今のは泉美の方がエルフの渡辺の発言を邪な方向に浮き彫りにした犯人のような気もするが、知り合って以来一番の本気の殺意を向けられると行人も従うほかない。
全く以て理不尽だ。
「そ、それじゃあ、失礼します」
行人と泉美の一瞬の攻防をよそに、エルフの渡辺は小さくカメラに一礼すると、ファインダーに自分の顔を近づける。
その様子を見て、普段自分が目や顔を貼り付け、暑い日などは鼻の汗がうつってしまうカメラの背面にエルフの渡辺が顔を近づけているという事態に、どこか倒錯した感情を覚えざるを得なかった。
こんなことなら渡す前にアルコール除菌ティッシュか何かでわずかでも自分の痕跡を除去してから手渡すべきだった。
だが時すでに遅く、エルフの渡辺はファインダーを覗きこんでしまった。
姿勢の良い美貌のエルフは、顔の大半がカメラで隠れてもこんなに美しいものなのか。
「あ、あの、絶対に太陽だけは見ないように……」
そんな通り一遍の注意をすると、エルフの渡辺は小さく頷き泉美は二人を交互に睨む。
空、草原、雲、そして遠くに見える森林の方向に順にレンズを向けた後、エルフの渡辺は何気ない様子で泉美を見、そしてその次に行人を見たその時だった。
「えっ……ああっ!」
薄いガラスの玉が割れたような澄みきった破裂音とともにエルフの渡辺が悲鳴を上げ、たたらを踏むように後ずさった。
「風花ちゃん!」
「渡辺さん!?」
そして全身の力が抜けたようにその場に膝を突き、
「カメラ……落としちゃ……」
行人のカメラを庇うように抱きしめたのを最後に草原に倒れ、意識を失ったのだ。
「ふ、風花ちゃん! 一体どうしたの!?」
「渡辺さん!」
行人と泉美が慌てて駆け寄るが、カメラが地面に落ちないように腕を組んで抱えてはいるもののその腕に力はなく、泉美が動かそうとすると全く抵抗なくほどけてしまう。
「何! 一体何があったのよ風花ちゃん! 風花ちゃん!?」
呼ぶ声に全く反応のないエルフの渡辺の姿に泉美の顔色は真っ青になる。
「何なのよこのカメラ!」
色々な怒りをないまぜにした叫びとともに、泉美はカメラのストラップを摘み上げると、ほとんど投げるようにして行人に渡す。
そして自分の耳をエルフの渡辺の顔に近づけると、微かに安堵の溜め息を漏らした。
「良かった息はしてる……。風花ちゃん。風花ちゃん大丈夫? 起きられる?」
だが泉美の呼びかけには全く反応がない。
「ヤバイ、どうしよう……センパイ! 一体何なのそのカメラ!」
「い、いや分からないよ! 俺が使ってるときはこんなこと一度も……!」
「センパイの方にカメラ向けた途端にこうなったよね! 私見てたよ!」
「いや、そんなこと言われても、俺は何もしてないし一体何が起こったのか……」
行人も、エルフの渡辺が自分にレンズを向けた瞬間にこうなったという認識はある。
だが行人には何の違和感も発生していないため、訳が分からないとした言いようがない。
「うるさいわね! そんなことよりそのカメラ、本当に何かおかしいんじゃないの!? そのファインダー、一体何がどうなってるのよ!」
「そ、そう言われても……」
行人も訳が分からないが、何もしないわけにもいかずとりあえず泉美に責め立てられながら恐る恐るファインダーを覗いた。
だが、そこには何の異常も無かった。空と草原、そしてエルフの渡辺と泉美。
今のところ行人の感覚で言うところの『輝き』はないが、少なくともいつも通りだ。
「何で……渡辺さんに一体何が……」
「もしこのまま風花ちゃんが起きなかったら、本当大変なことになるよ!」
「起きないってそんな大げさな……! だ、だって息してるんだろ?」
今にも風花ちゃんの仇と叫びながら腰だめのドスでも繰り出してきそうな泉美に恐れをなしつつも、呼吸自体は落ち着き顔色も悪いわけではないエルフの渡辺を見やる。
「そういう話じゃないよ! 後ろ見て!」
だが泉美は呆れと怒りをないまぜにしながら吐き捨てた。
「後ろ?」
言われて振り向いた行人の目に飛び込んできたのは、これまでと変わらない空と草原と、少し遠くに森らしきものが見える光景。
こののどかな風景の何が『浮遊監獄』なのかは実感がわかないが、とりあえず何か差し迫った危機があるようには見えな……。
「あっ!」
そこまで吞気に考えてから、行人は唐突に気づいた。
本来この地にあるべき風景以外、何もない。
行人と泉美にとって、そこにあるべきものがない。
消え失せている。
「押し入れの境界が……ない」
エルフの渡辺の自室に繫がっているはずの、日本と異世界ナチェ・リヴィラを接続している境界の襖がどこにもないのだ。
魔法や異世界のことが分からない行人でも、その理由にエルフの渡辺の気絶が深く関わっていることは容易に想像できる。
行人が思わず左腕の腕時計を見ると既に午後五時を回ろうとしていた。
「あの……こっちと向こうって」
「厳密には知らないけど、時間の進み方は変わらない。その時計で一時間進んだら日本も一時間進む。だから焦ってんの」
「お、起きる様子は……」
「全くない。いびきかいてないから脳とかそういうことじゃないと思うけど、だからって変に強く揺すって悪い影響が出たら困るし、とりあえず顔叩いてみたけど反応なし」
いびきと脳がどういう関係にあるのか行人は知らないが、女子同士で躊躇いなく体に触れられることそ差し引いても泉美は行人よりかなり冷静に見える。
「みゃ、脈とか……」
「私だって焦ってんの。自分でもドキドキしてるから正確に測れないし、風花ちゃんの脈拍がどれくらいで正常かなんて知らんし」
確かにエルフと人間の脈拍が同じとは限らないが、学校の健康診断などは普通に通っているのだから、そこは大丈夫なような気もする。
「そもそも人間の正常な脈拍だって知らないもん。センパイだって私だって今平常心じゃないし、スマホの電波もないから検索することだってできないでしょ」
なるほど、境界が閉じればその向こうから微かに飛んできていた電波もなくなるという理屈だ。
「じゃ、じゃあもうこのまましばらく渡辺さんが起きるのを待つしかないってこと?」
「そうできたらいいんだけどね」
泉美は顔を顰めて立ち上がる。
「こっちももうすぐ夜になるし」
「えっ」
見ると、そちらが東なのか西なのか、或いは北なのか南なのかも分からないが、とにかく空の一方向が明らかに夕焼けの光を放ち始めているのだ。
学校の制服を着ているので今まで意識していなかったが、こちらの気温は日本とほとんど変わらないため、日中はよくても夜はぐんと気温が下がる可能性もある。