エルフの渡辺

第五章 渡辺風花は日本人の苗字に詳しい ④

 今のはいずの方がエルフのわたなべの発言をよこしまな方向に浮き彫りにした犯人のような気もするが、知り合って以来一番の本気の殺意を向けられるとゆくも従うほかない。

 全くもつて理不尽だ。


「そ、それじゃあ、失礼します」


 ゆくいずの一瞬の攻防をよそに、エルフのわたなべは小さくカメラに一礼すると、ファインダーに自分の顔を近づける。

 その様子を見て、普段自分が目や顔を貼り付け、暑い日などは鼻の汗がうつってしまうカメラの背面にエルフのわたなべが顔を近づけているという事態に、どこか倒錯した感情を覚えざるを得なかった。

 こんなことなら渡す前にアルコール除菌ティッシュか何かでわずかでも自分の痕跡を除去してから手渡すべきだった。

 だが時すでに遅く、エルフのわたなべはファインダーをのぞきこんでしまった。

 姿勢の良い美貌のエルフは、顔の大半がカメラで隠れてもこんなに美しいものなのか。


「あ、あの、絶対に太陽だけは見ないように……」


 そんな通り一遍の注意をすると、エルフのわたなべは小さくうなずいずは二人を交互ににらむ。

 空、草原、雲、そして遠くに見える森林の方向に順にレンズを向けた後、エルフのわたなべは何気ない様子でいずを見、そしてその次にゆくを見たその時だった。


「えっ……ああっ!」


 薄いガラスの玉が割れたような澄みきった破裂音とともにエルフのわたなべが悲鳴を上げ、たたらを踏むように後ずさった。


ふうちゃん!」

わたなべさん!?」


 そして全身の力が抜けたようにその場に膝を突き、


「カメラ……落としちゃ……」


 ゆくのカメラをかばうように抱きしめたのを最後に草原に倒れ、意識を失ったのだ。


「ふ、ふうちゃん! 一体どうしたの!?」

わたなべさん!」


 ゆくいずが慌てて駆け寄るが、カメラが地面に落ちないように腕を組んで抱えてはいるもののその腕に力はなく、いずが動かそうとすると全く抵抗なくほどけてしまう。


「何! 一体何があったのよふうちゃん! ふうちゃん!?」


 呼ぶ声に全く反応のないエルフのわたなべの姿にいずの顔色は真っ青になる。


「何なのよこのカメラ!」


 色々な怒りをないまぜにした叫びとともに、いずはカメラのストラップをつまみ上げると、ほとんど投げるようにしてゆくに渡す。

 そして自分の耳をエルフのわたなべの顔に近づけると、かすかにあんいきを漏らした。


「良かった息はしてる……。ふうちゃん。ふうちゃん大丈夫? 起きられる?」


 だがいずの呼びかけには全く反応がない。


「ヤバイ、どうしよう……センパイ! 一体何なのそのカメラ!」

「い、いや分からないよ! 俺が使ってるときはこんなこと一度も……!」

「センパイの方にカメラ向けた途端にこうなったよね! 私見てたよ!」

「いや、そんなこと言われても、俺は何もしてないし一体何が起こったのか……」


 ゆくも、エルフのわたなべが自分にレンズを向けた瞬間にこうなったという認識はある。

 だがゆくには何の違和感も発生していないため、訳が分からないとした言いようがない。


「うるさいわね! そんなことよりそのカメラ、本当に何かおかしいんじゃないの!? そのファインダー、一体何がどうなってるのよ!」

「そ、そう言われても……」


 ゆくも訳が分からないが、何もしないわけにもいかずとりあえずいずに責め立てられながら恐る恐るファインダーをのぞいた。

 だが、そこには何の異常も無かった。空と草原、そしてエルフのわたなべいず

 今のところゆくの感覚で言うところの『輝き』はないが、少なくともいつも通りだ。


「何で……わたなべさんに一体何が……」

「もしこのままふうちゃんが起きなかったら、本当大変なことになるよ!」

「起きないってそんな大げさな……! だ、だって息してるんだろ?」


 今にもふうちゃんのかたきと叫びながら腰だめのドスでも繰り出してきそうないずに恐れをなしつつも、呼吸自体は落ち着き顔色も悪いわけではないエルフのわたなべを見やる。


「そういう話じゃないよ! 後ろ見て!」


 だがいずあきれと怒りをないまぜにしながら吐き捨てた。


「後ろ?」


 言われて振り向いたゆくの目に飛び込んできたのは、これまでと変わらない空と草原と、少し遠くに森らしきものが見える光景。

 こののどかな風景の何が『浮遊監獄』なのかは実感がわかないが、とりあえず何か差し迫った危機があるようには見えな……。


「あっ!」


 そこまでのんに考えてから、ゆくは唐突に気づいた。

 本来この地にあるべき風景以外、何もない。

 ゆくいずにとって、そこにあるべきものがない。

 せている。


「押し入れの境界が……ない」


 エルフのわたなべの自室につながっているはずの、日本と異世界ナチェ・リヴィラを接続している境界のふすまがどこにもないのだ。

 魔法や異世界のことが分からないゆくでも、その理由にエルフのわたなべの気絶が深く関わっていることは容易に想像できる。

 ゆくが思わず左腕の腕時計を見ると既に午後五時を回ろうとしていた。


「あの……こっちと向こうって」

「厳密には知らないけど、時間の進み方は変わらない。その時計で一時間進んだら日本も一時間進む。だからあせってんの」

「お、起きる様子は……」

「全くない。いびきかいてないから脳とかそういうことじゃないと思うけど、だからって変に強く揺すって悪い影響が出たら困るし、とりあえず顔たたいてみたけど反応なし」


 いびきと脳がどういう関係にあるのかゆくは知らないが、女子同士で躊躇ためらいなく体に触れられることそ差し引いてもいずゆくよりかなり冷静に見える。


「みゃ、脈とか……」

「私だってあせってんの。自分でもドキドキしてるから正確に測れないし、ふうちゃんの脈拍がどれくらいで正常かなんて知らんし」


 確かにエルフと人間の脈拍が同じとは限らないが、学校の健康診断などは普通に通っているのだから、そこは大丈夫なような気もする。


「そもそも人間の正常な脈拍だって知らないもん。センパイだって私だって今平常心じゃないし、スマホの電波もないから検索することだってできないでしょ」


 なるほど、境界が閉じればその向こうからかすかに飛んできていた電波もなくなるという理屈だ。


「じゃ、じゃあもうこのまましばらくわたなべさんが起きるのを待つしかないってこと?」

「そうできたらいいんだけどね」


 いずは顔をしかめて立ち上がる。


「こっちももうすぐ夜になるし」

「えっ」


 見ると、そちらが東なのか西なのか、あるいは北なのか南なのかも分からないが、とにかく空の一方向が明らかに夕焼けの光を放ち始めているのだ。

 学校の制服を着ているので今まで意識していなかったが、こちらの気温は日本とほとんど変わらないため、日中はよくても夜はぐんと気温が下がる可能性もある。