクのことを余命三ヶ月の患者っぽく接してもらいたいんですよ。やり方としましては、ほのか様の前で『ボクは成人したら、積み立てNISAではeMAXIS Slim 全世界株式を』みたいな人生プランを披露していますから、通り過ぎざまに『積み立てNISAできるほど人生残ってないから。余命三ヶ月のくせにウケる』的なセリフを吐き捨てていってください」
病院だもの、おかしなやつだっているだろう。
見た目的には小学生かな。関わり合いになるのは避けよう。
非常階段の前を素通りしようとしたら──
「アッ、石田好位置!」
駄々をこねられていた看護師の刈谷さんが、ちょうど通りかかったタクシーでも呼び止めるみたいに、こちらに手を上げた。
刈谷さんのその手には、タバコとライターにしか見えないものが握られている。
「あーしは昼食後に吸う一服が、仕事終わりに吸う一服の次に好きなんだ。ほのか絡みの頼み事なら、このほのかと仲良しになる宿命に生まれし者・石田好位置にしとけ」
刈谷さんはおそらく病院外の駐車場端にあるらしい喫煙所に走っていった。
ああ、院内は走っちゃダメだよー。
「ほのか様と仲良しになる宿命に生まれし者だと? 貴様は何者だ?」
非常階段前。おかしなやつが俺をロックオンしていた。
ひとまず俺を貴様と呼ぶ男を観察する。
世界中の滑らかさを独り占めしたかのように光沢がすごいシルクのパジャマ姿。色はシャンパンゴールドとか言うんだろうか。
なにより目を引くのが、涼しく整っている顔立ちの上──綺麗な銀髪だ。
派手に髪を染めている子供を目の当たりにしたときのあの、「不良」とか、「元ヤンの子供」とか。脳内に自動で想起される言葉が、今回は想起された瞬間に消えた。
それというのも、やつの身長は俺の肩ぐらいで。いかにも女子から「カワイイ」と持て囃されそうな愛玩動物系だったので、見れば見るほど不良っぽさを見出せなくなったのだ。
「猫か、子犬か。いやハムスターっぽくもあるな」
「コラ、何を言ってる? ボクは妻夫木龍之介だぞ。14歳だ」
「おっ、同い年か」
おかしな小学生じゃなく、おかしな中学生だったようだ。
「すごい銀髪だな。入院中も攻めたオシャレを楽しみたいタイプなのか。いいなそれ」
「オシャレを楽しむ? ボクがそんなご陽気な理由で髪を染めるもんか」
じゃあ、どんな理由で銀髪にしたんだよ。あ、ダメだ。口にするほど興味が湧かない。
「見ない顔だな。新入りか。名を名乗ってもらおうか」
さっき刈谷さんが呼んでいた俺の名を聞いてなかったようだ。
「石田好位置だ」
「こういち、か。フン、ボクは龍之介だぞ」
「なんで誇らしげなんだ」
「ところで、その、ええと」
龍之介がなにかキョトキョトしだす。
「どうした、便所か。そこの突き当たり右だぞ」
「ちがわい! し、新入りは、ほのか様とはどういう関係なんだよう」
「……どういう関係」
恋に恋する少女ほのかの恋のお相手。それが俺。
ただ俺としては、恋の盲目少女の目を覚ましてやりたいわけで。
というのも俺は過去に元カノを堕天使にした──
うん、この説明めんどいな。
それ以前に初対面のやつにする話でもないや。
「ちょっとわかんないから。ほのかに聞いてみてくれ」
「…………うぅぅうううぅ」
「どうした膝から崩れて?」
片膝をついた龍之介は、いつのまにか充血した瞳でこちらを見上げてくる。
「呼び捨てにした。ほのか様を呼び捨てにした ……新入りは、ほのか様を呼び捨てにできる気安い関係を、脳内じゃなく現実で築いているのか」
「脳内っておい。ん、ベソかいてるのか?」
立ち上がった龍之介の瞳はもう、アイボンの直後くらい潤んでいた。
「ボクは寝取られ属性じゃないんだぞう」
「なんだって?」
「ボクの純愛ストーリーに途中から急に出てきた男キャラが、メインヒロインのほのか様と心を通わせていく。ボクの方が先に好きだったのに。そんな展開は、うぅぅぅ、ウエエエ」
まさかこの俺が、どっかの誰かの人生では、猛烈に歓迎されない登場人物になっていたとはな。ごめんと謝る気が起きなくてごめんよ。
涙ぐみながら嘔吐く男に、俺は言う。
「ところで、そっちはほのかとどういう関係なんだ?」
お前さんがほのかにほの字なのはわかったんだが。
龍之介はサッラサラの銀髪をかき上げながら、立てた指をメトロノームのように左右に振った。なんだろう、開始のゴングは聞こえなかったが、いけ好かない仕草選手権の予選が始まったのだろうか。
「世紀のラブストーリーというのはな。大きな障壁が二人の前に立ちはだかっているところから始まるもんなんだ」
「つまり全く交流できていないということか」
「うるしぇい。いつの日か、ボクがほのか様の半径10メートルで会話のキャッチボールをする姿を見て、新入りは嫉妬の炎に身を焦がすんだからな」
「もっと近く寄れよ。本当のキャッチボールが始まる距離じゃないか」
「そんな近くでほのか様と接して、ボクがヨダレ出しちゃったらどうすんだよ!」
「残念な子だな。わかった、じゃあ。そのときはすかさずティッシュで拭いてやるよ」
「あ、ありがとう。──拭くな! ボクのような美少年の顔に触れて、貴様の中の0・0何%かのボーイズラブの部分が目覚められても困る」
「…………」
「新入りは運がいいだけなんだからな」
「俺の運がいい?」
「わかってるんだぞ。ほのか様と会話してもらえてるってことは、貴様の人生はもう最終章に差し掛かっているんだろう。ちぇ。ちょっとばかり余命幾ばくもないからっていい気になるなよう」
初めて見たときに不謹慎なお願い事を看護師さんにしていた龍之介は、最後にすごく新しいタイプの難癖を俺につけ、去って行った。
不謹慎なお願い事といえば、ほのかの前で余命三ヶ月の患者扱い云々の協力を、俺には求めてこなかったな。まあよかった。お願いされても、食い気味で断ってたろうし。
非常階段前から、自分の病室に戻る途中。
「そこの殿方。つかぬことお聞きしたいのですが」
そこの殿方に、俺が該当しているのかわからなかったが。
振り返ると、
病院ではまず見かけない装いの人がいた。
艶やかな着物姿。大きな羽根つきの帽子。手には全て黄金の折り紙で折られた千羽鶴。
人間界に溶け込もうという努力をし忘れた妖狐みたいなご婦人が、俺を見据えていた。
「龍之介君のお友達の方でございますか?」
龍之介?
「あ。その」
確か俺は、やつの純愛ストーリーに急に出てきたNTR要員だったっけ。友達とは果てしなく遠そうだな。
なんて説明すればいいだろうか。