エルフの渡辺

第二章 渡辺風花はそわそわしている ④

「何がよし! なの! も〜……恥ずかしいなぁ……あ!」


 しやべりながらこの量を食べているのに、わたなべふうのボディからあの重低音が再び響いてきた。

 腹の音だ。

 わたなべふうは顔を真っ赤にしておなかを押さえるが、その姿を見るゆくの表情は真剣だった。


「でも、今みたいな『無理』をしないで、その姿、維持できるの?」

「え? あ……!」


 眩暈めまいかと思った視界のブレは眩暈めまいではなかった。

 一度は額と指の接触で『わたなべふう』の姿に戻ったその輪郭が、データが破損した動画のようにブレて欠けてゆがみ始めたのだ。

 そして積み上げたドミノブロックが崩れるようにわたなべふうの姿がえ、薄いガラスが割れるような音とともに、再びそこにはエルフのわたなべが姿を現した。


「あぅ……あの、これは、ね」


 一瞬で魔法が解けてしまったことにエルフのわたなべは大きく動揺しているようだ。

 金髪のエルフは顔を真っ赤にして、長い髪をかき集めて顔を隠そうとする。


「ど、どうして解けちゃったんだろ。魔力同調のためにいっぱい食べたはずなのに、あの、ごめんねおおくん、元の姿に戻れば写真も撮り続けてもらえるかなって、それで……」


 言葉が少しずつ尻すぼみになり、エルフのわたなべは重箱の向こうで小さくなってしまう。

 その姿を見て、ゆくはまた昨日とは違う罪悪感に襲われた。

 重箱の向こうからは髪と長い耳の端しか見えない。

 顔が見えないから、分かることがある。


わたなべさん」


 ゆくは顔を赤くして隠れるエルフの名を呼んだ。


「……なぁに。おお、くん」


 消え入りそうな返事が、それでも返ってくる。


「俺の中学の音楽の先生がさ、コーラス部の顧問で人間の喉、声帯に詳しかったんだよ」


 唐突に変わった話題に、エルフのわたなべが戸惑うが、構わずゆくは話し続けた。


「だからなんかやたら歌のテストとかやりたがってさ。俺、歌が苦手なのと、その頃声変わりが始まって声がなんか変になって、人前で声出すの嫌な時期だったんだ」

「そうなんだ」


 話の着地点がどこにあるのか分からないエルフのわたなべは、あいづちだけ。


「実際音楽で習ったことなんかほとんど覚えてないんだけどさ、一個だけ、すごく印象に残ってる雑学みたいな知識があってさ。いやまぁ、あれもきっと音楽的に重要なんだろうけど」


 そう言うと、ゆくは自分の喉に手を当てる。


「歌を歌うとき、高音は鍛えると伸びるけど、低音の限界は決まってるんだって」

「どういうこと?」

「精密に限界まで声帯を絞れれば、高音は理論上鍛え方次第でいくらでも伸びる。でも、低音は持って生まれた声帯以上に低くはならないんだって。だからさ」


 ゆくは少し身を乗り出した。


「俺、わたなべさんの声だけは、聴き間違えない自信があるんだ」

「ふぇっ!?」


 机の向こうでうずくまっていたエルフのわたなべは、しゃがんだ状態でゆくを見上げて目を見開く。


「さっき言ったでしょ。わたなべさんの声の解像度だけは、高い自信があるって」

「う、あ、うん」

「まださ、わたなべさんの言う『魔法』っていうのが何なのかよく分からないし、何でわたなべさんがエルフなのかも分からないけど、声のおかげで、見た目が変わっても、わたなべさんがわたなべさんだってことだけは、ぎりぎり受け入れられてるんだ」

おお、くん……」

「で、さ。多分だけど、わたなべさん、さすがに普段からこんなに食べる人じゃなかったでしょ」


 これは確認するまでもないことだが、フードファイターでもなければ一人で三段重箱なんて量を食べるはずがない。


「この量、どうやって用意したの?」

「それは普通に、早起きして自分で作ったの。から揚げは前の晩から仕込んでね」


 普通に手料理だという事実に思わず心がときめいてしまった。

 だがそれこそ魔法とやらでなんとかならなかったものなのだろうかとも思う。

 エルフの外見から受ける印象を裏切るちぐはぐさに、ゆくほほんでしまう。


「まぁとにかく、魔法なんてものが本当にあるとして、昨日の花壇と教室とそれとここでも、わたなべさんの魔法はその見た目をすもので形を変えてるわけじゃない。だって顔付きが変われば、骨格も変わる。骨格が変われば筋肉や声帯だって変わるでしょ」

「う、うん」

「でも、声は変わってない。ていうことは」


 ゆくは重箱を避けながら更に身を乗り出して手を差し出した。


「今俺に見えているわたなべさんの顔が、本物のわたなべさんの顔なんでしょ」

「…………はい」


 エルフのわたなべは差し出された手を、反射的に握り返す。

 正面から握手をする形になった二人。ゆくは軽くその手を引くと、しゃがみ込んでいたエルフのわたなべは引き上げられるように立ち上がり、やがて元居た椅子に腰を下ろした。

 そこでゆくは手を離すと、両手の親指と人差し指で長方形をつくり、撮影する画角のアタリをつける仕草をしながらエルフのわたなべの顔を指のフレームに収める。


「エルフが本当にいるのかとか、地球上にいるのかとか、魔法なんて本当にあるのかとか、あるならあるで正体隠して生活してるのはなんでかとか、今すぐ知りたいことは確かにいくつもあるけど、今見えてるのがわたなべさんの本当の姿なら、また、その、好きになりたい」

「おお……き、くん……」

「え。えっ?」


 ゆくは思わず慌てて腰を浮かす。

 なら、エルフのわたなべが、驚いたような表情のまま、静かに涙を流し始めたからだ。


「ご、ごめん、俺、俺なんか良くないこと言った!?」

「あ、う、ううん、違うの。ごめんね。おかしいな。でもね、すごく、うれしくて」

「え。え!?」

「だ、だって、自分でもおかしいと思うもの。それに、エルフとまではいかなくても、友達が本当の姿を隠してるなんて、普通は不誠実でしょう。だから……多分、おおくんにも、嫌われちゃったんだろうなって思……ってでぇ」


 急にぽろぽろと涙をこぼして顔を覆うエルフ女子を紳士的に落ち着かせるスキルなど、高二のカメラ小僧には搭載されていなかった。

 おまけに『本当の姿を隠してる友達』はそこまで普通の存在ではないので、どう反応していいのか分からずあたふたしてしまう。


「ぐすっ……ぐすっ」


 わたなべふうゆくの前で泣いたことなど、これまで一度として無い。

 それでも感情を抑えきれないこの声がわたなべふうの声であることだけは、決して変わらなかった。


「ごめんね。もう、お昼休み、終わっちゃうね……ズビー」


 しばらくして目じりを赤くしながらも泣きやんだエルフのわたなべは、はなをかんで、それらをすような笑顔を浮かべる。


「全然、大事なお話できなくて、ごめんなさい」

「いや、俺は……」


 確かにこれからどのようにわたなべふうをモデルに写真を撮るか否か、ということについては全く話が進まなかった。

 だが、コンテストの締め切りまでにはまだ時間があるし、今日が無理なら放課後の部活にでも話す時間はあるだろう。

 そう思ったことを告げると、エルフのわたなべは少し申し訳なさそうに眉根を寄せた。


「ごめんなさい。今日の部活は、ちょっとダメかもで」

「本当に何かいつもと違うことやるの? いや、もちろん無理にとは言わないけど」

「うん、実は今年、一人だけだけど、園芸部に一年生が入ってくれたの。今日はその子が初めて部活に来る日で、撮影しながらだと、色々教えにくいから……」

「え! 新入部員!」


 これにはゆくも純粋な驚きと、それと祝意が心から湧いた。

 高校の部活動は、結局のところ一世代でも人が入ってこないとあっという間に廃部の危機に陥る。

 部に昇格したての園芸部はともかく、ゆくの写真部など、去年の三年生にいくつかコンテスト入選の実績がなければ、ゆくの一人部活になったところで即時廃部同好会に降格となってもおかしくないのだ。

 現実にゆくの一人部活になった時点で部費は大幅に減らされており、今年中に部員が五人になるか大きな実績を示さなければ部費の出ない同好会へ降格するのも時間の問題だ。