第一章 ③

『エデンの造物は、灰になってもなお貴重な資源として利用できるのだよ。そして守護者である私は例外的に死んでも灰にはなれない』


 竜の脂は燃料として、血は強壮の薬として、うろこよろいとして、牙は剣として、肉は栄養として、高い価値を持つ。

 人間にとって、エデンとそこを守る竜は犠牲を伴ってでも狩る価値があるのだ。


『私たちは……誰にも迷惑をかけずに……平和に生きたいだけなのに……』と少女。

 思いつめた様子の少女を、竜の青い瞳がじっと見ていた。


『生きたいのか、君は』


 少女は小首をかしげて言った。『当たり前だろう?』


 当たり前ではないのだ。

 人の国では生への執着は当たり前だろう。だが、この島では違う。エデンの生き物は死後、その魂を救済されることが約束されているのだ。故に、エデン生まれの生き物は死を求めることこそしないが、憂うこともしない。


(この子はもしや……)


 少し待っているようにと言って、竜は神殿の奥に向かった。

 はるか昔、白銀の竜が人間からあがたてまつられていた時代があった。天災に見舞われた時や、他国に戦争を仕掛ける時、人々は竜にもつささげた。宝石、金銀、花、衣服、人形、穀物、若い女。そのどれもが私には不要なものだったが……。


(あの子には必要かもしれない)


 竜が向かった部屋には、たくさんのもつが収められていた。

 色とりどりの宝石を前に、竜は立ち尽くした。人間の女が宝石を好むことを知っている。だが、人間の好みというものが竜には理解できない。きらびやかに輝く石のどれを選べばいいのか。

 しばし考えこんだが、どれだけ時間を費やそうと不毛だと判明するだけであった。

 竜は一つの宝石を選ぶと、傷をつけないように細心の注意を払いながら、少女の下へ戻った。

 大きな爪の上に載っていたのは、ガーネットのネックレスだった。少女の瞳と同じ色をしているから選んだのだ。


『これを君にあげよう』


 少女がガーネットを受け取る。


『これを、私に』


 きれい、とうっとりした口調で言った後、少女は宝石をぎゅっと抱きしめた。


『うれしい。いつか、私に果物をくれた時と同じくらいに』


 それで竜は確信する。


『気に入ってくれたのなら、うれしい』


 うれしいけど、悲しい。

 エデンの生き物が、宝石で喜ぶことはない。

 ──やはりこの子は人の国で生きるべきなのだ。

 竜はもつの収められている部屋を爪で指した。


『あの部屋には、もっとたくさん宝石がある。服もある。全て君にあげよう。好きなように着飾るとい』


 少女はガーネットを握ったまま、こくこくとうなずくともつの部屋へ入っていく。

 無邪気なそれを竜は寂しげな瞳で見送った。


 少女は二時間近く部屋にこもった。

 竜は彼女を待ち続けた。どれだけ待たされようと竜が人のように怒ることはない。数千年を生きる竜にとっては、二時間などまばたきにも等しい時間である。

 部屋から出てきた少女は、全身を深紅の衣服で固めていた。ドレスも、コルセットも、ブラウスも、リボンも。

 全て、ガーネットと同じ色をしていた。


『様々な色の服があったはずだが』

『赤が好きなのだ』


 ついさっき、好きになったのだ、と少女。


『……この島の外には』と竜は続ける。


『もっとたくさんの服や宝石がある。君の好きな物、好きな赤がたくさんある』


 はっとした表情で、少女は竜を見た。

 赤い瞳と青い瞳がすれ違う。


『ない』


 少女は言った。竜に言葉を続けさせたくないようだった。


『私の欲しいものは、この島にしかない』

『いいかい。よく聞くのだよ』


 少女はかぶりを振ったが、竜は無視して続けた。


『私が死んだとき、この島のものは灰になる。この島のものは、だ。君はこの島のものではない。島の外で生まれた。私が死んでも、君は灰にならない。君は私が死んだ後も生き続けなければならない、島の外で』


 そこまで言って、竜ははたと気付いた。

 どうやら自分は、この娘に死んでほしくないらしい。


『島の外に私の居場所はない』と少女。


『君が島の外で過ごしたのはほんの二年か三年だろう? そのたった二、三年、巡り合わせが悪かっただけだ。君に優しくしてくれる人間は必ず現れる』


 少女は激しく首を振った。目の端から水滴が散って、大理石の床の上ではじけた。

 それでも、と少女はつなぐ。


『それでも……私に初めて優しくしてくれたのは、君だから』


 他の誰でもない君なんだ、と少女は涙を目の端にめて言う。


『君といたい』


 それは、竜とて同じ気持ちだった。

 エデンの生き物はみな家族で友人だが、少女は竜にとって特別だった。

 それはきっと、幼子の頃から彼女を見ているからだと思う。血のつながりがない以上、確信は持てないのだが。

 ──どうにも私は、父親としてこの娘を愛してしまったらしい。

 少女が言う。


『君に死んでほしくない。エデンの生き物はみな家族で、友人だけど……君は私にとって特別なの』


 竜が心のうちで思ったのと、同じことを言う。


『人がこの島を攻めるなら、一緒に島から逃げよう。竜の秘術には人の姿に変身するものがあるだろう。一緒に人に扮して生きよう』


 それは無理な相談であった。


『私はエデンを守護する使命を神より賜っている。放棄することなどできないのだ』


 だがしかし。


『神なんて、本当にいるのか? いるのならどうして私たちを助けてくれない? 私たちは何も悪いことをしてないのに』

『いいや、神は私たちを助けてくれるとも。いいかい、よく聞くのだよ。今から言うことを、君は決して忘れてはならない。私たちはエデンで、誰かを憎み、嫌うことなく、愛し合い、尊重し合って生きてきた。これは人の国では決してかなわぬ善行なのだよ』



 だから、神はちゃんといるのだよ。

 いことをしたのなら、救済してくださるのだ。



『善行を積んだ魂は、死後、永年王国という場所に召される。そこは果てなく続く楽園だ。尽きることのない寿命を、病に侵されることも、老いにむしばまれることもなく、愛する者たちと過ごせるのだ。もちろん、海からの脅威におびえることもない。私は君と、そこに行きたいのだ。だから、人の国に渡った後も神を疑ってはならない。教えに背いてはならない』

『魂を助けてやるから、今は諦めて死ねっていうのか? 神は……』


 竜は悟った。

 少女がこの島に来る前の三年間、それが致命的なものであったことを。

 幼子ならば、間に合うかとあの時は思ったのだが。

 この娘は神を信じていない。故に包み隠さず、真摯に打ち明けた世界の仕組みを受け入れることができない。

 我が娘は、根本的なところで人間なのだ。


『……わかった。一緒に人の国に行こう。少し、人の世界で暮らしてみよう』と竜は言ったが、これは娘と共に人として生きることを決めたからではない。

 娘を、彼女が戻るべき人の世界に慣れさせるためであった。


 竜の傷が完全に癒えるまで三日かかった。

 人の国へと向かう日の夜、竜は娘に自分のうろこを一枚、分け与えた。


『それを飲み込むのだ。すると君は少しの間、竜に変身できる』


 少女は迷いなく、ごくりとうろこを飲み込んだ。小さな体が変化を始め、あっという間に小さな竜となった。

 大きな竜と小さな竜。

 並ぶ姿は、本当の親子のよう。

 二匹の竜は島をった。人の国へと。

 目指すのはノーヴェルラントという帝国の首都。帝国で一番華やかな街、ニーベルンゲンだ。

 と言っても、直接ニーベルンゲンに降り立つことなどできはしない。白銀の翼は目立ちすぎる。竜が最初に向かったのは、都から少し離れた人気のない場所だった。

 二匹の竜が地に降り立つ。幸い、誰にも見られなかった。

 大きな竜は秘術を用いて、青年の姿に変身する。短い髪の色は、うろこと同じ白銀。

 小さな竜は少女の姿に戻る。人の姿に戻りたいと念じれば戻ることができた。

 二人は裸であった。

 少女は、手で胸と秘部を隠して座り込んだ。

 そしてりんのように赤い顔になって言った。


『み、見ないで……』


 青年は少女がそんなことを言う理由が分からなかったが、少女に背を向けることにした。

 自分は少女の育ての父であり、少女もきっと自分を父と思ってくれている。親子であれば、互いに裸であっても恥ずかしがることなどないというのに。

 青年は、近くの岩陰へと歩いていく。そこには大きなかばんが隠して置いてあった。中には服を始めとした旅支度が一式、入っている。昼間のうちに運んでおいたのだ。

 青年は少女の方を見ないようにしながら、彼女のための服を渡した。背後から大慌てで服を着る音が聞こえてきた。その間に青年も服を着る。


『もう、見てもいいぞ……』と少女の声。

 ノーヴェルラント帝国、その中産階級の服を着た少女がそこにいた。

 衣服をまとった少女は人心地ついたようだが、今度は青年の方が緊張する番であった。

 人の姿に変わっている間は、竜は本来の力を十パーセントも発揮できない。ともすると共にいる少女よりも弱いかもしれない。しかも、一部の人間は、人に化けた竜を見抜く目を持っていると聞く。万一、自分たちが襲われることがあれば、少女を守り抜くことは難しいのだ。


刊行シリーズ

王妹のブリュンヒルドの書影
クリムヒルトとブリュンヒルドの書影
竜の姫ブリュンヒルドの書影
竜殺しのブリュンヒルドの書影