第一章 ④
田園風景が見える。遠くには闇に落ちた山々が。
石造りの小さな橋へと向かう。それが都へ通じる道であった。
青年は少女の腕を引いた。
『私の
万一、襲われるようなことがあれば、青年は身を
少女の頰は赤い。けれど、それは恥ずかしさによるものとは、まったく別の紅潮であった。
少女は手だけではなく、
二人は夜通し歩き続け、やっと都についた。普通の人間なら足が棒になるところだが、二人には問題なかった。
ニーベルンゲンの大通りの前、街の名が彫られたアーチの下。ついに都に入るというところで、白銀の青年は足を止めた。
青年は、少女をまっすぐに見つめて言う。
『いよいよ人の都に入る。それに際して、君にお願いがある』
張りつめた声だった。
『どうか先入観を持たないで、周囲を見てほしい。優しい人はきっといる。楽しいと思えるものもきっとある』
少女は深く考えずに
その
というのも、少女は既に楽しいものを見つけていたのだ。
田園の他に何もない夜道を、青年に手を引かれて歩いているだけで、少女は楽しかった。胸が高鳴った。もう一度、手を取って、今度は青年の方から
『もう楽しい』と伝えることはしなかった。口にすればそれで目的は達成され、おしまいになってしまうのではないかと危惧したからだ。
少女はまだ、青年と歩いてみたかった。
高級でも安宿でもない、真ん中くらいのホテルを二人は拠点とすることにした。
部屋に荷物を置き、少しだけ休んで、二人は街に繰り出した。
首都というだけあって、街は実に
だが、それだけだった。
少女が楽しいと思えるものは、その街には一つもなかった。
一緒に田園風景を歩いていた時のような、素朴な
なぜなら、右を見ても左を見ても、
『竜殺し』にあふれていたから。
オペラの公演があった。邪竜ファヴニールを英雄が斬り殺す物語だ。あるいは
広場には銅像があった。竜の胸に
本が売り出されていた。女性に人気のラヴロマンスで、何やら栄誉ある賞を取ったという。あらすじは、王子が竜を殺して姫を助け、結ばれるといったものであった。
小型の竜の肉をあぶった物が出店で売られていた。竜の肉を焼く炎、その燃料にも竜の脂を使っているという。質の悪い冗談かと思った。
にぎやかで、華やかなニーベルンゲンの街は、
青年が少女に「優しい人はきっといる」「楽しいと思えるものもきっとある」と言った街は、
少女にとって、
悪夢の具現に他ならなかった。
それでも少女は歩き続けた。
アーチをくぐる前に、青年が少女に言ったからだ。「どうか先入観を持たないで周囲を見てほしい」と。
歩き回って三日目に、竜を救済するという団体を見つけた。その瞬間だけ、少女の心は躍ったが、団体の活動内容を聞いて消沈することとなる。その団体は、竜を殺すに際して安楽死が必要であると説いていた。竜の命を救うつもりなど、そもそもないのであった。
三日でもう、十分だった。
ホテルのレストランに用意されたディナーは砂みたいな味がした。食べ物すら楽しめない。人の国の食材は、エデンで採れるものよりずっと粗悪なのだ。
──夜の道をずっと歩いていられたら良かったのに。
少女はフォークとナイフを使って、鳥肉を切り分けていく。知識として食器の使い方は心得ていたが、実践でいきなりうまく扱えるわけではない。少しぎこちなかった。
それを見た青年が言った。
『ナイフはこう使う。見るんだ』
青年は
がちゃんと少女の食器が音を立てた。
もう、限界だった。
少女の手には、ナイフもフォークもない。
ただ、拳を固く握りしめていた。少し、震えてすらいた。
少女はもう我慢ならなかった。
オペラも、銅像も、子供も、本も、出店もそうだが。
それ以上に、
そういう物を
『何も、感じないのか?』
『何がだ?』
青年が肉を口に運ぶ。
『竜が殺されている。それが賛美されている。竜が食べられている。竜が燃料にされている。同じ竜なのに、何も感じないのか?』
二人の会話は、真声言語で行われているから、レストランにいる他の客には聞き取れない。
『憎しみの炎を燃やしてはならないよ。たとえ今世で
青年は肉を飲み込んだ。
『神は我らにこう教えた。何者に対しても、
少女は唇を
『胸が痛くならないか?』
『ならないとも』
『頭が熱くならないか? 全部どうでもよくなって、ナイフを思いっきり肉に突きさしてやりたいと思わないか?』
唇が切れた。
『この街の何もかもを
『血が出ているぞ、唇を
『君が死んでも、誰も悲しまないんだぞ?』
『悲しむ必要はない。むしろ死は喜ばしいことだ。永年王国へ召されるのと同じ意味なのだから』
所詮、人は人であり、竜は竜だ。
二人は絶望的なほどすれ違っていたが、
──なんでこんな簡単なことがわからないのだろう。
互いが胸に抱いている思いは同じだった。
四日目は、歴史博物館に行った。
竜殺しの歴史を知るのが目的だった。少女のたっての希望である。少女はほとんどの施設に興味を示さなくなっていたが、ここだけは別だった。
もし、希望があるとしたら。
少女の体を熱が駆け巡る。心臓がどくんと高鳴る。
戦うしかない。
自分に流れる竜の血。人外の力を
歴史博物館には竜の討伐に使われる武器などが展示されている。最新の武器の性能についても把握することができた。少女は血走った目で、その情報を見て、頭にたたき込み、理解した。
「ははっ」
思わず少女の口から笑いが漏れた。
「くっ……くくっ……」
口元を押さえる。行き交う見学者が
──知ったことか、どうして
まるで話にならない。
「人間の科学がこんなに発展しているとは」
竜の島に攻め込んできた艦隊は、「威力偵察」と「型落ちした艦の処分」を兼ねたお遊びに過ぎなかった。
攻めてきた人間も、訓練を受けた正規の軍人ではない。死刑囚や島流しの罪人などに武器を持たせただけの
博物館に置かれたスクリーンに、映写機がモノクロの映像を映している。
白銀の竜より巨大な竜が、人と戦っていた。
いや、人というよりは機械と戦っていたというべきか。
鉄の塊でできた車。大きな砲身を搭載している。
重装甲戦車というらしい。
戦車の上に載っている長く、太い主砲が竜に狙いをつける。
──カノン砲バルムンク。
それが主砲の名だった。
モノクロの映像に、音はなかった。
一瞬、スクリーンが真っ白になったと思ったら、次の瞬間には巨竜の胸に大きな風穴が空いていた。
巨竜が倒れると、同時に映像が激しく揺れる。どんと幕のような土煙が巻き起こった。
こんなものとどう戦えと?
竜の力は、あまりに前時代的だった。
『人の姿で一緒に暮らしてくれ。どこか、遠くの町で』
博物館を出た時、少女は青年に言った。
『それはできない。わかってくれ』
わからない、と少女は言った。
『神が何だ? 神も悪魔も天使も、どうでもいい。私は……』
少女は、少し間を置いた後、やがて意を決したように口を開いた。
『君が好き』
青年もうなずいた。
『私も君が好きだ』
そうじゃない、と少女は言った。
『父親としても……そうだけど……それ以外の意味でも……』
青年は大きく目を見開いたあと、手で顔を覆った。
『……おお、なんということだ。いかにエデンであろうと、それは許されないものなのだよ』
『人と……竜だからか?』
『そうではないと、わかっているだろう?』
人と竜であることは何も問題ない。エデンは自由な場所であるから、人と
問題は、二人の関係が親子であることにあった。血の