エルフの渡辺2

第一章 渡辺風花は誰もが認めるほどかわいい ④

 それでも可愛いと行人が言ったのは、今彼の目に映っている自分だろうか。

 それとも、写真に写った自分だろうか。


「……バカみたい。今さらこんなことで」


 実際にこんな疑問を行人にぶつければ、きっと彼を困らせてしまうだろう。

 行人に対して抱いてしまったあらゆるネガティブな想いを振り切るように首を横に振った風花は弱りそうになっていた歩調を強めて帰り道を急ぎ始めたが、そのとき握りしめたスマホに電話の着信が入った。


「あれ? お母さん? 今日こっちにいるの?」


 着信画面に表示されているのは母、涼香だった。

 風花の母、渡辺涼香は異世界ナチェ・リヴィラの全エルフが収容されている浮遊監獄島の中、東の大樹海を統べるイーレフの里の行政官を務めているため、日本側の家で寝泊まりするのは向こうでの休日に限られており、少なくとも今日帰って来る予定はなかったはずだ。


「もしもし、どうしたのお母さん。今日こっちだって思ってなかったから夕ご飯の準備何にもできてな……え? ど、どうしたの?」


 電話越しの母の声は、不安の感情に彩られ暗く沈んでいた。


「私? もう学校出てるからもう五分もしないで帰れるけど……うん、分かった。じゃあ待ってて」


 先ほどまで鈍っていた歩調が、ほとんど走っているような早足になる。

 母、涼香は心身ともに鍛えられたイーレフの里随一の戦士で、風花が物心ついてからというもの、母がこれほどまでに不安そうな様子を見せたことはなかったように思う。

 最終的には走って帰宅した風花がリビングで見たのは、それこそ記憶にないほど不安に沈んだ母がそわそわしながらダイニングテーブルでお茶を飲んでいる姿だった。


「ただいま……お母さん、どうしたの? 大丈夫?」

「ああ、風花。お帰りなさい。今お茶淹れたの。あなたも飲む?」

「私はいいよ。それよりどうしたの? 何があったの?」


 涼香は電話で、顔を合わせて話さなければいけないことがあるから出来るだけ早く帰ってきてくれ、と言っていたが、これはよほどの事態だ。

 風花の脳裏に、あらゆる不穏な予感がよぎる。

 一番に考えられるのは親類縁者の事故や病気。或いはイーレフの里になにがしかの天災が発生したなどの、風花の手でどうにかできることではないがナチェ・リヴィラのエルフ、サン・アルフとして情報を共有しなければならない事態だ。


「もしかしてイーレフに何かあったの? それとも、一族の誰かに何か……」

「ああ、その、安心して。誰かの命に係わるような大きなトラブルじゃないから」


 涼香は風花を安心させたくて言っているのだろうが、口調の重さで全く安心できない。


「ただ、ちょっと面倒事が起きて、あなたにも迷惑がかかるかもしれないから、早めに伝えなきゃいけないと思って、午後半休取って待ってたの」


 ちょっと面倒事とは言うが、母がこれまでこのような理由で仕事を休んだことなど風花の記憶にある限り一度としてない。

 更に言えば日頃なにかと風花に強気に出てくる母が、話が始まってからこっち一度も風花と目を合わせない。

 まだ何も具体的な話は始まっていないのに風花の不安は最高潮に達した。


「前置きはいいよ。何があったの? ご飯食べながらできる話じゃないんでしょ?」

「それは、その……」


 これまたらしくもなく言い淀んでから、涼香は蚊の鳴くような声でそれを口にした。


「………………ちゃ……った、の」

「え? 何?」

「だ、だから、その……られ、ちゃったの!」

「何をもじもじしてるの!? 誰かに何かされたの!?」

「だからっ!」


 涼香は観念したように破裂するような大声で言った。


「見られちゃったの!」

「だから何を!」

「あの写真!」

「あの写真ってどの………………………………………………………………………………え」


 時が止まった。

 煮え切らない母が早口で言いきった衝撃の内容に、風花は一瞬思考が追い付かなかったからすぐには事の重大さを理解できなかった。

 だが、すぐに母の告白がこれまでの風花の人生では考えられないレベルでのっぴきならない事態だと本能が理解し、血の気が引き、冷や汗が流れ出し、足ががくがくと震え始める。


「お母さん。お母さんちょっと噓でしょ。あの写真って」

「……」

「しゃ、写真、写真って、まさかあの写真じゃないよね? 誰に? 誰の写真に何を見られたの!? はっきり言って!」


 娘の詰問に母は歯嚙みすると、ぽつりぽつりと語り始める。


「この前、大木君と小滝さんがイーレフに来たでしょ。そのとき、例のカメラでほら、迷い道の魔法が破られたでしょ。そのせいで行政府から監査隊が来たの。それで芋づる式に……」

「芋づる繫がってないよ! 大木くんがどうやって魔法を破ったかは、そりゃあ、そりゃああのカメラはちょっと怪しいけど、でも因果関係は証明されてなくて、調査中って話だったじゃない! 誰かがあのカメラのこと言わなければ話が繫がりようがないのに、どうして写真に繫がるの!」

「誰かが言ったのよ。里の警備隊の中の誰かが、最近新たに地球からやってきた人間が、妙なものを持ってたって!」

「え、あ!」


 風花ははっとなる。

 行人を初めてナチェ・リヴィラに招いたとき、不慮の事故で風花が意識を失ってしまい、行人と泉美が日本に帰ることができなくなってしまった。

 泉美がイーレフの里の涼香に助けを求めようとしたが、二人の行く手を阻んだのが招かれざるものを里に入れないための防御機構たる迷い道の魔法だ。

 結果的に行人のカメラのファインダーが道を映し出し顕現させたのだが、そのときイーレフの警備隊が瞬時に出動し、行人達を取り囲んだのだ。


「それで、浮遊監獄島を管理する人間側の管理官が監査隊を派遣してきて、それで……里としても、本当のことを話さざるを得なかったの」

「か、監査隊って、そこまでのことなの!?」


 浮遊監獄島は、ナチェ・リヴィラの人間が組織する魔王対策連合政府の管轄下にある。原則的にすべてのエルフは連合政府の定めた法に従う義務が課せられており、魔王討伐もその法に規程されたものである。

 だからこそ、監査隊はエルフの中に起こる如何なる叛乱の兆候も見逃さない。

 監査隊、とは通称であり、正式名称は『対魔王討伐特別総監査察隊』である。


「それで、あの日業務に当たってたイーレフの警備隊はみんな、ロッカーと手荷物を抜き打ち検査されてスマホも没収されて、私のスマホの中から問題のあるデータ、つまりあの写真を摘発されて、私は停職処分になったわ」

「監査隊の査察ってそんな中学校の持ち物検査みたいな感じなの? っていうか、お母さんあの写真スマホの待ち受けにしてたの?」

「送ってくれたのあなただし、あなたも待ち受けにしてるじゃない」

「そ、それはそうだけど……」

「ともかく! イーレフの監獄島残留組は対面での面談と素行調査と、最悪で停職の処分が決まってるんだけど、問題はあなたと大木くんよ」


 行人の名が出て、風花の表情が険しくなる。


「こっちにも、監査が来るの?」

「カメラを持ち込んだのがあなたとあなたのクラスメイトの男子であることはもう明らかなのよ。ただ、私も地球に駐留するメンバーに対する監査がどういう形になるか知らないの。というか、ここ二十年以上、イーレフ出身の地球駐留メンバーが監査された記録がないの。だから、もしかしたら単純にこっちの誰かがあなた達に指導しに行くかもしれないし……ただ、駐留組の環境は、国や地域によってそれぞれでしょう?」

「それは、まぁ」

「ただ、日本のエルフとベネズエラのエルフに対する監査が同じ内容だとは思えないのよね」