【外伝・書き下ろし】こちら、終末停滞委員会。です!シーズン2 ――例えばこんな、普通の日々の物語。

第1話 銀色少女と、はじめてのお泊り旅行


「長期の休暇でも取ったらどうだ」


 そんな事をカウス・インスティテュートのチュークス議長に言われたのは、とある作戦の結果俺の両手が千切れて緊急で手術をして、治ったと思ったら病院の地下に隠されていた終末が極小の異界を作り、死を禁じられた異界で4~5回頭を吹き飛ばされ、正気を失う寸前にギリギリ脱出してきた次の日の事だった。


「……休み……っすか」


 俺――言万心葉は、考えていた。長期の休暇を取ったのなんて、いつ以来だろう? カウスに来てから少しでもレアに肩を並べる男になりたくて、遮二無二働き続けてきた。


「ああ、取ったほうが良い。吸血鬼の眷属たちより顔色が悪いぞ」


 チュークス議長の事を俺は余り知らない。プライベートで会話する事もない。対人の仕事がメインになりがちだから、偶に関わりがある程度だ。


(そんな人が心配するぐらいだ。もしや俺、よっぽどなのかも)


 昨夜はエメ先輩に白湯を勧められた。あの超・超・紅茶党の少女に、だ。


「……休みって……何をしたら良いんですかね?」


 俺が尋ねると、議長は、ふむ、と小さく頷いてから。


「君は何か趣味でもないのか」

「……ないっすね」


 振り返れば今までの人生で、趣味を持つような余裕が一度もなかった。


「それは良くない。一本の柱で家を建てるような物だ。仕事以外の柱も持つべきだよ。そうでなければ嵐が来た日に、君の心の家は吹き飛ばされてしまうだろう」


 カウスの人らしい意見だなと思う。休日は趣味や旅行に費やし、そうでない奴に対しては信じられない物を見るような目で見る人たちだ。とは言え、一理あるのも確かだろう。


「議長は休日、どんな事をしてるんですか?」

「俺は料理が好きでね。最近は特にソーセージ作りにハマってるよ。羊の腸にひき肉を詰めるんだけどね、これに時間をかけてしまうと脂が溶けてしまって、難しい」


 ちょっと意外な趣味だ。ソーセージ作り、楽しそう。


「あとは旅行だね。1人でナップザックを背負って、地上に行って、色んな国の廃線になりそうな電車の写真を撮ったりしてるよ。政治的に緊張している国に行くと、スパイ容疑をかけられて警察に声をかけられたりするんだ。でも楽しいよ」


「旅行! いいですね。そこまでハードなのは難しそうですが」


 寮生活だし、金の使い道も無さすぎるせいで、財布にはかなり余裕がある。旅行。それは楽しそうだ。


「でも、俺……1人って苦手なんですよねえ。寂しくないですか?」

「寂しいから良いんじゃないか。でも。だったら友達か、恋人を誘えばいいさ」


 はじめての休暇。はじめての旅行。だったら、誘いたい人がいる。


   ■


「ここが、こっとんの故郷ですのねー!」


 カウス・インスティテュートの日本に辿り着くポータルがあるのは、石川県金沢市。つちのこ坂と呼ばれる道に面する、一軒の廃屋にある。


「いやあ、金沢はまだ俺の故郷って感じしないけど……つか、雪すご!」

「ほ、ほんとですわ。うわわわわ……さ、寒いぃ……っ」


 冬の金沢は一面の銀世界に包まれていた。日本一の降雨地帯。その積雪量も半端ではない。カウスには雪が降らないので、レアはぶるぶると震えつつ、嬉しそうに瞳を輝かせていた。


(レアと初めての旅行……! 俺がエスコートしなければ)


 俺とレアは、この年末――3週間ほどのバカンスを貰っていた。この2週間で日本旅行をした後には、リュミエール家に俺も厄介になって、年末を一緒に過ごす事になっている。


「……こっとん。寒いのだけれど」

「あ、ほっかいろ貼る?」

「……それももらう。でもまだ寒いのだけれど」

「俺の上着、着な?」

「そ、それだとこっとんが寒いでしょ!」

「? レアが寒い方が嫌だけど」

「…………ぅ。……あなたって……そういう所ある……」


 レアは、うー、と唸りながら、俺のポケットの中に手を入れた。


「ちがうの。うそついたの。……手、握ってほしかっただけ」

「ぇっ」

「どんかん」

「……何ではっきりそう言わないんだ? 俺が断るわけないのに」

「……どんかん!」


 乙女心とは、今日も難しいのだった。俺は、彼女の手をぎゅっと握った。細くて今にも折れてしまいそうな、彼女の真っ白な指。ポケットの中で、体温が彼女に移っていく。




「こ、こっとん! これ、このままいくの? ほんとに?」


 金沢の近江町市場にて。レアは大きな生牡蠣を手にして、目を白黒していた。


「いけ、レア! 勇気を持って!」

「う、うん」


 牡蠣の殻から、つるんと中身を滑らせて、一生懸命口を大きく開けた(それでも小さい)レアの喉へと中身が落ちる。


「ふー……ぁ」

「ど、どう? 旨い?」

「……美味しいとかじゃない。これ、もう、宇宙です……」

「感想がわからん」


 生牡蠣を食べたレアは、目をうっとりさせて嚥下する。羨ましすぎるので、市場のおじさんにオーダーして、俺も生牡蠣を食べる。


「こっとん! あっち海老ある! あれも美味しそう……!」

「ま、待てってー!」


 ここ――金沢市民の台所、近江町市場は、観光立国である金沢の中でも、特に有名な観光地だ。広いアーケードに沢山のお店がぎっしり。沢山の人たちが楽しげに行き来している。


(今回、俺とレアは付き合ってから、初めての旅行になる)


 半年前、俺はレアに告白(?)して、晴れてお付き合いをすることになった。しかしお互い余り時間もとれず、近場のデートぐらいしかしてこなかったのである。


(そして俺は、レアが初のカノジョ……!)


 初めはデートの度に緊張してたし、正直失敗した日だってある。折角なら、一緒に居て、楽しいと思ってほしい。よく言うだろ? 初めての旅行で別れるカップルが多いって。長い時間二人きりだと、お互いの嫌な部分が目についてしまうからって。

 だから、頑張りたいなって思ってたんだ。……だけど。


「で、でっかいカニですわー! おじさま。こちら、お幾らなの? ……むぅ。悩む」

「レア。たぶんカウスまで、宅配は出来ないと思うよ」

「……! 盲点……!」


 楽しそうに目をキラキラさせてはしゃいでいるレアを見ると、取り越し苦労だったな、なんて思った。だってこんな最高な子との旅行が楽しくないわけないし。


「って、もう新幹線の時間、近いわ、こっとん! 行かなきゃ」

「もうそんな時間か!」


 レアが俺の手をぎゅっと握ると、歩き出す。でもその前に、振り向いて。


「ごちそうさまでした、おじさま! とっても美味しかったですわ♪」


 まるで絵本から出てきたお姫様のような銀髪の少女が笑うと、店先のおやじはとろけたように口元を緩ませた。気持ちは分かる。だってこんな美しい人は、映画のスクリーンの中にだって居ない。彼女は歩きながら、俺の腕を抱きしめた。




 北陸新幹線の駅弁でお昼を済ませた俺達は(金沢野菜の弁当にレアは大層感動していた。優しいお出汁の味が気に入ったらしい)東京駅で乗り換えて(レアが沢山のお土産を購入していた。あと2週間は旅行が続くのに!)、横浜へと向かう。横浜からまた乗り換えて――


「ん、んー……! やっと着いたぁ……!」


 真鶴駅の前で、ぐーっとレアがノビをしていた。金沢から大体3時間半。レアは寝ることも休むこともなく、コロコロとおしゃべりをしていた。我ながら、よく話題が尽きないもんだと思う。俺もレアも、ずっといっしょにいるのにさ。


「ここが、こっとんの故郷なのね……!」


 レアが手を広げて、辺りを見渡す。この寂れた駅前は、銀細工のような少女には似合わなかった。俺がガキの頃、鬱屈とした気持ちで過ごしたこの街に、この愛する少女がいること。それがどうにも夢のようで、なんだか現実感がない。


「でも、本当に良かったのか? ここ、あんま観光資源もないし」

「良いの! どうしても来てみたかったんだもの、あなたの故郷」

「……なんでまた」

「愛する人の事、知りたいと思うの。当たり前でしょ?」


 長いまつ毛をパチパチさせながら、彼女がじっと俺を見つめた。この人は意外に、ずるいところもあるんだ。そういう言い方されたら、俺がこれ以上文句言えないって分かってる。


「とりあえず、宿行こっか」

「はーい」


 タクシーに乗ろうとすると、レアが散歩を拒否する犬のように立ち止まって、ふるふると首を振った。彼女は散歩が好きだから、宿まで歩いて行きたいんだろう。大きなキャリーバッグをころころと転がしながら、歩き出す。


「こっとんは子供の頃、どんな子だった?」

「結構嫌なガキだったよ。ひねた性格してたと思う」

「……意外! ずっと、いいこなんだと思ってた!」


 レアは俺をいいこだと思っているのか。それはそれで新しい発見である。


「レアは子供の頃は?」

「とにかく、お星さまが好きでね。何にでもお星さまのシール、ペタペタ貼ってた」

「あ! リュミエール家のアルバムにぺたぺた貼ってるシール、あれ、レアの仕業か!」

「そ、そうだけれど。いつのまにアルバムなんて見ましたの!?」

「……そうだ。エメ先輩に、レアには秘密って約束してたんだった」


 子供の頃の写真を見られていたのが恥ずかしかったのか、レアはぱんぱんと俺の肩を叩いた。6歳ぐらいのレアがチョコレートで顔中をベタベタにしながら泣いている写真を見て爆笑してしまった事については、話さない方が良さそうだ。


「……うぅ! 忘れなさい! 消して、記憶っ」


 リュミエール家の人たちはイタズラっぽい所がある。この反応を見るに、レアはあのアルバムで、今まで散々からかわれてきたのだろう。


「――あら。まさかあなた、言万くんじゃない?」


 不意に、すれ違った少女が、呟いた。


「……ぇ?」


 俺は振り向く。そこに居たのは、ボブカットの髪型に、どこか灰色の目をした、細い線の清楚な少女だった。彼女は薄く笑っているが、俺はその顔に見覚えはない。


「覚えていない? 私。胡道こどう。ほら、草次郎とよく一緒に居た」


「……ぁ。もしかして。……のむ先輩?」


 俺が尋ねると、彼女はにっこり笑った。思い出す。彼女が中学の頃の先輩だった事。この街では知らない人が居ないぐらいの、有名人だった事。


「あなたの事、心配していたの。中学の頃、突然居なくなってしまったでしょう? 親御さんの所に行ったのだけれど、知らないの一点張りでね。仕方がなく、警察とか児相にも話を通したのだけれど、結局あなたは行方不明扱いにされてしまってね」

「…………」

「そちらの方は、言万くんの……お友達?」


 のむ先輩が、その視線をレアに向ける。レアは人当たりの良さそうな彼女に、太陽みたいに明るい笑みを浮かべた。


「恋人ですわ! 彼の故郷に、一度来てみたかったの」

「へえ。……旅行で? ここに来る前は、金沢にでも行ってたの?」

「え!? どうして分かったのかしら?」


 レアの問いに、のむ先輩はくすくすと笑った。


「だってブーツが少し濡れているもの。しかも雨か雪に降られた濡れ方。現在日本で雨が降っているのは北陸と九州だけだわ。東京駅のお土産を持っているでしょう? もしも九州から東海道・山陽新幹線を使ったなら熱海駅に降りる筈。だから北陸新幹線を使って東京駅に降りたのかなって。富山・長野から来た可能性もあったけれど、海外からの観光客って事を考えると、本命は金沢だわ?」


 一息で語るのむ先輩を見て、レアが一瞬、言葉を飲む。


「すごーい! そんな事を考えていましたの!?」

「くすくす。私の運が良かっただけなのだわ♪」


 俺の昔からの友達かと思ったのか、レアがフレンドリーにのむ先輩に会話を続けている。一方俺は、妙な緊張感と違和感に心臓を鷲掴みにされていた。


(……この人が俺のことを気にかけていただって? まさか!)


 胡道のむ――彼女はこの街では札付きの不良として、恐れられていた。……いや、不良なんて生易しいモンじゃない。もっとえげつなくて、恐ろしいナニカだ。しかしそれを説明出来る人間は、1人としていなかった。


(だが少なくとも学生時代、彼女の眼中に俺が居たことなんてなかった)


 会話をしたのは数度だ。彼女はいつだって俺に、全く興味を覚えていなかった。……違うか。彼女は――他人に対して平等に全く興味を覚えていなかったんだから。


「それで、言万くん。今まで、どこにいたの?」


 のむ先輩の灰色の瞳が、俺を捉えた。俺には彼女の目的が何なのかがわからない。少なくとも『カウス・インスティトゥート』の事は地上の人々には秘匿されている。

 更に言うなら、俺が彼女に真実を語る理由さえなかった。


「別に。ちょっとした、家出っす」

「……ふぅーーん?」


 胡道のむは、小さく笑った。


「――あなたの両親、あなたが居なくなって、自殺したのよ?」


 俺は目を見開く。信じられなくて、彼女を見つめた。数秒間見つめ合って、彼女は笑う。


「なーんて嘘ぴょん♡」

「……はぁ?」

「顔。驚愕したわね。現在の両親の状況を知らないんだ。それに、微表情の中に後悔や罪悪感の気配は皆無だった――つまりただの失踪じゃなかったのね。あなたは、何かのやむを得ない事情があって、受動的な理由で失踪していた?」

「……っ」

「くす。その顔。全部図星ね。やったー。私、運が良いの♪」


 胡道のむの笑みが、半月のように歪んだ。


「その顔の傷跡、なあに? 言万くん♡」

「………………」

「ナイフじゃない。錆びた刃物か何かで抉るように付けられた傷跡。つまりぃ……戦闘による傷……。じゃない。傷口が露骨すぎる。これ……拷問で付けられた傷、でしょ?」


 彼女は初めに出会った時と全く同じ、完璧な笑顔を浮かべたまま続ける。


「軍人のやり方じゃない。マフィアのやり方。タイ、ベトナム……スペイン……メキシコ……中東辺り? ねえ、言万くん。あなた、どうして、そんな場所に――」


 彼女が俺の顔の傷に触れようとして、それを遮る、銀色の輝きがあった。


「無作法な輩ね。あなた、礼儀の1つも知らないの」


 その瞳は、銀の剣のように研ぎ澄まされていた。先程までのふわふわした表情とは対象的な、獅子や虎のような肉食獣が威嚇する時に浮かべる顔だった。


「それ以上、失礼な事をされるようなら。こちらにも考えがありますわ」

「……」


 研ぎ澄まされた殺意を向けられて、のむ先輩は、小さく笑った。


「その通りだわ。ごめんなさい」

「……へ?」

「悪気はなかったの。嘘だけど。ちょっとはあったけど。急に失踪した言万くんに興味があったのは本当。私の感情としては『警戒』が近い。でもあなた達の反応を見るに、私達との事とは、あまり関係なさそうね」

「あなた達の事って……?」


 のむ先輩はスマートフォンを取り出すと、1枚の写真を俺達に見せた。俺はその写真の男に、見覚えがあった。


「これ。草次郎そうじろうくん……っすよね?」

「そう。言万くんと草次郎、昔、時々遊んでたでしょ?」

「ああ、まあ……。マジでたまーにですけど。でも、こいつがどうしたんすか?」

「――彼を見かけたら、連絡してほしいの」


 彼女はメモ帳にさっと電話番号を書いて、俺達に渡した。その表情は相変わらず柔和な笑みだったが、それだけではない。僅かに焦燥感が込められていた。


「草次郎のやつ、失踪してしまってね。この街での失踪の事例と言うと、言万心葉。でしょう? そんな時にあなたが平然と歩いているものだから、声をかけたの」

「し、失踪!?」


 レアが驚くが、俺の方には余り驚きはなかった。


「のむ先輩。俺が知ってる時の草次郎くんが、今も同じなら……」

「まあね。失踪なんて、驚くことじゃないんだけどね。でも、大切なお友達だから」


 のむ先輩は呟いて、一瞬、泣きそうな表情を浮かべた。しかしすぐにまた、笑みを取り戻す。そうだ。そういえば彼女は、こういう人だった。徹底的に感情を隠し、正確に他人の思考を盗み見て、内輪の仲間の為なら何でもする、冷徹という言葉がよく似合う人。


「……俺とは全くの無関係だと思います」

「そっ。時間を取らせてしまったわね。旅行、楽しんで」


 彼女が俺達に背を向ける。歩き出して、……ぴたりと止まる。


「そうだ。お礼に……ていうかお詫びに? 1つ、教えてあげる」

「なんすか?」

「ご両親。元気よ。でも、きっと会わない方が良い」

「……はは。……そっすか」

「家族には必ず特別な愛情があるなんて信じているなら。教えるけど、居場所」

「……あー」


 彼女は俺の表情を見ると、それだけで、小さく笑って、去っていく。


「楽しんでね、日本旅行。それと……本当に素敵な恋人さんね。羨ましくて仕方がないわ」


 その小さな背中を、俺とレアは呆然と見送る。


「えっと……あの方は、こっとんと……どういう関係の方ですの……?」

「……うーん、まあ、なんていうか」


 彼女の評判は腐る程聞いた。彼女の悪行も腐る程聞いた。恐ろしい人なのは確かだ。まともでないのも確かだ。だけど、俺にとっては。


「ただの『友達の友達』……かな?」


 一瞬、子供時代の事を思い出して、鼻の奥が、つんと痛んだ。


   ■


 そうして私――レア・クール・ドゥ・リュミエールと恋人のこっとんがたどり着いたのは、海沿いにある小さなお宿でした。古びているけれど手入れは行き届いていて、渇いた植物の匂いがする。彼曰く、これが『畳』というやつの香りらしい。


「ふうー……やっと一息ついたぁ」


 和室に置かれた足の短い机に座る。それにしても、床に座るという文化には慣れないものです。座布団があるとは言え、足を伸ばして座るってちょっと悪い事してる感じ。


「どうぞ、レア」


 こっとんが近くの急須とお茶のポッドを使って、お茶を入れてくれる。


「ありがと。あ! これってもしかして、コンブチャ?」

「んー……いや。これはほうじ茶」

「色々あるのね。こっちに入ってるお菓子はサービスなのかしら。わ、嬉しい」


 今日は朝から金沢を大急ぎで観光して、東京駅でお土産を買って、こっとんの故郷を歩いて回りました。2人きりでいろんなところに行くの、本当に楽しかった。


「でも、流石に疲れましたわー……」

「そう? ほら、足伸ばして」


 何故? と尋ねるよりも先に、彼は私の足を握ると、手早く靴下を脱がせた。


「ぴゃん!?」

「確かに、随分歩いたもんなあ」


 なんて言いながら、彼は当たり前みたいな顔をして、私の足の裏をむにむにとマッサージし始めた。くすぐったいやら、気持ちいいやら、恥ずかしいやらで、私は兎みたいに飛び跳ねてしまう。


「こ、こらーっ!」

「え?」

「恋人とは言え、レディの身体に断りもなく触れるというのは、どういう要件なの!?」

「あ。そ、それでか。ごめん! 嫌だった?」

「ぃ……っ」


 ――嫌だった? そんなの。


「嫌に決まってるわ!」

「マジでごめんね」

「だって散々歩いたから絶対足……その……匂いするし! せめてシャワー浴びて……」

「匂い? ……くんくん……全然しないよ?」

「(声にならない悲鳴)」


 今、嗅いだ!? 嗅いだのこいつ!? 私の靴下脱いだばっかの足を!?


「~~~~~~~~~っ(ぽんぽんと頭を叩く)」

「痛い痛い痛い痛い!」


 こんなの淑女にして良いレベルの範囲を明らかに超えています。ぽこぽこと頭を叩く私の体をぎゅっと抱きしめると、彼は私の肩と首の間に顔をうずめました。


「……そんな嫌だった? ごめんね」

「……もう半年の付き合いになるのに、あなたの事が全然わからないわ? 乙女の足の匂いをか、嗅ぐだなんて! もしかしてそういう性癖なの?」

「い、いや。そんな性癖はないつもりだけど」


 彼はとびきり優しい声で、私の耳元で、小さく呟く。


「……旅行ってさ……レアとずっといっしょに居るのに……触る機会が少なくて……」

「えっ」

「2人きりになったから、チャンス探ってた。びっくりさせてごめんね」

「…………」


 なんだこいつ。


(かわいいかよ……ですわ)


 こっとんとお付き合いをしてから、分かったこと。――彼は、寂しがり屋だ。付き合う前はこんな事絶対しないタイプだったのに、付き合ってからは甘えてくれるようになった。


(それが、我ながら、信じられないぐらい嬉しくて)


 だってこんな所を、彼が私以外の誰にも見せないのを知っている。彼の甘え方は不器用で下手くそで、私に嫌がられないようにビクビク怯えながらしているのを知っている。

 彼の傷に触れるたび、私の胸の中が愛情でいっぱいになって、きゅーっと締め付けられる。愛って1つの罪悪なんだな、とも思う。


「……だ、だからって、足に急に触っちゃダメ」

「ちなみに、なんで」

「……あなたに臭いとか汚いとか思われたら、私、泣きながら実家に帰るんだから」

「レアに臭い所も汚い所もないよ」

「ありますの。人間だもの。だけど。……あなたには、ないって思っていてほしいの」


 彼が眼鏡越しに、私の顔をじっと見つめた。


(あ、これ、キスするやつ……)


 私はいい子の猟犬がやるみたいに、お行儀よく目を閉じて、唇を差し出した。


「ちゅ……。ちゅ…………。ちゅぅ…………」


 彼の腕が私の腰を抱き寄せる。それが男らしくて、いつもの優しい彼からは想像出来なくて、私の頭の中はぐじゃぐじゃになる。ぐじゃぐじゃの頭をかき混ぜるみたいに、彼の唇が私のお口に優しくて甘い毒みたいなキスを注ぎ込む。


「……こっとん……狙ってたでしょ。キスするチャンス」

「レアの隣に居る時は、いつだって狙ってるよ、俺は」

「……男の子すぎっ」


 意外とこの人は、そういう欲を隠さないタイプなのだ。私は乙女なので、そう簡単にキスをさせるわけにはいかない。……少なくとも、そういう体で居たいのでした。


「レア……」

「ま、ま、ま……待って下さいまし、こっとん!」

「……なに?」

「覚えてるでしょ? リュミエール家では……」

「結婚するまで、エッチ禁止……だよな?」


 私がぶんぶんと頷く。それはとても大切なうちのルールです。本当に大切な愛はただ1人にしか注いじゃダメだって信じている、とっても古くて素敵な考え方の家だから。


「していいの……キスまで……だからね?」

「うん」

「体も……少しなら、触っていいけど……」

「どこまでなら触っていいわけ」

「め、目がマジすぎですわっ」


 そう言われても、かなり悩む。だって私、乙女なんですもの。そんなの分かるわけがない。


「とにかく! 性欲に負けた暴走禁止ね」

「……そんな風に思ってるの? 俺はレアへの好きが止まらなすぎて、少しでもレアを感じていたいだけなのに」

「……腰をなでなでしながら、甘い事を囁くんじゃありません」


 私はわんちゃんにするみたいに、彼の頭を撫でながら。


「旅行中でも、節度を守るんですよ? あなたはリュミエール家に婿入りするんだから」

「ぐるる」

「まあ。唸ったわね!」


 なんて冗談を言い合って、私達はくすくす笑うと、額を押し付け合って、ぐりぐりする。まるで大好きなお友達と遊ぶみたいに。

 結局まだ私達は親友のままで。親友で――恋人なのです。


「大丈夫だよ。知ってるだろ、俺、レアが嫌がる事するぐらいなら、死んだほうがマシだ」

「そういう事言わないで。命は大事にして」


 彼は曖昧に笑った。それが、冗談や誇張では無く、本心から言っているからなのだと、私は誰よりも深く理解していた。


「だから、安心して。愛してるよ、レア」


 彼の唇が、私の頬に触れて、優しくちゅっと音を鳴らした。それだけで、乙女のように胸が高鳴ってしまうから、私も大概彼の事を言えない、はしたないやつだと思う。


(この2週間の旅行。こっとんが我慢出来るかが心配だったけど)


 むしろちゃんとしなきゃいけないのは、私の方かもしれません。だって私が『いいよ』って言ってしまった瞬間に、彼が狼さんになってしまうのは分かりきっていたんだもの。とは言え、そのぐらい求められるというのは……まあ……けっこう嬉しい……。


「とりあえず、お風呂行こうか。汗を流した後で、足をマッサージさせて」

「……はい♪」


 日本の大衆浴場は、カウスのものと違って、水着なんかを付けないと聞く。私としてはそれもちょっとハードルが高いのだけれど、ローマではローマ人のするようにせよと言います。


「女将さん。お風呂使いたいんですけど、どちらになりますか?」


 部屋を出て、廊下を歩いていた女将さんにこっとんが尋ねる。女将さんは優しく笑った。


「今日はお客さんたちだけでしてね。大浴場の方は閉めちゃってて。家族風呂の方を使って頂いてよろしいですか?」


 女将さんの言葉で、こっとんが固まった。


(かぞくぶろ? って、何なのかしら?)


 なんだか優しいネーミングだ。知らない文化に触れるのはワクワクするものです。


「えーと……まあ、行ってみようか。レア」


 私は胸をドキドキさせながら、彼の後ろに続く。


   ■


 かぽーん、という擬音は、ししおどしが鳴らす実に赴き深い音の表現である。


(マジか……マジなのか……⁉)


 家族風呂というのは、つまり家族が男女関係なしに同じ風呂に入る事なのだ。そんな風にレアに説明したところ彼女は『そうなんだ』とそれだけ呟いた。『見られるの恥ずかしいから、先入ってて』とも。だから俺と彼女は脱衣所で別れて。


「…………」


 俺はこうして馬鹿みたいにもぞもぞしながら、暖かい温泉に浸かっている。


(レアと……同じ風呂に入る……⁉️)


 レアと俺は、もう付き合い始めて半年ほどになる。しかし同じベッドで眠った事もなければ、裸を見たことさえない。言ってしまえば、清いお付き合いってやつをしてきたのだ。


(そりゃあ、今回の旅行で、あわよくば、みたいのはあったけど!)


 カウスでは知人の目だったり家族の目が多いので、あんまりくっついたりしていられない。旅行に来ればイチャイチャ出来るかなーと言う思いもありつつ、彼女は結婚するまで純潔を貫くと決めている人なので、一線は超えないと思っていた。


(でも男ならさあ!? どこまでいけるのかな? て思うじゃん!!)


 そして『いっしょにお風呂』は、俺が想定しているラインの遥か彼方にあったのだ。俺は彼女の水着や下着姿さえ見たことがないというのに。


「……こっとん?」


 心臓が笑ってしまう程に跳ねて、お湯が波打つ。頑張れ、俺。ここは平静を装うところだぞ⁉ 顔真っ赤で鼻の下伸ばしなんてしたら、幻滅されかねない。冷静に、さも当たり前のように振る舞うんだぞ。


「ああ、れ……」


 振り向く。


「これが家族風呂、なの? なんだかいい匂い、するね」


 ――バスタオルで前を隠した彼女が、湯けむりの奥に立っていた。


「………………」

「木の匂い? 素敵だわ。……お湯、きもちい?」

「………………」

「……こっとん?」


 バスタオルが張り付いて、彼女の美しい体のラインが浮かぶ。まるでギリシア彫刻のような完璧のバランスに、たっぷりとした豊かな乳房が膨らんでいる。タオルの隙間からチラチラと肌色が覗いて、思わず目を離せなくなる。


「こ、こっとん。こら。あの」

「……綺麗だ、レア」

「…………」

「すごく綺麗だ」

「……そっ」


 彼女はぷいっと外方を向きながら、俺の隣につま先を付けると、ゆっくりとお湯の中に体を沈ませる。肩が触れ合う程の距離で、彼女は、ふぅ……と息を吐いた。


「広いお風呂……ふわぁ……きもちい……。お湯……ちょっと、ぬるっとしてる……」

「…………」

「それに、ふふ……お外にお風呂あるなんて、素敵ね……。海の音、する……」

「…………」

「こっとん?」


 彼女は、ジトっと俺の瞳を見つめた。


「見すぎだから」

「……脳に刻んでるんだ。今」

「ちゅ、中学生じゃないんだから。もう。女の裸ぐらいで、大げさすぎ」

「女の裸じゃなくて、世界一愛する人の世界一綺麗な身体だから」

「…………」

「…………」


 我ながらバカみたいな事を言っているのは分かっているが、心の底からの言葉だった。だってこんなに美しいものを、他に知らない。恥ずかしい事を言われたレアは、顔を真赤にしながら、視線を逸らしている。


「桧だよ」

「……何?」

「この香り。浴槽が、桧なんだ」

「そういう、木があるの?」

「そう。確か日本が原産で、あんま外国にはないのかな」

「へえ……」


 きっとこの高潔でプライドの高いお嬢様は、恥ずかしかったりするのを一生懸命我慢して、俺の前で平然と振る舞おうとしているんだ。だからきっと俺も、何でも無いようにしてあげるべきなんだろう、と思った。彼女の意地っ張りな部分が、大好きだったから。


「こっとんは……よく来た? この温泉」

「まさか。こんな良い宿、来たこと無いよ。真鶴は温泉地の湯河原が近いんだけど、銭湯も1つしかないしね。大黒湯って言う……」

「あ、ここ来る前、通ったね」

「そうそう。あそこだったら、偶に行ってた」

「そうなんだ」


 レアの腕が、一瞬、俺の腕に触れる。それだけで彼女はビクンと震えた。彼女はそのまま、俺の指に指を搦めて、お湯の中で手を繋ぐ。


「……ふぅー……お風呂……きもちいーね……。リラックス……する……」


 彼女が足を伸ばす。お湯の下で、彼女の肌色の部分がチラチラと覗く。俺は必死に視線を逸らす。


「……こっとん、全然リラックス出来てないでしょ」

「な、なんで」

「だって……その……そこ」


 レアが、視線を僅かに下に逸らした。そこには、まあ、そういうことですわ。


「あ、あんま見ないで」

「くす。自分はジロジロ見たくせに」

「なんだとぉー。じゃあ俺ももっとジロジロ見るぞ。今結構我慢してんだから」

「…………」


 彼女はぎゅっと、俺の手を握った。


「…………」

「え?」

「…………」

「見て……いいの?」

「…………」

「レア?」

「……嫌だったら……来てないって、分かれ。…………おばか」

「……」

「でも……あんまり……からかわないでね。私、溶けちゃうから」

「からかった事なんてないだろ!?」

「あるわ! さっきだって、世界一綺麗とか言って!」

「それはただの本心」

「そういうのをやめてって言ってますのっ!」


 レアがかぷっと俺の肩を甘噛みした。そんな事されても気持ちいいだけなんだけど、俺は大げさに痛がって見せる。それでレアは、楽しげに笑った。


「こっとんのばーか」

「はあ。乙女心ってむず」

「そうよ、難しいの。……あなたに褒められるの、嬉しくて。嬉しくて。……変になっちゃいそうだから、手加減してほしいの」

「じゃあ言うのやめるね」

「それは絶対ダメ。世界一可愛いって沢山言って。綺麗って言って。好きって言って。愛してるって言って。その度に私、うるさいなあって怒るから」

「……ほんとにむずい。乙女心」


 レアが、幸せそうにはにかんだ。その銀細工のように複雑な少女の事を、心の底から、愛おしく感じた。


「本当に綺麗だよ、レア。……ずっと見ていたくなる。……はあ、カウスに帰ったらまた当分見られなくなるのか。いっそこっちに引っ越す?」

「くすくす。結婚するまで、我慢ですわ? 今回は旅行だから、少しはハメを外して良いけど。でもリュミエール家の人間として、恥ずかしくない事をしないとね」

「……おっぱい触って良い?」

「ばかばかばかばか」


 ぽこぽこと頭を叩かれた。だってお湯にたゆんと浮かんでいるものを見たら、そりゃあ、どんな感触なんかなって思うじゃん。俺、悪くないよね、絶対。


「節度を守ってね。ってお話した次の瞬間に、不埒な交渉をしないのっ」

「だ、だってぇ……」

「……そんな可愛い声だしてもだめっ」

 レアは身持ちの固い美少女なのだった。

「まあ……でも……」

 彼女は俺の手を、ぎゅっと握って。


「……お体の流しっこぐらいは……する? その……日本の伝統と、聞いたので……」


 祖国の文化に、俺は心の底から感謝した。


   ■


 その夜のご飯は本当に美味しくて、ほっぺたが落ちてしまうかと思いました。


「これ美味しい……! 何のお魚?」

「多分、キンメダイかな?」

「こっちの料理は何?」

「……土瓶蒸し……って言ってたか?」

「どびんむしってなに」

「教えてあげたいトコだけど、実は俺もさっぱり」


 よくよく考えればそうなのです。だってこっとんもこんなお宿に来たこと無いはずだし。ただとっても美味しくて、心の底から大満足! ……の筈、だったのだけれど。


(うぅ……本当ならもっと、味わって食べられたのにぃ!)


 私は自分の背後にある、和室に敷かれたそれが気になって、ご飯に100%は集中出来ないで居たのでした。それというのはつまり――


(おふとん……1組、だけなんだ……って言う……)


 いつの間にかお部屋に入っていた女将が用意してくれた、綺麗な真っ白のお布団。和室の中央にぽつんと置かれ、どうしても意識せざるを得ないのでした。


「はぁー……ごちそうさま。凄く美味しかったです。な、レア」

「…………」

「……レア?」

「はひっ、あっ、えっ⁉️」


 気がつけば、食器を下げに部屋に来た女将さんと、こっとんがおしゃべりをしていたのでした。私はそれに気がつくと懸命に取り繕って、食事がどんなに美味しかったかを説明する。女将さんは嬉しそうに笑いながら、部屋を出ていきます。


「レア。大丈夫? どうかした?」

「ぁ……いやー……ちょっと、疲れちゃったみたい?」


 嘘です。ただ背後のお布団が気になるだけです。だってこれから私達、同じお布団で寝るということでしょう? こっとんが我慢出来なくて、襲ってきたらどうしよう。或いは熟睡する私にいたずらしてきたら? されたら、私……。


(ちゃんと、だめって、いえるかな)


 我ながら、全然自信が無いのでした。だってさっき、お風呂でいちゃいちゃしてるとき、ずっと頭がぽわぽわに溶けていた。幸せで。それにきっと……興奮もしていて。


(あんな感じでぽわぽわしてる時に、のしかかられたら、きっと)


 その幸せを、私の方から求めてしまう。彼に笑ってほしくて。幸せでいてほしくて。……ううん、それって言い訳。きっと……私が、幸せになりたくて。


(だ、ダメよ、レア・クール・ドゥ・リュミエール! 淑女として清く振る舞わないと!)


 必死に理性で言い聞かせているのに、本能の部分がじゅくじゅくとして、止まらない。


「そっか。じゃあレア、おいで」

「へ? あっ……きゃっ……!」


 彼がやすやすと、私をお姫様だっこで担ぐ。こっとんは意外と、力が強い。こうして抱きしめられると、大きいな、とも思う。そのせいで、胸がきゅんとしてしまう。


「こ、こっとん……!? なにを……っ」

「下ろすよ」


 彼が私を下ろしたのは――真っ白のおふとんの上でした。


「……っ」

 思わず、身を捩らせる。だけどそしたら、浴衣がほどけそうで、動けない。彼が私の体に触れようとする。『だめ』と言わなきゃだめなのに、私、言わなかった。


「…………んっ……」

「うわ。やっぱり、足、パンパンになってる」

「…………へ?」

「リラックスして。そのまま横になってたら良いからね」


 彼は私を横にして、優しく、優しく、でも時にちょっとだけ力強く、足をマッサージしてくれた。だって……さっき、するって約束したんだもの。


「ぁ……こういう……」

「え? なに?」

「い、いえっ。なんでもありませんわっ」


 言えるわけない。えっちしちゃのかもって身構えてただなんて。しかも、なすがままにされかけていたなんて。……こんな屈辱、淑女として恥でしかないんだもの!


「どう? 痛くない?」

「……うん……きもちい……」

「よかった」


 彼の手つきは丁寧で。まるで宝物に触れるみたいで。私の気持ちを一生懸命考えながら、優しく、優しく触れる、マッサージ。


(……私って、さいてーだわ……っ)


 彼はこんなにも私のことを大切に思ってくれているのに。少し触られるだけで、彼にとって私がどれだけ大事か、分かりやすすぎるほどに分かってしまうのに。こっちだけ、不埒なことばっかり考えて。


「うぅ……私って、はしたない女なのかも……」

「どうしたの急に」

「……あなたにお布団に運ばれて、その……エッチなことされるかもって思っちゃったの」

「そりゃ仕方がないんじゃない? 俺も出来るなら普通にやってるし」


 そうなんだ。普通にしてるんだ。そ、そりゃそうか。だって私達、付き合っているんだものね。そして彼は、私のこと、大好きだもの。したいよね、えっち。


「つまりこっとんは……私のために、我慢してるの?」

「そうだよ? 必死にね。だってレアにとって大切なことだろ?」

「……うん」


 可愛いなあ。可愛い。本当に可愛い。食べちゃいたいぐらい可愛い。でも我慢しなきゃ。


「……大好き。こっとん」

「……うん。俺もだよ」


 彼は優しく笑って、私のふくらはぎを揉みほぐしてくれる。こんなにも誰かに愛されるということは、まるで奇跡のようだと感じた。


「それに、俺の方がずっとはしたないよ。さっきから、なんとかレアのパンツが見えないかなあって思ってるし。浴衣って危うくて非常に良い」

「……さ、さっきお風呂で、沢山見たでしょ。……裸」

「それとこれとは、別腹と言いますか……」


 男の子って、やっぱり、女の子よりもずっとエッチなのかも。

 私は急に恥ずかしくなって、彼の頭を、軽く蹴る。


   ■


「電気、消すね」


 俺が呟いてスイッチを押すと、彼女がもぞもぞと布団を開いた。


「はやく、きて? ……寒いもの」


 一瞬、暖房の温度を上げるべきか考えて、すぐに、そういう意味ではないと気がつく。


「ごめんごめん」


 布団の中は、既に彼女の体温で暖かくなっていた。俺が布団の中に入ってすぐに、彼女の足先が俺の足先におずおずと触れた。


「こっとん。……もっとこっち、来ていいよ?」

「本当? 狭くない?」

「……うん」


 でもこれ以上近づいたら、彼女が布団からはみ出てしまう。俺は横寝の体勢で、レアの腰の辺りに腕を置くと、彼女を抱き寄せた。彼女はちょっとだけ驚きながらも、抵抗することは全く無かった。


「ぅわ……レアの匂いが……すごい」

「……うそだわ? お風呂でさっぱりした後だもの」

「……今日のレアは、いつもよりとろとろしてるね、声が」

「…………」


 彼女は、恥ずかしそうに外方を向いた。可愛い。


「……だって」


 彼女の顔が、俺の胸板の辺りにくっつく。くぐもった声で彼女が続ける。


「だって……こっとんの匂いでいっぱいだから……ずっとドキドキするんだもの……」

「嘘だよ。俺、風呂に入ったばっかりだし」

「……ふふ。……ね。……そうだよね」


 ふにゃふにゃした表情の彼女の顔が近づいて、俺の首筋に唇を寄せると、僅かに這わせながら、耳の下に優しくキスをする。


「こんなに暗い所で、2人きりで、くっついてるの。初めてだもの」

「前にルーマニアの異界に閉じ込められた時も、このぐらい暗かったけど」

「あの時は、奈々ちゃんも居たし。死ぬかもしれなかったから、こんな風に……」


 彼女が俺の鼻の先っぽに、優しくキスをする。

「……ちゅーとかも……できなかったし」

「そのキス好き。可愛い」

「そ? じゃあもっと、してあげますわ……」


 ちゅ、ちゅ、ちゅっと、彼女の唇が、俺の鼻に触れる。なんだか幸せすぎて、笑ってしまうと、彼女は少しだけ舌を出して、ぺろぺろと俺の顔を舐め始める。


「はは。ね、くすぐったい……っ」

「えー? そ? 好きかと思って。……ちゅっ……ぺろ……ぺろ……」

「そりゃ好きだけどぉ! オラ。次はこっちの番だ」


 俺も彼女の顔にキスしながら、時折、舐める。少し恥ずかしくて、舌先で触れるぐらいしか出来ないけれど。次第に互いの唇が近づいて、ただ、無言で、お互いの唇を食み続ける。


「……ぷは」


 長い、長いキスをして、彼女の頬は、紅潮していた。目がとろんとして、幸せそうな笑みを浮かべている。きっと俺達、今、同じ気持ちなんだろう。それが、嬉しい。


「こっとん。……だめよ?」

「なにが?」

「……えっちなお顔、してるから」

「…………分かってますよ?」

「とか言って、お腰をなでなでしてるんですけど?」


 だってレアの腰って本当に細くて、触る度に驚いてしまうんだ。その美しい体に、もっと触っていたいと思うのはとても自然なことだと思う。


「触られるの、嫌?」

「……だからぁ……そういう言い方……ずるいですわ……」

「なんで?」

「……いじわるっ」


 何度繰り返したかわからないやり取りを、これからも何度も続けるのだろう。その度に、その愛らしさに笑みを漏らしてしまうのだろう。


「レア、愛してるよ。本当に。だから、先に言い訳をしておくけど」

「……この……私に当たってるやつのこと、でしょ?」

「……これは本当に、生理現象というやつでして」


 腰を引いて、彼女に当たらないように位置をずらそうとする――のだけれど、俺が引いた分、彼女がぐっと近づいて、彼女の太ももが、俺の足の間に挟まれる。


「……っ」

「だーめ。にげないの」

「に、逃げてるとかでは」

「……全然、いやとかは、ないよ?」

「……そう?」

「うん。むしろ。すっごく嬉しい。あなたって、わかりにくい人だから」

「そうかなあ。かなり素直な方だと思うけど」

「そうね。素直なフリをしてるけどね。でもそれはダンスが上手な人みたいに、上手くステップを踏んでいるだけだわ。相手が警戒しないように、嫌な思いをしないように……」

「…………」

「あなたのそういう所、本当に、愛おしいと思うの。けれどね?」


 彼女が全身を俺にくっつけて、ぎゅっと抱きしめた。


「……もっと……弱い所……見せてほしいなって……いつも思うのよ?」

「……見せて……ない?」

「もっと見たいの。あなたの全部、知りたいの。それだけ」


 リラックスなんて出来なかった。だって俺はそういう経験も無いし、くっついているのは世界一愛しい女の子だ。生物学的に、無反応で居ろっていうのが無理なぐらいだ。だけど。


「……ありがと……レア……」


 俺は懸命に力を抜いて、ただ、彼女の体を抱きしめて、彼女の匂いを嗅いで、彼女の息遣いだけを感じようとした。全く、なんて愛おしい人なんだろう?


「じゃあ、素直に言うけど。初日から、真鶴に来たのって。それが理由?」

「あら、気がついていましたの?」

「そりゃあね……だって普通なら、金沢に一泊ぐらいするだろ?」


 初日から俺の故郷を訪れたいと言ったのは、レアだった。俺はそれが、微妙に引っかかってはいたんだ。


「だってさ……こっとん……。ここに来るの、少し、怖がってたでしょ?」

「……!」

「だから。1番初めに来たの。そしたら明日から、なんの気兼ねもなしに遊べるかなって」

「そんな風に……思ってたんだ?」

「うん。だって、1回は来なきゃ、心の整理。つかないものね」


 ああ、全く、本当に人の心ってヤツは複雑だ。俺は自分の本心にも、レアの考えにも気が付かなった。カウスの作ってくれた『減視の眼鏡』はこういう時不便だと思う。


「教えて、こっとん。……故郷に帰って、どうだった? 気持ち」

「……ああ……それは……。肩の荷は降りた。俺にとって、故郷に帰るのは、メキシコに居た頃、ずっと願っていた夢だったからね。だけど、それ以上に、思ったのは……」


 そして俺自身、1番驚いたことは。

「……ここを帰る場所だと、全く思わなかったんだ」

「え?」

「俺の帰るべき場所は、カウス・インスティトゥートなんだ。レアが居て、大好きな人達が居て。ドラゴンが空を飛んでいる、あの街こそが……今の俺の……故郷なんだ……」

「…………」

「この街は、かつて子供時代の俺が過ごした街だ。自分が落っことした沢山の後悔だとか、願望の欠片が、転がっているんだ。昔、家族と行った大黒湯だとか。昔、友達になりたかったけど、なれなかった奴だとか。大切な人と別れた駅だとか。昔は喉から手が出るほど欲しかった、ガチャガチャのおもちゃだとか。そういう物が、転がってる」

「うん」

「それを今日、一つ一つ見て。かつて手に入れられなかったものと、今、この腕の中に居てくれる人を見て。……俺は。心の底から、今日まで生きてきて良かったと、思えたよ」

「そっか……♡」


 そのために俺は、故郷を訪れたのかもしれない。心の中で膿んでいた傷と決別するために。この街の片隅で、今でも子供時代の俺が膝を抱えて泣いている気がするんだ。そいつに、今の俺を見せてやりたかったのかもしれない。


「愛してるよ、レア……愛してる……」

「……ン。大丈夫よ、こっとん……もっとぎゅってして、いいよ……」


 細い彼女の体を、強く、強く抱きしめる。彼女は優しく、俺の頭を撫でてくれる。


「あなたと付き合ってもう半年なのに……毎日、毎日……昨日より、好きになるわ……」

「……ね。分かるよ」

「50年後も、同じこと思ってるかしら。おばあちゃんになりながら、あなたのこと、昨日より好きになっているのかしら」

「50年後は、もっと落ち着いていてほしいなあ……。毎日こんなレアのことばっか考えてたんじゃ、きっと体が持たないよ」


 レアが笑って、目を閉じると、俺の胸に、頬ずりした。


「……結婚して……赤ちゃん作って……子育てして……おじいちゃんと……おばあちゃんになって……それでも、こうやって、また旅行に来ましょうね……」

「……うん」

「毎晩、毎晩、愛してるって言いながら、お腰をもぞもぞさせててね」

「お前どんだけ俺を焦らすつもりだ」

「あははは」


 俺は確信出来たんだ。この人と生涯を共にすること。この人と共に生きて、共に死ぬこと。きっと彼女が死んでしまったら、俺は悲しくて、生きていく事が出来なくなってしまうだろう。だけど、それでもいいや、と思った。この人が居ない世界なんて、要らなかった。


「愛してますわ、こっとん。わたしの大親友で……たった一人の、旦那様……」


 彼女の為に生きて、彼女の為に死ぬんだろう。


 それだけが、俺のたった1つの夢になった、夜だった。

刊行シリーズ

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