第一章 ②

 幼子はうなずきながら食べ続けた。

 果実を平らげたあと、幼子は言った。


『ありがとう』


 不自然に黄ばみ、乾いていた肌にみずみずしさが戻っていく。知恵の果実は、その栄養価においても、人の国の果実とは一線を画していた。


『どうして私を助けてくれたの?』

『助けたのは私ではなく神だ。神が君の命を救ったのだ』

『かみ?』

『君は私の血を浴びてなお生き延びた。私はそれを神の意思と解釈した。君はここで死ぬべきではない、と』

『かみさまって本当にいるの?』

『いるとも。現にこの島は、神のちようあいを受けているのだよ』


 知恵の果実がり、生命のが生え、小河にはネクタルが流れる。それがこの島なのだ。


『ここはどこ?』

『大洋にある孤島だ。人々は白銀島と呼んでいるが、神が授けた名前はエデンだよ』


 今度は竜が尋ねる。


『ここがどこか、知らずに来たのかい?』


 幼子はうなずく。


『怖い人たちにさらわれて、気付いたらここにいたの』


 さらわれた。

 幼子の着ている服を見て、白銀の竜は考える。

 竜は決して世事に通じているわけではないが、彼女の服が貴族のそれであることくらいはわかった。浅ましい人間は略奪や誘拐を行うというから、この幼子はその被害者なのだろう。


『君を人の国まで連れていこう』


 と竜は申し出たが、


『それはいやだなぁ』


 幼子はうつむいた。


『君の帰りを待つ家族がいるだろう?』


 白銀の竜は、今日までにたくさんの人間を殺してきた。その全てが、彼の血や島の宝を狙うやから、降りかかる火の粉であったが、とにかく大勢、殺してきた。

 ほとんどが大人の男だった。屈強な肉体の男であっても、半分くらいはぎわに母を叫ぶ。涙をこぼし、絶叫しながら、仮にそこにいたところで何の助けにもならないような女親を呼ぶ。

 それだけに、幼子の言葉は意外だった。


『親がいるだろう?』

『いるけど、顔も知らないもん』


 幼子の顔に表情はない。


『私、家庭教師にずっと預けられてるの。家が貴族だから、ちゃんとした人になりなさいって。お姉様もお兄様も、みんなそう。あっ、お兄様は、少しくらいはお父様に気にしてもらってるかもだけど。私にとっては親なんていないのと同じよ』


 幼子は大きな瞳で竜を見る。


『あなたは?』


 と幼子は聞いた。


『あなたもここでひとりぼっち?』

『いいや』


 耳を澄ませてごらんと竜。


『真声言語を扱えるようになった今の君にはわかるはずだ。森の動物たちの鳴き声、虫のさざめきや鳥のさえずりが何を言っているか』


 真声言語はあらゆる生き物とのコミュニケーションをとることができる。

 今の幼子は、森に安住する動物たちの声を解し、彼らが心から幸福であることが分かった。


『いいなぁ……』


 焦がれる声で幼子は言った。


『私もここにいたいなぁ』

『いればいいとも。君が望むなら』


 幼子はくりくりとした目をいっぱいに見開いて、竜を見た。


『いいの?』

『もちろん。けれど、この島、エデンで生きるのならば神の教えに従わなくてはならないよ』

『かみの教え?』

『エデンにいるどんな生き物ともけんしてはならない。憎んだり、恨んだり、嫌ったりしてはならない。みんなが友達であり、家族なんだ。愛し合い、いつくしみあうのだよ。それができるなら君はここにいてもいい』

『そんなこと、簡単だわ。そういう教えがあるのなら、エデンの生き物は私に嫌がらせをしたりしないんでしょ? なら、憎んだり嫌ったりするわけないもん。その約束、守るわ』

『わかった。ならば、君と私は友達で家族だ』


 幼子は無邪気に笑った。


『ねえ、なんて呼んだらいい? 私の名前はね』

『名乗らなくていい。ここは人の国ではないからね。私は君を、君と呼ぶ。君も私を、君と呼ぶのだ。互いに本当に愛し合っているのなら、名前などなくても十分なのだよ』

『わかったわ』

『その女の子らしい言葉遣いもやめるんだ。性差は差別を生むきっかけとなることがある。飾ることのない言葉を使うのだ』

『飾らない言葉……。どんな風?』


 と幼子は口にしてから


『そうだ。あなたの……いや、君のをすればいいのだな』


 と言葉遣いを変えた。


 竜は大きくて細長い背に幼子を乗せて、すみである神殿へと向かった。

 幼子はすぐに動物たちと仲良くなった。彼女がほんの三歳だったことが幸いした。もしもう少しとしを取っていたのなら、その心は世俗に汚れて、エデンの民たちと心通わせることはできなかっただろう。

 幼子は花をで、風にうたい、うさぎと野を駆けた。

 色々な生き物と親しくなったが、幼子が特になついていたのは竜だった。


『私に最初に優しくしてくれたから』


 眠るときはいつも竜の尾に、または胴に、あるいは首に体を預けていた。

 この幼子は、自分のことを親と、血を分けた父親と思っているのかもしれないと竜は思った。


 幼子の成長はすさまじく早かった。

 彼女が浴びた竜の血と、この島にしか実らない果物が、彼女を生命力あふれる生き物へと仕上げていった。

 九年の月日が流れ、幼子は少女へと育った。

 人間であればまだ十一歳か十二歳といったところだが、その知性の輝きは大人と遜色なかったし、身体能力に至っては人間をりようしていた。神の果実による祝福は、肉体の成長を早めたので、年齢とは不相応に背が高くなり、胸が膨らんだ。時折、極彩色の鳥や、壮麗なじやく、力自慢のおおわしから求愛を受けて困っている様子が見かけられるようになった。

 少女は島に棲む馬より速く駆け、いのししよりも力強く、蛇よりもすばしっこくなった。

 だが、その成長の過程で少女の色は変化した。

 漆黒から白銀へと。

 竜がしたたらせた、水銀のような血の影響だ。少女の髪は、竜のうろこと同じ色だった。

 肌は白く、は血が浮いているかのように赤く、髪は月のような銀色となった。色素というものが、少女からは抜け落ちたのである。


 再びエデンを狙う人間が島に来たのも、ちょうどその頃であった。

 人間の襲来に応じて竜は入り江に赴き、彼らの船を撃退する。いつも、毎回、そうしてきたように。

 だが、僅か九年で人間の科学水準は飛躍的に向上していた。

 竜を倒すにはまだ及ばない。だが、攻めてきた軍艦には、竜のうろこを貫通するほどの威力を持った大砲が何十門と備え付けられていた。人が手にしている短機関銃は相変わらず豆鉄砲と大差ないものの、適正距離で撃てばうろこにひびを入れるくらいはできる。

 断続的に響く砲撃の音。火花が夜の海を赤く照らす。

 白銀の血が飛び散った。軽傷ではあるが、はたから見ると派手に噴き出しているように見えた。

 艦船を二つに折りながら、竜は思った。

 ──もう長くは持つまい。

 敵ではなく、自分がだ。

 軍事力の目覚ましい発達を見るにあと十年、否、五年もすれば人間の技術は自分に致命傷を負わせるに至るだろう。そう、冷静に分析していた。

 それはかまわない。

 強きは生き、弱きは死ぬ。神はそのように生き物を創られた。

 竜の時代は、ここまで。それだけのこと。

 私は近い未来、殺される。

 ふと、気付いた。煩わしい短機関銃がんでいることに。

 竜が潰したわけではない。白銀の竜は軍艦の相手をしているのだ。

 浜辺に降りた人間たちが、いつの間にか死んでいる。

 いや、殺されていた。

 入り江は血に染まっている。九年前、自分がそうしたのと同じように。

 小さな竜が、そこにはいた。

 風になびく伸びっぱなしの長い銀髪は、まるで尻尾のよう。

 まとう白き衣は、はばたく翼のよう。

 天も地もなく、少女は飛び回る。銃弾の嵐をかいくぐり、少女は人を殺していた。しなやかな足から繰り出される一撃。受けた人間の頭が割れた。突き出される小さな手のひらは、防具ごと敵の胸を貫いた。

 その姿は、まるで白銀の竜の娘のようであった。小さな竜が、親の手伝いをしているかのよう。

 否。

 きっと少女が、そう思いたかったのだ。

 自分は、白銀の竜の娘であると。


 ずきりと竜の心がきしんだ。


 人間たちを撃退し、一匹と一人は神殿に戻った。少女は竜の傷を心配していたが、それが軽傷と知って安心したようであった。幸い、少女の方にはなかった。


『どうしたものか』と少女はみした。


『人の武器が目覚ましい勢いで発達している。このままでは……君が殺されてしまう。エデンを守る竜が』と少女。


『そうだね。私は近い未来、殺される』

『どうして人はこの島を狙うのだろう』

『エデンには、知恵の果実や生命のなど……たくさんの神の造物があるからね。現世での幸福が至上命題である人間たちにとってはすいぜんものなのだよ』

『だが、それらは君が死ねば灰になるはずだ』


 白銀の竜はエデンの守護者である。

 守護者が死した時、島の生き物は全て燃え上がって灰となる。知恵の果実も、生命のも、ネクタルも、全てが灰になるのだ。神は己が創造物を、浅ましき者の手には渡さない。



刊行シリーズ

王妹のブリュンヒルドの書影
クリムヒルトとブリュンヒルドの書影
竜の姫ブリュンヒルドの書影
竜殺しのブリュンヒルドの書影