エルフの渡辺

第四章 渡辺風花は教えてくれる ④

 その瞬間、日頃あまり思い出すことのなかった父の言葉が部室の闇の中からよみがえってきた。

 まるでうたた寝から目覚めたときのようにびくりと身を震わせた。

 そうだ。

 エルフのわたなべの『親』には、娘の正体を隠して世を忍ばせる理由があるはずだ。

 親が子に世を忍ばせる真剣な理由とは。


「全く想像もできないし、ここで考えても仕方がないか」


 何も知らないのだ。

 いずに言われるまでもなく、ゆくはエルフのわたなべのことを何も知らない。

 彼女が普通の人間ではなく空想上の存在だったはずのエルフという種族の姿こそが正体であり、ゆくいず以外の人間の目を魔法でして普通の日本人高校生、わたなべふうとして暮らしている。

 知っていることは、本当にこれだけ。

 エルフとは何か、魔法とは何かとかそんな超常的なことどころか、どこに住んでいるのか、家族が何人いるのかすら知らない。

 園芸が好きで、学校の成績は文武ともに大きく目立つことはない。

 ごく一部男子にカルト的な人気を誇っているという知りたくない事実は今日知った。

 一年のときには挨拶すらできない日も普通にあった。

 それが、今や世界でもたきいずしか知らない事実を知り、そのことを話してもらう確約まで得た。


「これから毎日、きちんと知って行かないとな」


 とりあえず、今日撮った写真は帰りにいつもの大手カメラ店にフィルムを現像に出しておこうと決めたゆくは帰ろうとして机の上に手をつき、


「あ」


 うっすら積っていたほこりが手についたことに気づく。


「まぁ、たきさんが写真部に入るって目はなくなったけど」


 放課後、てつに部室の掃除をすると言ったことを思い出したので、帰ろうとした足を止めて掃除用具が仕舞われているロッカーへと向かう。

 その中に入っているのは長い柄のほうき数本と、乾ききった古い雑巾が何枚かとへこんだバケツ。

 昨年は、先輩達とこれらを使って毎日必ず簡単な掃除をしたものだ。


「一人を言い訳にしちゃだめだよな」


 全部に手は回らないが、それでも机と床のほこりくらいは掃除しようとまずはほうきを手に取った。


「何だよ、一人かよ」


 そのとき、意外な声がしてゆくは部室の入り口を見た。


てつ? どうしたんだよ」

「どうしたって、あー、えっと」


 部活上がりらしいやまてつがドアに寄りかかっていて、げんな顔でゆく以外誰もいない部室の中を見回していた。


「まああれだ。お前が心配で見に来たって感じかな」

「ええ? 何だよそれ」

「女子慣れしてないお前が、一年の超絶美少女を部員に勧誘できるのかと思ってよ」


 そう言えば、エルフのわたなべがムーンバックスに現れたのは、てついずのことを聞いたからだということを思い出した。


「それが何でわたなべさんに話しに行くってことになるんだよ」

「ああなんだ。知ってるのかその辺のこと。てことはあれか」


 てつはにやりと笑いながらゆくに近づいてくると、ゆくの手のほうきを奪ってやおら床を掃き始めた。


「勧誘失敗か?」

「その通りだけど、何でうれしそうなんだよ」

「そりゃお前、ゆくが年下美少女と二人部活なんてことにならなくて良かったって心から思ってるからだよ」

「マジで心からの言葉だな。顔見れば分かる」

「まあなー」


 運動部は流石さすがに狭い部室など一瞬で掃き清めてしまう。

 ゆくがぐずぐずしている間にロッカーからバケツを拾い上げ、すぐに廊下の水道から水をんで戻ってきたてつは、乾ききった雑巾を二枚取ると一枚ゆくに投げた。


「でも結果的に正解だったと思うぜ? あの子、園芸部にも仮入部してたんだろ? 一人部活同士、新入部員を奪い合いなんてしたら、撮りたいもんも撮れなくなるんじゃねえの?」


 てつに『撮りたいもの』のことを詳しく話した記憶はないが、てつてつなりに、ゆくわたなべふうとの人間関係をおもんぱかってくれたのだろうか。


「ありがとな」

「何がだよ」

「掃除手伝ってくれたことだよ」


 てつが手伝ってくれたおかげで簡単な掃除は十分もかからず終わり、ゆくは日が落ち切る前には学校を出ることができた。


「あー腹減った。ゆく、メシ食いにいかね?」

「悪いな。ここんとこ写真現像しまくってて金カツカツなの」

「現像かぁ。フィルムカメラにこだわってんだっけ? デジカメならプリンター使えるのに、それじゃだめなのか?」

「別にダメじゃないけど、俺のペースでやってたらプリンターでもそんなに安くは上がらないんだよ。コンテスト応募用となると、紙もいいもの使わなきゃだしさ」


 ゆくはそう言ってから、肩をすくめた。


「あとはまぁ、今日は俺が晩飯当番だからさ」

「ああ、そうか。じゃあ悪いけど俺はここで。食わないともう倒れそう」

「運動部の腹ってすげぇよな。それで家帰ってまたメシ食うんだろ?」

「お互い様だよ。こっちにしてみりゃ物食う金削ってまで打ち込めるものがあるの、普通にすげぇって思うもん。じゃあな」


 学校からの帰り道。かみいたばし駅に続く商店街にある牛丼屋の前で、ゆくてつと別れる。

 時間が時間だけに確かに牛丼屋の誘惑は魅力的だったが、今日中に現像することを考えると寄り道していたらいつものカメラ店が閉まってしまう。

 何とか今日の閉店ぎわに現像が完了するタイミングでフィルムを出すと、ゆくは現像までの間にそのままスーパーマーケットに足を向けた。


「牛乳がもうすぐなくなるのと、卵も買わなきゃで、あと明日の朝飯どうしようかな。夜の内に米多めに炊くかパンにするか」


 同じ通りの商店街にあるスーパーマーケットを、スマホに記録したメモと冷蔵庫の中の様子を思い出しながら、更に先の予定と財布の都合を考え悩みながら食材をカゴに放り込む。

 そうしているうちに、ちょうど現像が出来る時間になって、カメラ店から写真とネガを受け取り、少し重くなった足取りとともに十五分かけて帰宅した。


「ただいまー」


 川越街道を常盤台ときわだい方向に歩いた先の住宅街にある自宅のドアを開ける。

 ゆくの声に答える声はなく、家の中には一切照明はともっていない。

 スマホを何となく見ると、母から、


『多分九時前には帰れるわ』


 とだけ連絡が入っていた。


「じゃ、ゆるゆるやるか」


 親の帰宅はいつも通り遅いということが分かったので、特にあせって夕食を準備することもなさそうだ。

 スーパーの買い物をキッチンと冷蔵庫に片付けてから、一旦自室に戻って荷物整理と写真の出来を確認することにする。

 カメラの入っているかばんを丁寧に床に置くと、カメラを取り出して勉強机の所定の場所に置き、現像された写真を取り出す。


「結構良く撮れてるな。たきさんが気に入るかどうかはともかく」


 そこには夕刻の光に虹色に反射する汗を流しながら、くわをしっかり構え真剣な瞳で土を見るジャージ姿のいずの姿が写っていた。

 コンテスト的な意識で見ると、撮影時間と場所のせいで光量が足りていないのが評価に影響しそうだが、単純に人一人の魅力を伝えるならば十分な出来だ。


「でも……たきさんには悪いけど、光りはしなかったんだよな」


 机の上のカメラのケースを見やってゆくは何度目かも分からない疑問に首をかしげた。