「渡辺さん、このお茶って……」
「私のお気に入りなの。小さい頃からずっと飲んでるんだ」
「そうなんだ。その、もしかしてこれって渡辺さんのルーツに……」
「私の、ルーツ? 何が?」
その姿に思わず見とれつつも問う行人の耳に、突如冷静で硬質な泉美の声が突き刺さる。
「これ、マテ茶っていう中南米のお茶。クィアとボンビーリャはスペイン語で、アルゼンチンでマテ茶を飲むとき使われてる食器」
「紛らわしいっ!!」
泉美の声が脳内で意味を持った瞬間、行人は耐え切れずに突っ込んだ。
「えぇっ!?」
「そう思ったから早めに言った」
エルフの渡辺は心外そうな声を上げるが、完全にサラマンダーやミスリルソードと同じ流れだった。
そしてここに来て初めて泉美がエルフの渡辺に冷ややかな目線を送る。
「風花ちゃんさ、マテ茶まではいいとして、クィアとボンビーリャは完全に誤解させに行ってるから、次の機会があったらやめた方がいいと思うよ。特にこのボンビーリャ、ちょっといい奴でしょ。細工が綺麗だからちょっとファンタジー風味強すぎ」
「で、でもマテ茶は飲むサラダって呼ばれるくらい栄養価の高いお茶なんだよ?」
「そういう話してるんじゃないんだって。っていうかそろそろもうセンパイの方もツッコミ入れられるくらいはリラックスしてきたんだから、身の上話、するべきじゃないの?」
エルフの渡辺のピントのずれた抗議を一撃で沈めた泉美は、行人の方に顎をしゃくった。
「センパイはエルフが何なのか、風花ちゃんの正体が何なのか、知りたいんでしょ」
「う、うん。そうだね」
行人もこの時ばかりは、泉美がいてくれてよかったと心から思った。
エルフの渡辺は厳しい顔つきでクィアをちゃぶ台に置くと、一つ覚悟を決めるように大きく息を吐いた。
「大木くん。『エルフ』って言葉は、どこから来たか知ってる?」
「言葉がどこから来たか? 語源の話?」
「そう。日本語だとカタカナで『エルフ』って言うけど、遡ると八世紀頃にイギリスやアイルランド、デンマークやスカンジナビア半島周辺で話されていた古ノルド語のアールヴっていう北欧神話に登場する概念から来ていて、そこから色んな国の言葉に変化していったの」
「そ、そうなんだ」
行人は、エルフやドワーフ、ゴブリンやドラゴンなど、当世の日本で共有されるファンタジー上の存在を表す単語の語源など、これまで考えたこともなかった。
漠然とヨーロッパのどこかなんだろうなーくらいにしか思っていなかったが、それが時代と地域を具体的に絞られたというただそれだけで、急激に概念の解像度が上がった気がした。
「ってことは……まさかだけど、エルフは実在するってこと? その、長い耳と、普通の人間とは比べ物にならないくらい綺麗な髪や外見を持ってて、魔法が使える人類がいるの!?」
「綺麗って……もう、大木くんったら……」
「あーもーやってらんない」
行人としては信じがたい知見について確認したかっただけだのだが、エルフの渡辺は面映ゆそうにしていて、泉美はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「落ち着いて、大木くん。その、評価はありがたいんだけど、そういうことではないの。正確には八世紀頃に初めて、後にエルフと呼ばれるようになる私達の御先祖様が、地球にやってくるようになったの」
「地球にやってくるようになった?」
ファンタジーかと思ったら、急にSFが始まったので、行人はまた困惑する。
「ん? え? まさか、宇宙人……異星人的なこと?」
「異星……かどうかは、実は分からない。でもこの場合は地球って言うしかないの。だって地球には『地球』以外に『自分達の世界』を示す固有名詞が無いでしょう?」
エルフの渡辺は行人の疑問の表情を掌で押しとどめると立ち上がる。
「大木くん達が呼ぶ私の種族『エルフ』。私達自身の言葉で『サン・アルフ』は、今から千二百年前、世界を渡る力を手に入れた」
部屋の押し入れの襖を背にし、エルフの渡辺は言った。
「私は、異世界からこの日本に来たの」
「異世界って……」
「泉美ちゃんに、今は異世界って単語が一番分かりやすいだろうって言われたの。ナチェ・リヴィラ。それが私の生まれた世界の名前。エルフは世界を渡ってこの地球にやってくる」
行人も、異世界の概念くらいは理解している。
ここではないどこか。時に死後に転生したり、時に時空を渡ったり、時に召喚されたり。
地球の、日本の常識がある意味で通じ、ある意味で通じない場所。
どこまで行っても空想上の場所。
「いきなりこんなこと言われても、混乱するだけだよね。空想と現実の区別がついてない痛い子、みたいな」
「い、いや、そんなことは。でも、まぁさすがに……」
エルフと魔法は、確かに行人自身の目で見て体験もしている。
だが逆に言えば、行人が知覚しているのはエルフの渡辺の外見と、その外見が自分と泉美以外には見えていないこと、この二点だけだ。
このたった二つの事象のみを根拠にするだけでは、それ以外の全てのファンタジー的事象を肯定することはできない。
「だからね、今日は大木くんを、私の故郷にご招待しようと思います」
「へ?」
「大木くんにとっての異世界、ナチェ・リヴィラで、続きを話したいんだけど、大丈夫?」
未だかつて、ここまで何が大丈夫なのか分からない大丈夫の問いかけがあっただろうか。
異世界ナチェ・リヴィラ。何の判断材料にもならない初耳の固有名詞を突然ぶち込まれて、行人の思考は停止してしまう。
その様子を不安に思ったのか、エルフの渡辺は途端に早口になった。
「あ、あのね、いきなりで不安かもしれないけど、歩いてすぐだしお金もかからないし手ぶらで行けるし、行ってみて気に入らなかったらすぐ戻れるから!」
「駅近スポーツジムの体験入会じゃないんだから?」
行人が若干怖気づいていることに気づいたのか、エルフの渡辺は少し早口でそう言うと、やおら押し入れの襖に手をかけガラリと引き開けたのだ。
「ほら見て! 何も危ないことはないし、それに、ここから行けるから!」
なんの変哲もない和室の、何の変哲もない押し入れの襖。
今、それが微かな光を纏いながら、本来あるべき薄暗い収納スペースではなく、木と草と土と花と太陽の光に満ちた、どことも知れぬ広大な空間を内包しているのだ。
「二人が履けるサンダルもここにあるから」
そう言うと、今度は無造作に反対側の襖を開ける。
そこには行人も予想できる布団やカラーボックスなどが置いてあり、その隙間からサンダルを三足取り出した。
「どうかな!?」
学習机の引き出しに時空の扉とか、駅の柱に魔法世界への入り口とか、宇宙の特定のポイントを繫ぐワームホールとか、そういう話は行人が生まれる前からいくらでもある。
だが、エルフが和室の押し入れの襖に、歩いてすぐでお金もかからず手ぶらで行けて気に入らなければすぐに帰れる異世界へのゲートを繫げているという話は流石に聞いたことがなかった。
「どうして押し入れに繫げたの!?」
エルフの渡辺はそのツッコミを流し、底の厚めのつっかけサンダルを行人と泉美の分を丁寧に並べると、境界の向こう側にそっと置き、まるで窓からベランダに出るように、その境界を越える。
「とにかく! ……大木くん。来て」
エルフの渡辺があまりに自然に境界を越えたその仕草が、これまでの全てのツッコミを引っ込めた。
境界を越えて差し出される手を思わず取った行人は、エルフの渡辺の細腕に引かれ、まるで窓からベランダに出るように、その世界へと足を踏み出した。
その瞬間、耳に聞こえる音、鼻に感じる匂い、肌に触れる風と気温、目に映る七色の光までが明確に変わり、行人の上に広大な空が、目の前に広大な草原が広がった。
「ようこそ、ナチェ・リヴィラへ」
そう言って頰を染めたエルフの渡辺が手を離した瞬間、急激に自分がこれまでと異なる大地に立っているという実感がわき、
「すげぇ……」
ファインダーを通さずとも目に映る全てが輝いて見える稀有な瞬間に身が震え、思わず声が漏れる。
そんな行人の姿に微笑んだエルフの渡辺が、優しく言葉を紡いだ。
「私達、ナチェ・リヴィラのエルフ、『サン・アルフ』は祖先の罪を清算する責務を負っているの。かつてナチェ・リヴィラを混沌に陥れた『魔王』はサン・アルフの者で、討伐される寸前で地球のどこかに逃げた。以後二百年、サン・アルフはこのアストティラン浮遊監獄島から出ることは許されず、異世界に逃げた魔王を討伐するために姿を隠して地球のあちこちに姿を隠して溶け込み、魔王を探し討伐しなければならない。それが私達の罪で、贖罪。私もそんなサン・アルフの一人で、一族の秘密が私の秘密なの。それじゃ帰ろうか」
「いや帰れるか!!」
感動の言葉に続いて行人の口から飛び出したのは、人生最大級の突っ込みだった。