エルフの渡辺2
第四章 渡辺風花は得意不得意の差が激しい ②
しばらく掌の前で緑の光の粒が美しく渦巻き、最後に風花が少し力を込めてパーの手に力を籠めると、風花の足下から小さく風が舞い、割れた窓全体に四角く硬質なラップが張られたような緑の輝きが閃き、そして消えた。
「気休め程度だけど、魔法の障壁を窓枠に張ったから、ここから何かが入って来るってことはもうないはずだよ……大木くん?」
風花が振り向くと、また行人が少し不自然に距離を取っていた。
「いや、突然の魔法だったから、ちょっと驚いちゃって」
驚いたと言う行人の顔は、またも少し赤らんでいた。
「あ。ごめんなさい。何よりもまず、大木くんの家の安全を確保しなきゃって思って」
「そ、そうなんだ」
「泉美ちゃんはああ言ってたけど、やっぱりナチェ・リヴィラの人の仕業の可能性だって全くのゼロじゃないから、無法は許さないぞっていうのと、術者を識別するコードみたいなものを埋め込んで、何かするならまず私のところに来てってメッセージを込めたんだ」
そこまで複雑な魔法だったのかと行人は驚くが、それ以上に魔法で巻き起こった風がまたエルフの渡辺風花の森の香りを行人の鼻腔に運んでしまい、迂闊なビートを刻み始める血の気を察せられないようにするのに必死だった。
「あとは、大きく家を結界で囲む魔法もあるんだけど、都合よくドアとか窓とかだけ開けることできないから、大木くんのお母さんが帰って来た後に家全体を結界で囲むね」
そして風花はリビングから出ると、鞄を持ちあげて肩にかける。
「えっと、それじゃあまた、お部屋にお邪魔していいですか?」
「どうぞ……その、飲み物、持ってくから」
「ありがとうございます!」
そう言うと、風花は上気した顔と軽い足取りで、二階への階段を上がってゆく。
行人はキッチンに戻って水出し紅茶を淹れながら、行人は衝撃的な未来の予告に、大きく息を吞んだ。
「これ、渡辺さんを母さんに会わせる流れ?」
その未来に気付いて風花と母が出会ったときに起こりうるシミュレートを繰り返してしまった結果、水出し紅茶が少々渋くなったのだった。
◇
ところが実際に風花との勉強が始まると、トップクラスでは決してない行人をして、風花の成績がなかなかに危機的状況であることが判明してしまう。
特に本人の言う通り英語は壊滅的で、中学レベルの英文法すら怪しい部分が露呈してしまう。
行人も英語は得意とふんぞり返ることはできないが、定期テストでは常に七十点前後を維持できていたため、それこそ『単語さえ覚えていれば間違えることのない』レベルの問題で風花が躓いているのを見て、一気に危機感が強くなる。
色々な状況の複雑さを抜きに、もし風花が赤点だらけで留年したら、同じ学年でいられなくなってしまう!
結果として自身も風花の苦手ジャンルを教科書と参考書でさらい直し、中間テストの復習と、風花が自分で持ち込んだ問題集を四苦八苦しながらこなしていたら、もう時間が六時を過ぎていたのである。
風花曰く世界史の復習もしたいらしいのだが、さすがにこれから取り組んでしまうと完全に夜になってしまう。
風花の『魔王討伐』の真意もまだ理解できていないし、大木家の家庭事情なのだが、もう少ししたら母と自分の夕食を用意しなければならないのだ。
「英語はここで切り上げて、魔王討伐のことだけ聞いて、今日はお開きかな」
水出し紅茶と、ミルクポットに牛乳を入れ、最後に風花の注文を思い出し、水出しには固形の砂糖では溶け辛いのでハチミツのボトルを手に取り、それらをトレーに載せて部屋に上がると、
「生きてる?」
部屋を出たときと全く同じ姿勢でうずくまっている風花がそこにいた。
エルフ最大の特徴である長い耳が打ち上げられた魚のように痙攣している。
「生きてません……」
呻き声とともに、英語の世界に普段の美貌を全て置き去りにしたような、見たことのない表情で顔を上げる。
「私、こんなことで本当に期末テストの赤点を回避できるんでしょーか……」
「そんなシリアスな目標抱えてたの?」
「もうお察しかと思いますが、私、中間テストは英語Rも英語Gも赤点だったの」
「えっ」
かなり深刻な苦手分野なのだろうとは思ったが、まさかそこまでとは思わなかった。
「俺も英語は際立って得意ってわけじゃないけど、定期的にこれ、やる?」
「これって?」
「いや、だからこういう勉強会というか……そういうの」
枯れ果てた様子の風花があまりに不憫でついそんなことを提案したが、途中で自分が結構調子に乗った誘いをかけていることに気付き、何となく勢いが尻すぼみになってしまう。
「大木くんと……定期的に勉強会……!」
だが意外にも風花の表情はみずみずしさと血色を取り戻し、明るいものとなり、
「でも英語……う、うーん、英語……うーん……」
すぐに苦悶と苦心と恐怖がないまぜになった表情に戻ってしまう。
「大木くんと、定期勉強会……でも、英語……」
「あの、今日は世界史もできてないから」
「……世界史ぃ〜……」
行人が広げられたノートを避けて紅茶の入ったグラスを置くと、それを破砕しかねないほど震える手で握っている。
「うん。まぁ、無理にすることじゃないし、お互いやることも多いから……」
風花の中でどんな損得勘定が蠢いているか分からないし、唐突な提案でもあったので行人が一旦引こうとすると、風花は激しく首を横に振り、縋るような目で行人を見上げた。
「あのね! 大木くんと勉強するのが嫌なわけじゃないの! 今日だって私からお願いしたんだし! ただ、ただね……」
そしてまた、あのフキノトウとゴーヤとイワシのワタを同時に口に入れたような顔になって下を向いてしまう。
「英語が嫌すぎて……!」
「そんなになの?」
行人は自分も腰を下ろすと、風花にミルクポットと蜂蜜のボトルを差し出す。
「分からな過ぎて、何をどう勉強していいか分からなくて、教科書開くだけで頭痛がしてくるの。日本人たるもの、大和言葉だけで完結する将来を目指すべきだと思わない?」
「そこまで」
似たような表現をかつて哲也と数学という組み合わせで聞いたことがあったので大きな衝撃はなかったのだが、金髪翠眼の異世界のエルフがそれを言うのが面白くはあった。
「だから『単語さえ覚えてれば長文は読める』とか言い出す人にはたまに殺意が湧く」
「え」
先ほど行人も似たようなことを言ったことを思い出した。
「大木くんだから割り引かれているところはあります」
「そ、それはよかった。まぁその、英語は俺も中学のとき死ぬほど苦労したから分かるけど、世界史は? 歴史教科はあれ……」
「暗記するだけ?」
「う」
「それ以上は大木くん割引き適用外になるよ」
「そ、そうですか」
「そもそもカタカナを覚えるのが苦手なのもあるけど」
風花は大きめに一口紅茶を飲む。
「私はナチェ・リヴィラの歴史を先に習ってるの! だから! 混ざっちゃうの!」
「ああ! なるほど!」
「ヨーロッパの王様の名前とか凄く混ざっちゃうの! ヘンリーとかチャガタイとかカールとかフランクリンとか!」
「チャガタイはモンゴルだしフランクリンは多分アメリカだし、チャガタイが混ざるの?」
「チャガタイってこっちの世界史だっけ? 適当に言っただけなんだけど」
本当に混ざっているようだ。
「しかも『何世』をつければ増殖するでしょ」
「増殖したわけじゃないでしょ。いやまぁ、世継ぎは作ってるけど」