エルフの渡辺2
第四章 渡辺風花は得意不得意の差が激しい ⑥
風花にレクチャーするつもりが、作業が進むと少し集中してしまい、つい風花を放置してしまった。
「ごめんごめん。ちょっと集中し過ぎた」
「ううん。大丈夫。最初に説明してくれたことで何してるのかは分かったし、こうして横で見てるだけでも、素人目にも写真が良くなるの、分かったから。それに」
風花は少しだけテーブルに身をもたせかけて微笑んだ。
「仕事に集中してる人の横顔って、いいなって思って見てた」
「そっ! それは、ど、どうも……」
自分のテリトリーの作業に入ったことで安定を取り戻したバイタルが、再び激しく乱れ始めた。
そんな行人の内心を知ってか知らずか、風花は画面を注視するとPCの画面端を指さした。
「これだけ何してるかよく分からなかったんだけど、これはどんな機能があったの?」
「え、あ。あの、それは」
風花は行人の右側に座っていたのだが、風花の疑問の対象はPCの左側のツールタブの中にあり、そこを指さすのに風花は行人の方に身を乗り出す形になって、
「えっと……ね」
乱れたバイタルが更に強く攪拌されてしまう。
好奇心のままに乗り出してきたエルフの風花の左耳が行人の頰を掠め、微かに揺れた髪からまた柔らかい香りがして、行人は一瞬目の前が真っ白になってしまった。
「そ、それはその、特定の条件を範囲指定して、さっき言った、あの、色相とかコントラストをその範囲だけ変える、ってことができて……」
「そうなんだ。どうしたの?」
「か……近い!」
顔が、と言わなかった自分を褒めるしかない。
はっきり言うが、エルフの渡辺風花の美貌は、どれほど日本人渡辺風花に恋い焦がれていたとしても心拍が乱されずにはいられないのだ。
だからこそ、PCの画面と自分の顔の間にエルフの風花の顔があると、それだけであまりにも心臓に悪いのだ。
「え?」
「あ、いや、その、ちょ、ちょっと近いなって、あの、色々と」
色々と何なのか、自分でもあまりに間抜けな声を出していると思う。
「……あ、ご、ごめんなさい!」
風花もさすがに気付いたのか、はっと目を見開いて慌てた様子で身を引っこめた。
「ちょ、ちょっと私も、熱中しちゃった。ご、ごめんね!」
「あ、いや……うん。あの、うん。その、全然、見ててもらっても、大丈夫だから、分かんないことあったら、聞いて?」
急にまたぎこちない空気になり、沈黙が場を支配し、しばらく行人は作業に集中せざるをえなくなった。
動悸が耳に響き、見開かれた目が乾く。
心なし呼吸も荒くなってしまっているかもしれない。すぐ隣に風花がいるというのにあまりにみっともない。
風花の方も見られなくなってしまい、作業に集中した時間は五分にも満たないだろうが、行人には一時間にも永遠にも感じられる。
その五分間の永遠の後、ともすれば空耳レベルのボリュームの、だが確かな問いかけがあった。
「あ、あのですね、大木くん……」
「は、はい?」
返事と同時に、PCを操作する手も止まってしまう。
「つかぬこと、お伺いするのですが」
「は、はい……」
「さっきその、私が近づきすぎたときにですね……大木くん、ぎょっとした顔して、ぱっと距離を取ったじゃないですか」
「え? あ、いや、それは、ちょっと……」
「私、もしかして……臭う?」
「当たっちゃって驚いて何? え? 何?」
「だ、だからぁ…………もしかして私、今日朝から変なことして汗かいてるし、大木くんち来るときも結構急いで来たから、その……色々、臭っちゃう、かなって」
海外の日本語学習者が日本語を困難と感じる大きな理由の一つが、異様なまでの同音異義語の多さにあるとされ、同じ事柄を表すことがらですら、用いる漢字によって受け手の印象に差が発生することがそれに拍車をかけている。
そしてここに一人、女子との過剰な接近に慣れておらず言葉選びが洗練されていない思春期男子が一人いた。
「えっと、その、こんなこと言ったらアレだけど、匂い、嫌じゃないよ」
「えっ」
顔を赤らめて目を逸らしがちだった風花は、行人の返答に今度は顔を白くして、目を見開いて行人を凝視した。
「わ、私、そんなに臭ってた? い、いつから?」
「い、いつから? え、ええっと、ええっと? あ、最初に窓に小さい結界張ったときにふわっと匂いがして……」
「そんな最初から臭ってた!?」
「う、うん、それまではそんな匂いしなかったから、そういうものなのかなって」
「そういうものってどういうもの!? え、や、やだ、どんな臭いだったんですか!?」
「どんな匂いって、ええ、そんな……強いて言うなら……渡辺さんらしい、森の匂い?」
「私らしい……森の、臭い……え」
行人としてはドキドキした、魅力的だったと言ったつもりだったのだが、風花は目がどんどん死んでゆき、全身から色相と彩度を抜いたような色合いになってゆく。
「それはまさかネペンテスとかドロソフィルム・ルシタニクムみたいな臭いってこと……?」
「ごめんマジで分からない単語出されると答えようがないんだけど……」
ネペンテスはウツボカズラの別名。ドロソフィルム・ルシタニクムは粘液を分泌する食虫植物で、両方とも虫や小動物を誘引するにあたり、人間にとっては不快な悪臭を放つ種があるのだが、行人はそんなことは知る由もない上に『臭い』ではなく『匂い』で変換しているので、あまり深く考えずに頷いてしまった。
「答えようがないけどでも、渡辺さんが言うならそういう匂いなのかな。こう、魔法と同時にふわっと森の匂いが漂って……」
「…………ろ」
「え?」
「……お……ろ」
「え? 何?」
「ち、近づかないで!」
「え、ええ?」
急に両手を広げて拒絶の姿勢を取られ、行人は衝撃を受け、
「こ、これ以上、大木くんの前で粗相をするわけには!」
「え? 何の話始まったの?」
「あの……あんまり図々しいから必要なければ言わないでおこうと思ってたんだけど、まさか大木くんに、そんなにご不快な思いをさせていたとは露知らず……」
「不快な要素どこかにあった?」
「不快じゃなかったの!? まさか大木くん、そ、そういうのが好き、なの?」
「急にどうした!?」
「そ、その、大木くんのそういった趣向は尊重したいとは思いますが、私も思春期女子としてはあまりニッチな需要には応え辛いと申しますか」
「俺そんな特殊な需要を喚起するようなこと言った覚えないんだけど!」
「なので、なのでですね! お夕飯をご馳走になった上に泊まり込もうとしてる分際で大変不躾だとは思うのですが! お……お……お…………!」
魔法かエネルギー弾でも打ち出しそうな全力パーの後ろで火球のように真っ赤になった風花の消え入りそうな声が、それこそ火球のように行人の心臓と血流を沸騰させた。
「お…………お風呂……お借りしても、いいですか……必要な用意は、して、きてるので」
「んぐっ!?」
全力パーの後ろで先端まで真っ赤になった耳を見た行人は、ここで初めて自分が、風花に対してとんでもない地雷を踏んだことを自覚したのだった。