エルフの渡辺2
第三章 渡辺風花は決意を固める ②
風花の指だ。
心から恋をした女の子の人差し指。
「私が分かってるってことを、分かってくれる?」
「……」
声が出せない。口を動かせない。それは風花に対して、取り返しのつかない無礼を働く行いのような気がして。
「私、嬉しかったんだ……だから分かった上で」
その瞬間、指が離れた。
「勘違いしたままにさせてもらえますか?」
その瞬間まで、行人は自分が息を止めていたことに気づかなかった。
その瞬間が過ぎても、今起きたことが頭の中で整理しきれなかった。
今、結果的に自分は、エルフの渡辺風花の指に。
「ふ、ふ、ふ、風花ちゃああああああん!!」
行人の思考が結論に落ち着くよりも前に、二人に負けず劣らず顔を赤くした泉美が割って入ってきた。
「ひゃっ! い、泉美ちゃん! 冷たいよ!」
右手に構えたアルコール除菌液を風花の右手に吹きかけ、左手に構えたアルコール除菌ティッシュを片手だけで器用に取り出して、アルコール消毒液を吹きかけた右手をまるで刃物でも研ぐように磨き始めた。
「ちょ、ちょっと泉美ちゃん! ちょっと痛い……!」
「何てことしたの風花ちゃん! そんなことしたら、そんなことしたら! 瞳孔が開いて嘔吐と呼吸困難の症状が出て昏睡しちゃうよ! 私が!」
「大木くんはベニテングダケか何かなの?」
「私にとってはカエンタケより危険かつ憎むべき敵になったよ!」
所属する部活動の先輩で部長を毒キノコ呼ばわりするなど非常識甚だしいが、風花の行動に思考がマヒしてしまった行人は、自分がこんなことになっているのだから傍から見ていた泉美もそれほどに衝撃だったのだろうとスムーズに納得してしまったし、急に毒キノコトークが始まったことに違和感も抱けなかった。
「大体何でこんなことになってんのさ! そもそもはセンパイんちに空き巣が入ったって話だったでしょーが! なんか二人ともエルフ監査のせいだって決めつけてるけど、そうと決まったわけじゃないでしょ!?」
「いや、でもこのタイミングは……」
「だから! バイアスかかってるって言ってんの! 確かにいきなりセンパイんちが犯罪被害に遭うのは偶然が過ぎるけど、でもその偶然が絶対ないかって言えば、絶対ないとは言い切れないでしょ!」
言ってる間も泉美は風花の指を除菌シートで磨き続けている。
「風花ちゃんが責任感じちゃうのも分かるし、センパイが悪気あってこんな話したわけじゃないのも分かるよ! でも! とりあえず落ち着け! まだ私達の目の前には、風花ちゃん以外のナチェ・リヴィラ人はいない!」
「「!」」
「風花ちゃんのお母さんが、何するかもどんな奴が来るかも分からない監査隊が来るって言った。天海先輩や長谷川先輩がなんか怪しい。センパイんちが空き巣に入られた。でも、まだ私達は何もそれらしいものを直接見てないでしょ。違う?」
「う、うん。そうだね。あの、泉美ちゃんそろそろ指痛いんだけど……」
「風花ちゃん言ってたでしょ。監査が入るなら、少なくとも最初に自分のところに来るはずだって。私だってそう考えるよ。それがいきなりセンパイんちに泥棒に入るとか意味わかんなすぎるじゃん。それ監査じゃなくて、違法捜査でしょ」
「で、でもナチェ・リヴィラの法律と日本の法律は違うし、私が仲良くしてる男の子が持っているカメラがあの写真を撮ったことは知られてるんだから、それを先に押さえてるってことも……」
「SNSの頭悪い陰謀論みたいなテキトーなストーリー作らないで。今、それを断定する確かな証拠はどこにもない! そうでしょ!」
「う、うん」
「それに、センパイのお母さんはもちろん、天海先輩や長谷川先輩が何も関係ない人だったらどうすんの。私やセンパイと違って風花ちゃんの姿はナマでも写真でも日本人にしか見えてないんだよ。そんな人達に、私実は異世界のエルフなんですって言いに行くの? そんなことしたら」
泉美は牙を剝きながら行人を振り返り、言った。
「センパイの立場がどうなるか分からない?」
「あ……」
「センパイのお母さんからはあの子大丈夫って思われるし、天海先輩達も、写真部への依頼を考え直しちゃうかもしれない。そうなってでも安心したいってならそれでもいいけど、もし風花ちゃんが想像するような陰謀があったとしても、そうなったからってセンパイや私の安全が確保されるわけじゃないって分かるよね?」
泉美の理路整然とした物言いに、風花はしどろもどろになりながら、やがてゆっくりと腰を下ろしてしまった。
「……ごめんなさい。ちょっと冷静じゃなかった、かも」
「本当にね!」
「あと、泉美ちゃん、本当に指痛……」
「とにかく今日写真部の活動が休みなのは分かったから、センパイはさっさと天海先輩達んとこ行って。で、今日はもう学校では風花ちゃんに近づかないで! 私が呼吸困難になっちゃうから!」
まだ行人毒キノコ説は生きていたようだ。
「う、うん。分かった。なんかその、ごめんね渡辺さん。変な事言って」
「だ、大丈夫。天海先輩達によろしくね……」
「私が呼吸困難になっちゃうから早く行けって!」
この期に及んで顔を赤くしている風花と行人を見ていられなくなった泉美は、風花の指から手を離すとぐずぐずしている行人の背中を押して、園芸部の部室からたたき出した。
「もう! 本当に何考えてんだか…………ふ、風花ちゃん!?」
「ふぇ?」
「な、な、な、何、何してんの……!?」
「んっ。何してるのって、だって……」
風花は困惑顔をしながら、先程まで泉美が磨いていた人差し指を口に咥えようとしていたのだ。
「あんなごしごしされたらさすがに痛いよ。今絆創膏持ってないから、つい舐めちゃ……」
「舐めちゃ…………まだ、消毒しきれてないのに!」
「ええ? 消毒って何を……」
そのまま泉美は呼吸困難に陥ったように膝から崩れ落ち、その大袈裟な反応に怪訝な反応をした風花だったが、
「あっ」
つい先ほど、自分がその指で行人に何をしたか思い出し、
「はうっ!」
爆発するように顔を赤くして、両手で顔を覆い膝から床に崩れ落ちた。
風花は顔を覆ったまま声なき声で呻き、泉美は膝をついて天を仰ぎ白目を剝かんばかりにけいれんしている。
その惨状はあたかもベニテングダケを二人で丸吞みしたかのような惨状だった。
一方でたたき出された行人は、園芸部の部室で起こったことが頭の中で繰り返しリフレインしてしまい、真っ直ぐ歩くことができなかった。
自分を真っ直ぐ見つめるエルフの渡辺風花の瞳と、真っ直ぐ自分の唇を押さえたエルフの渡辺風花の指の感触が、まるで火傷のように熱を帯びて残っている。
きっと今、親しい誰かが自分の顔を見たら、瞳孔が収縮し見開かれた目をひどく不気味に思うのではないか。
だが、そんなことに思い至っても、全身の細胞が理性に従ってくれない。
「いや、いや、いや…………いや」
そして、三年生の教室のフロアに上がる階段の前で、行人もまた、ベニテングダケを吞み込んだかのように膝から崩れ落ち、危ういところで身を翻して階段に座り込んだ。
「な、何が……」
目を閉じても、目を開けて顔を伏せリノリウムの廊下と自分の上履きのつま先を見つめても、それでも感光してしまったフィルムのように、エルフの渡辺風花の顔が光のように瞳に焼き付いて離れない。
「私、嬉しかったんだ……だから分かった上で、勘違いするね」
あれは、どういう意味だったのだろう。
勘違いとは、何の勘違いなのか。必死にあの出来事の直前の文脈を思い出す。
「俺が……何か、うちの両親の間でしか通用してないことを言って、それで……」