第一章 ①

 その島には、白銀の竜がんでいた。

 ふくいくたる果実が実る、動物たちの楽園だ。

 今、竜がいるのは扇形に広がる入り江。本来は白い砂浜が美しい場所。

 けれど、今は紅の絵具えのぐをぶちまけたかのように赤い。砕け散った船の残骸が暗い海に浮かんでいる。生臭い潮風に、むせかえるような鉄の臭いが混じっていた。

 血の海を漂う臓物と黄色い脂肪。

 それらはほんの十分前まで、人の形をしていた。

 白銀の竜、彼のむ島を襲ってきた者たちの成れの果てだ。総勢で二十人くらいいただろうか。その全てが肉の塊に変わってしまっていた。動くものはない。死後反応でけいれんするものを除けば。

 白銀の竜にとっては、見慣れた光景である。

 竜は神より命を受けていた。島に生きる者たちをまもるようにと。

 太古の昔から、白銀の竜はこの島を狙う色々な連中と戦ってきたのだ。

 このところ、人間の強襲が増えてきている。武器の発達も目覚ましい。特に銃という代物は、技術が進めば厄介なことになりそうである。それでも、まだしばらくは自分が殺されることはないだろうが。

 白銀の竜は、その青い瞳で自分の体を見下ろした。薄闇の中でほのかに光るうろこ、その隙間から水銀に似た鈍色の液体が流れ出ていた。

 竜の血であった。

 人間たちが白銀の竜に浴びせた数百の銃弾。そのうち一発が密集するうろこの隙間をついて、肉に達していた。もっとも、きよを誇る白銀の竜にとっては針で突かれた程度の傷でしかない。

 輝くしずくが、肉塊の上に散った。

 否、その肉塊はよく見れば肉塊ではなかった。

 しずくが落ちたのは、幼子の上であったのだ。

 二歳か、三歳というところか。竜に詳しいところはわからない。血に染められた小さな体が、千切れた肉塊のように見えていたのである。しかし、よく見ればゆるやかに胸が上下している。

 まだ生きている。

 けれど、もう死ぬ。

 正確に言うならば、今まさに白銀の竜が殺したということになるだろうか。

 この子は竜の血を浴びてしまった。

 竜の血は、強いエネルギーを有している。かつて人間たちは呪術にそれを利用したらしいが、その時でさえほんの一滴を希釈に希釈を重ねて使っていた。

 原液は猛毒に他ならない。人間……それも幼子が触れたとなれば、まず生きてはいられまい。

 ざあというしおさいの音が、小さな命の鼓動をかき消そうとしているように聞こえた。

 竜は、銀幕のように巨大な翼を広げる。

 自分の住まう神殿へと帰るのだ。

 竜だからといって心がないわけではない。だが、その死生観は人間のそれとは大きくかいしていた。

 弱い生き物は死に、強い生き物が生きる。神はそのように、我ら生き物を創られた。

 それが竜の中にある真理のひとつ、神からの教えであった。

 赤子だろうと大人だろうと、神の教えの前には関係がない。

 竜は入り江に幼子を残して、飛び去った。


 それから少しった頃。

 一週間だったかもしれないし、一か月だったかもしれない。

 竜は再び入り江を通りかかった。しやちか鯨を食いたくなったのである。

 入り江にはもう死体はひとつもない。白い波にさらわれ、掃除された後であった。ほしくずのような砂がきらめいている。

 白銀の竜は海に飛び込んだ。潜行しながら翼を折りたたみ、泳ぎに適した流線形を取る。

 島から五百メートルほど離れた深海で、鯨を見つけた。泳ぎ始めてからほんの数十秒。こんなに早く見つけられるとは思っていなかった。運が良かったのだ。

 竜は顎を開き、鯨の胴にみついた。たいは竜よりも鯨の方がずっと大きい。けれど、竜の方がずっと素早く、そして力強かった。

 竜は寸胴な鯨をくわえ、一息に海面へと上昇する。そのあまりの速さに鯨はきっと、自分の身に何が起きているかわからなかっただろう。そしてわからぬままに意識を失った。ころすよりも先に、急激な浮上による水圧差が鯨を殺したのであった。

 竜はむちのように首をしならせて、鯨を島に向かって放った。

 真っ黒なきよしずくをきらきらとまき散らしながら、放物線を描き、飛んでいく。のんびりと空を飛んでいた海鳥たちが、大慌てで道を空けた。

 竜のむ島の入り江に、鯨の死体は落ちる。衝撃で小さな島の地面が揺れた。

 竜は島に戻り、鯨の肉を食らい始めた。

 全長十八メートルの黒い肉、その三分の一を腹に収めたところで、竜の食事は終わった。残りは後で食うつもりであった。

 再び神殿に戻ろうとしたとき、竜はある生き物に気付いた。

 猿に似た小さな生き物。

 それはいつか見た幼子であった。竜は、幼子のことなど全く忘れていた。

 竜は、青い目を見張った。

 自分の血を浴びて、生きているとは。

 女の幼子、髪の色は黒い。瞳も同じ色をしている。身にまとう服は子供用ではあるものの上等なドレスだ。服には海水で血を洗い落とそうとしたようなしわがあった。しかし、みついた血の色を落とし切るには至っていない。

 幼子が二本の足で、しっかりと立って、木の陰から自分を見ている。竜のことを警戒している。飢えている様子ではあるが、確かに生きていた。

 竜はすぐに理解した。自分の血の影響だと。

 竜の血は猛毒である。

 一万人の人間にそれを浴びせたとしたら、九千九百九十九人は死ぬ。

 けれど、一人は生き延びる。そして、毒を克服して生きることができたのなら、その人間は血の主と同じだけの力を授かることとなる。

 この幼子はその「一人」だったのだろう。だからほんの三歳くらいに見えるのに、しっかりとした足で立っていられるのだ。

 ああ、そうなのかと竜は思った。

 運命が、天命が、神のおぼしが、この幼子を生き長らえさせたのだと。

 竜は思いを決めて、神殿へと飛び立った。

 大空を舞う中、竜は気掛かりに思った。幼子の肌が、不自然に黄色がかって、乾燥していることを。

 見下ろせば、幼子は鯨の死体に駆け寄り、その肉を食らっていた。


 その日のうちに、竜は再び入り江に向かった。鯨の食べ残しを食うためではない。

 入り江の上空に差し掛かった時、竜の青い瞳は幼子の姿を見つけた。自分が作る大きな影から逃げるように、林の中へ駆けて行くところだった。

 竜が入り江に降り立つ。幼子はまた木陰から自分のことを見ていた。いや、正確には鯨の肉を。

 きっと竜が再び鯨の肉を食いに来たのだと思っているのだ。どれだけ食べ残されるのか、それが気になっているようだ。えたまなしと黄ばんだ肌が、幼子の食事の状況をによじつに表していた。食っているのは、虫か、木の根か。


『おいで』


 竜は幼子に声をかけた。幼子はびくりと身を跳ねさせた。


おびえなくていい。取って食ったりはしないとも。神は君に生きろと命じられたのだから』


 竜が操るのは人の言葉ではない。

 神より授かりしことだま、『真声言語』である。

 はるか昔、人間がいくつもの民族に分かれ、多様な言葉を話すようになる前に使われていた言語だ。真声言語は、あらゆる生き物との意思疎通が可能である。相手の知能、知識など関係なく、相手に伝えたいことを伝えることができる万能の言語なのだ。

 語りかける竜の声音は優しかったが、それでも幼子はまだ竜を少し怖がっているようだった。竜の体高は十五メートルもあったのだから無理もない。

 白銀の竜は、敵意がないことを示すべく、長い首をゆっくりと曲げてお辞儀をした。

 そして、爪にひっかけてきた贈り物を差し出した。

 色とりどりの果物である。

 彼が住む神殿の周りに実っていたものであった。

 竜の爪は大きく不器用だったため、果実のいくつかはもぎとるときに潰れてしまっていた。


『さあ、この実をお食べ。肉や虫ばかりを食べていたのでは体を壊す。いかに私の血を浴びたといっても、そのままでは死んでしまうよ』


 幼子が最初の一歩を踏み出すまでは時間がかかったが、踏み出してからは早かった。ぱたぱたと駆けてくると、竜の爪から果物を取り、一口かじった。


『おいしい』


 言ってから自分でも驚いていた。幼子は真声言語をしやべれるようになっていたのだ。

 幼子が口にした果実は、人間の国で言うところの梨やりんに似ていた。けれど、それらはただの果実ではなかった。


『君が食べた果物。名を、知恵の果実という。口にした者に知恵と知性を授けるのだ』


 果実に与えられた知性と、真声言語の万能性のおかげで、幼子はよどみなく意思疎通ができるようになっていた。

 幼子は小さな口を両手で押さえた。


『いけないわ。昔話で聞いたの。人間が知恵の果実を食べるのは罪なんだって』

『はは、それは違う。知恵の果実を食べることが罪なのではない。果実から授かった知恵で、他人をおとしいれることが罪なのだ。そら、怖がらず食べるといい』


 幼子は竜の言葉に安心し、残りの果実を口に運んだ。ほほましい様子を見ながら、竜は幼子に忠告した。


『知恵の果実によって、君は人の心の機微を誰より敏感に察することができるようになるだろう。けれど、それで人を欺いたりしてはいけないよ。神は君を見ているからね』

刊行シリーズ

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