「お邪魔します」
「どうぞ、上がって」
ナチェ・リヴィラに行った日から三日後。
行人は自宅にエルフの渡辺を招いていた。
学校帰りに制服姿の同級生の女子が自宅にいるという事態にすこぶる緊張している行人だったが、今日はそれ以上に緊張する事態がこの後待ち受けている。
「ここ、親父の書斎。入ってみる?」
「ううん。まずは大木くんの部屋がいいな」
「分かった。……行っておくけど、別に変なものとかないからね」
「ええ? なあに、変なものって。何かあっても気にしないよ。それに私、親戚以外の男の子の部屋に上がるの初めてだし大丈夫だよ」
妙な予防線を張ってしまったせいで変な会話になってしまった。
何が変なものなのか、何が大丈夫なのか知らないが、突き詰めても何ら発展しない話題なので行人は乱暴に捨て置き、自室にエルフの渡辺を案内した。
「お邪魔します」
二度目のお邪魔しますでエルフの渡辺を自室に入れた行人の緊張度合が跳ね上がる。
行人自身、エルフの渡辺の部屋でやったことだが、人は初めて入った部屋を色々きょろきょろと見るものらしい。
「ここが大木くんの部屋……」
「べ、別に普通の部屋だけどね」
「ううん。そんなことないよ。何となく、大木くんの匂いがする気がする」
「えっ」
エルフの渡辺が来ることになったその日に徹底的に大掃除をしてベッドの布団や毛布も干し、咽るくらい消臭剤をバラまきまくったのだが、まだ何か匂ったのだろうか。
今更取り返しのつかないことに焦らされる行人だが、エルフの渡辺は気づく様子もなく、
「ここ、座っていい?」
明らかに用意されているクッションを指さす。
「ど、どうぞ。その、今お茶とかお菓子持ってくるから待ってて」
「お構いなく」
エルフの渡辺と同じ部屋にいるのも緊張するが、彼女一人を部屋に残すのもそれはそれで緊張する。
エルフの渡辺に限って勝手にあちこち探ることなどないだろうが、先日泉美が語っていた『定石』がつい頭をよぎってしまう。
ボンビーリャやクィアとは比べるべくもない普通のマグカップにティーバッグの紅茶。そしてスーパーで買ったクッキーとポテトチップス。
行人が考え得る限界のそれらをトレーに載せて部屋に戻ると、エルフの渡辺は相変わらず部屋を見回しながらクッションに座って待っていた。
「どうぞ。普通の紅茶だけど」
「ありがとう。いただきます」
エルフの渡辺は一口飲んで、ぱっと華やかな笑顔になった。
「わあ、これアッサム?」
「う、うん。母さんが、割と紅茶好きで。ティーバッグだけど」
「そうなんだ。うちでもよく飲むよ。マテ茶に限らず、お母さんが日本に来たときには色んなお茶を買うの」
「そうなんだ。……それでさ、早速写真のことなんだけど」
エルフの渡辺がやってきたのは、当然だがイーレフの里で撮った渡辺母娘の現像した写真を渡すためだ。
エルフの渡辺が今日こうして普通に学校に行き、帰り、外を歩いて大木家に来たことからも分かる通り、二人分の魔力を吸収したカメラの撮影は、渡辺母娘の身にかけられた姿隠しの魔法を破ることはなかった。
迷いの道が破られたときのように何かが砕ける音はしたのだが、撮影した時点では行人の目から見た渡辺涼香の姿は変わらず、もちろんエルフの渡辺の姿が変わることもなかった。
そして撮影の結果は写真の中に収められている。
現像もいつもの店には頼まず、卒業した先輩に相談しながら写真部の暗室で一人で現像作業を行ったのだ。
そのため行人は撮影の結果がどうなったのか既に知っている。
「そうだ、写真と言えば!」
だが現像された写真を取り出そうとした行人を制して、エルフの渡辺は手を打った。
「ちょっと大木くんにきちんと確認しておきたいことがあって」
「え? 何?」
「うん。大したことじゃないんだけどね」
エルフの渡辺らしくもなく妙に笑顔に圧がこもっているのは、恐らく気のせいではないだろう。
それを証明するかのように、エルフの渡辺の声は普段の彼女らしくない迫力があり、小柄な体をぐっと近づけてくる。
「泉美ちゃんが写真部と兼部したいって言ってきたんだけど、本当? 大木くんは、そのこと承知してるの?」
「あ、ああ、そのこと?」
ナチェ・リヴィラから帰った翌日。
行人は泉美からエルフの渡辺抜きで呼び出しを受け、写真部の部室で泉美が帰った後の出来事を聴取されたのだ。
「風花ちゃんが……自分のエルフの姿が見えてないって、それ……何それ?」
渡辺母娘の写真を撮ったあと、穏便に帰宅したことまでを告げると、泉美は強いショックを受けたようだった。
「そういう魔法だって話だけど、小滝さんは知らなかったの?」
「知ってたらこんなショック受けてないよ! そんな、私……だって」
「渡辺さんからは、昨日のことは?」
「家の鍵を返したときにちょっとだけ。いつも通りおばさんとちょっと喧嘩して、センパイのカメラは返却されたってことくらいしか」
「あれっていつも通りなんだ」
槍で脅され、魔法の武装で吹き飛ばされそうになったのだが、あの規模の喧嘩が日常茶飯事なのだろうか。
「母親と娘のやりとりなんて大体あんなもんじゃない? 私もしょっちゅうお母さんとあれくらいの言い合いするし」
「マジか」
「センパイはお父さんとはそういうやりとり、無かったの?」
「俺?」
父親のことに言及されるとは思わず驚くと、泉美は決まり悪そうにしながらも目をそらさずに言った。
「思い出を聞くことくらい、悪いことではないでしょ?」
「ん……。まぁ、そうだなぁ。基本俺には甘い親だったからなあ。よく母さんとそのことで喧嘩してた気がする」
「ふーん。まぁ昭和型の父親の方が今時珍しいか」
「それもあるんだけどさ、父さんは自然や動物を撮るプロの写真家だったから、家にいるときは平日休日関わらずずっといたけど、いないときは撮影のために何ヶ月もいないのが当たり前の人だったからさ、その時間を埋めようとして、何だかんだ俺に甘かったのかも。最低限のしつけ的なことで怒られたことはあるけど、喧嘩した記憶は一つもないよ」
「へー。良い思い出の方が多いんだね」
「まぁ、そうかな。それでも、生きていてほしかった」
「それは…………ごめん、今のはちょっと突っ込みすぎだった」
「いいよ別に。同情してほしいわけじゃないし、さすがにもう父親を寂しがって泣くような年齢じゃないから」
「……それで、写真は撮れたの? 風花ちゃんとおばさんの」
「撮ったは撮ったけど、ご存知の通りフィルムカメラだし、さすがに店に出すのは不安だから、写真部の暗室でこれから現像するつもり」
「そっか。自前で現像できるんだもんね。そっか」
泉美は少し迷う様子を見てから、上目遣いに行人を見て、姿勢を正した。
「あのさセンパイ。もし、きちんと風花ちゃんとおばさんのエルフの姿を写真に撮れてたら、お願いしたいことがあるの」
「何だよ。改まって」
「全然大したことじゃない。写真部部長なら楽勝なこと」
泉美は大きく息を吸って、吐いた。