異能アピールしないほうがカワイイ彼女たち
四章 人魚の涙と呼ばないで ⑨
敵があまりに強大だから、というのは言い訳に過ぎない。それ以上に僕はちっぽけな人間だった。家族の説得に応じる形で、一か月も経たずに再び学校へ通うようになったし、かつての友人たちとも(表面上は)仲良くしていたと思う。日常を簡単に取り戻した。
何も、変わっていなかったから。朔先輩が消えても平然と回り続ける世界を見て、噛み付きたい衝動に駆られたのは一瞬。すぐさま大きな過ちを犯していた自分に気付かされる。
――僕がわかっているだけじゃ、駄目だったんだ。
できれば、気付きたくなかった。みんなにわかってもらうなんて、そんなの不可能だから。
叶わない夢は呪いのように人を苦しませる。抱えた者は一生、幸せにはなれない。
それでも何かせずにはいられなかった僕は、ただひたすら、ミューデントやその伝承に関する文献を漁って過ごすようになった。憑りつかれたように知識だけを増やしていく日々。自己満足にすぎないのはわかっていたけど。僕だって彼女がいなかったら、サキュバスについて知ろうともしなかったし。興味すら持たなかったはずだから。
そうして、また次の冬がやってきた頃。
僕は居心地の悪かった北白糸学園を抜け出すために、近場の武蔵台学院を受験する意思を両親に伝えた。案の定、母親からは猛反発を受けて、その際に彼女が放った一言(遠回しに朔先輩を非難するものだ)により大喧嘩が勃発。親子仲は冷え切ったというか、少なくとも僕の中では現在も不和が続いている。
幸い父親の方は息子の意思を尊重してくれたので、僕はわざわざ反対を向いている人間を説得するまでもなく、希望通りの進路に進ませてもらえた。まあ、実はこのとき母親から反対された理由が、内部進学の権利を蹴ることにではなく、進学先の武蔵台学院にこそ潜んでいたという真実を、僕は知らなかったわけだが。
「二年のサキュバス先輩、見た?」「すっげえ美人だよな」「俺、サインもらっちゃったー」
入学式の日、男子のそんな会話が耳に入った瞬間、心臓が止まりそうになった。
僕はそれから記念写真も撮らず、胸章の花も付けっぱなしのままで、一年以上も会っていない彼女の姿を追い求めて、学校中を捜し回った。
ずっと言えずにいたから、そのチャンスを与えられたと思った。
ただ一言「ごめん」と謝るだけ、それで終わりにしよう。もう関わろうなんて考えない。
教室棟を一通り回っても見つからず、特別棟を順番に回るけどやっぱり見つからなくて。
最後の最後にたどり着いたのは三階、最奥に位置する文芸部の部室。走り回って息の上がった僕が、諦め半分に扉を開けたら、そこにいたのは――
自分のいびきがうるさくて目を覚ます現象は、おっさんあるあるらしいけど。
「うう………………臭い…………苦しい…………頭痛い…………ぷはぁっ!?」
僕は自分の寝言とうめき声があまりにうるさすぎて飛び起きた。
テーブルに突っ伏して居眠りこいたのだから自業自得、枕代わりにしていた腕はピリピリ痺れているし、頸椎から尾骨にかけてバキバキに凝り固まっている。眠っていたとは思えないほどの倦怠感を体は訴えてくる。
それだけでも十分な寝覚めの悪さだったが、『プスー、プスー……』と、下手なボイパの練習みたいな音がスヌーズも挟まずに鳴り続け、健康を害しそうな異臭までもが鼻を衝いてくるこんな状況を、最悪の目覚めと呼ばずになんと呼ぶのか。
「あら、グッモーニン、翼くん」
聞こえた声は異常にくぐもっている。原因は振り返った彼女の姿を見れば一目瞭然。
部室の窓際に座っている朔先輩は、透明なゴーグルに防毒用の小型マスクを装着、制服の上にはツナギを着用、手袋も忘れず。完全防備の理由は手にしている金属製の器具――ボールペンのように見えるそれは、塗料を噴射するエアブラシ。
彼女の眼前、段ボールを切り抜いて自作した塗装ブースの中には、細かなプラモのパーツが専用のクリップに挟まれ、台に刺さりいくつも立ち並ぶ光景は壮観――
「何やってんだ、あんた!?」
「何ってそりゃ、これクリアパーツだからまずは透け防止のグレーサフを塗って……」
プスー、プスー。僕の悲痛な叫びを無視して朔先輩はエアブラシを吹かせる。
「おい、やめろ、塗るな! 僕の健康をこれ以上、害するな!」
「大げさねー。窓開けてちゃんと卓上換気扇も回してるじゃない」
「自分はガスマスクみたいなの着けてるくせして!?」
「私は目の前で作業してるからね。あなたとは距離があるでしょ」
「シンナー臭いんだよ、この距離でも!」
「えぇ~、そんなわけないわよ。風向きもしっかり調整して………………あっ」
カチッ――その瞬間、何かのスイッチが押され、ブゥゥゥンという駆動音。
「ごめんなさい。ファン、起動してなかったみたい」
「道理でなぁ!」
良い子のみんなは絶対に真似しないでほしい。
「いやー、よくあるヒヤリハット案件よね、これ。ゴーグルにマスクだと臭いも風も自分じゃ感じなくなっちゃうから、結果的に第三者を巻き込んでしまいがち……」
「人のいるところでやる意味ないだろそもそも!」
「仕方ないじゃない。急にシャドーフォックスを金ぴかに染め上げたくなったんだから」
「金に塗ったらシャドー要素なくなるだろ! ただの狐にする気かっ!」
どうでもいい部分にツッコミを入れる僕は、酸欠と喉の痛みにぜえぜえ喘いているのだが、朔先輩は愉快そうに肩を揺らす。口元は見えないが笑っているのは確か。
「この感じ、何年ぶりかしらね」
「はぁ?」
「翼くん、中学のときまでは私に敬語、使ってなかったでしょう?」
「…………そうでしたっけ?」
「そうよお。もう慣れたけど最初はちょっぴりショックだったの」
「最低限の敬意です。他意はありません」
なんだか無性に、夢の続きを見せられているような気分。
窓の外はすっかり暗くなっていた。長い、とても長い夢を見ていた気がする。
いいところで終わってしまったような、あそこで終わってくれて良かったような。浅い眠りの方が夢は見やすいと言うけど、それ以上の原因たりうる人物が目の前におり。
「もしかして、ですけど…………寝ている間、僕にちょっかい出したりしました?」
「さあ? 可愛い寝顔だったから、ほっぺを一回くらいつねったかも」
「そういうことか……」
脳科学の分野でも未だに『夢』のメカニズムは解明されていない部分の方が多い。
だから、サキュバスは触れた相手に、その人物が望むような夢を見させる――なんて、ただの都市伝説だと思っていた。あながち眉唾物ではないのかもしれない。
後頭部をガリガリしている僕の健康を慮ったのか、エアブラシを手放した朔先輩はマスクとゴーグルを外して作業着も脱ぐ。晴れて通常形態(?)に戻った彼女は、乱れた髪を整えてから今度こそ口元に笑みを浮かべる。
「なぁに、膝枕でもして慰めてあげれば良かった?」
「誰がいつそんな注文を……慰められるほど落ち込んだ覚えも、ないですし」
「そう? 人魚の女の子に散々なじられてたみたいだけど」
「あれはなじられたんじゃなくて、僕の自爆…………え?」
会話が成立していることにワンテンポ遅れて違和感。
「その件を、どうしてあなたが?」
誰かに聞いたというより、まるで一部始終を見てきたような口振り。講釈師なんたらの法則だったら嬉しいのだが、朔先輩は呆れたようにため息をつく。
「どうしても何も、あんな風に思いつめた顔であなたは部室を出ていって、真音さんまであとを追うようにいなくなって、面白そうな予感がヒシヒシ……もとい部長の私としては何かあったら困るから、こっそり尾行するに決まっているじゃない」