エルフの渡辺2

第五章 渡辺風花の寝息は独特な音がする ①

 大木行人は、日本中のどこにでもいる健全で俗っぽい男子高校生であり、生活の全てをカメラと勉学に注ぎ込むようなストイックな生き方はしていない。

 競技者ではなくなったがバレーボールを始めスポーツ観戦はするし、ワールドカップやオリンピックなどもミーハー根性で見られるものは見る。

 人並みに映画、ドラマ、アニメ、漫画、小説は嗜むし、自分の好みで買ったもの、友人や世間の評判に流されて鑑賞したものも数知れず。

 そしてもちろんそれらメディアの中には青少年らしい劣情で以て接するような内容もあったりする。


「えーと、これは駄目、こっちも駄目。うーん、林田先輩の写真は全部ダメだな。木島君のも、これギリだめだ」


 十八禁とまではいかないが、まあまあエッチなもの、というのは世の中にあふれており、初めて風花を部屋に上げたときには前もってクローゼットに避難させたようなものも、それなりにある。


「あー、これいい曲だな。捗る。ええと、これは、小滝さんが撮った分で……」


 そんな中で、多くのラブコメディと呼ばれるジャンルの作品で頻出する展開を、行人は今後、リアリティを以て受け入れられなくなってしまった。

 行人はヘッドフォンを装着し、大音量で音楽を流しながらバレー部の写真の編集作業にいそしんでいた。

 そうでないと、風花が風呂場で何らかの活動をしている音が聞こえてしまうからだ。

 女子が風呂に入りたいと言っているのを止める男は人間ではない。

 だから行人は年末の大掃除級のエネルギーを費やして風呂掃除を敢行し、風花に脱衣所兼洗面所と大木家の風呂場の仕様を説明し、風花の返事もロクに聞かずにリビングに逃げてきた。

 初めは風花が入浴している間に写真編集作業を終えてしまおうと思ったのだ。

 ところが、リビングから廊下に出て3メートルもない距離にある洗面所から、ドアを閉めているのに風花が動いたり、独り言を言う声が聞こえてしまうのだ。

 そしてドアが開閉される音。シャワーが放射される音、音、音、音。

 一般家庭の風呂場で発生する音は普通、外まで聞こえるものなのだ。

 翻って多くのラブコメでは青少年主人公がヒロインの着替え中に洗面所のドアを開けてしまったり、入浴していることに気付かず自分も裸で風呂場に踏み込んでしまったりというシーンが頻出する。


「いや気付くだろ! 耳腐ってんのか!」


 きっとラブコメ主人公の自宅の浴室・洗面所の扉や壁は地下核シェルター並みの防音性能を兼ね備えているのだろう。

 行人はリビングのドアを閉めても聞こえてくる風花のシャワーの音をどうにかしようと、テレビをつけたり、電気料金が割り引かれる深夜に稼働させるつもりだった食洗器を動かし始めたりして音を紛らわせようとした。

 だが、聞こえるのだ。嫌でも聞こえてくるのだ。耳が聞こうとしてしまうのだ。

 風花がシャワーを浴びる音! 髪をわしゃわしゃと洗う音! 湯舟でゆったりするかすかな水音!

 こうなるともうダメだ。何故我が家の風呂場は地下核シェルター仕様ではないのだ。

 二階の自室に逃げることも考えたが、風花が何か助けが必要なときに声がかかる場所にいるべきだというのは、男子以前に家主の義務だ。

 だがこのままリビングで風花の生活サウンドを聞いているとどうにかなってしまいそうなので、行人はヘッドフォンである程度の音量を流しながら仕事に集中することにしたのだ。

 これなら普通の音は聞こえないが、大声で呼びかけられれば聞こえる程度。

 とはいえバスタオルも予備のフェイスタオルも山のように目に付く場所に置いてきたし、ドライヤーもコンセントに繫いでスタンバイしてある。

 風呂場を洗ったときにシャンプーやリンスやボディーソープの残量は十分なことを確認したし、湯沸かし器のリモコンの操作方法や使い終わったタオルの置き場もきちんと教えた。

 初夏なので湯で体が熱くなりすぎたときに備えて扇風機も設置し、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルも出しておいた。

 ごく常識的に入浴する限り、風花が行人の助けを必要とするケースはないはずだ。

 ラッキースケベのチャンスを自ら全て潰したと言うなかれ。これがお客をもてなす常識的ホスピタリティなのである。


「集中、集中、集中……小滝さんが撮ったの、結構やっちゃってるな……これも駄目だ。これも……うーん」

「大木くん」

「かく言う俺のも……ばたばたしてたとはいえやっちゃったなぁ。これも駄目だ」


「大木くん。出ました」

「うーん、ユニフォームがいいかなって思ったけど、もしレギュラー以外がユニフォーム持ってなかったら……いや、さすがにそんなことないか?」

「大木くんっ!」

「えっ? あ!」


 ヘッドフォン越しに耳元で風花の大きな声がして、行人はびくりと身を竦ませながら慌ててヘッドフォンを外した。

 振り返ると、そこには自宅に持ち帰る洗濯物や個人的なアメニティを入れているであろう大きな巾着袋と、行人が用意したペットボトルの水を持った風花が、行人の顔を覗き込んでいた。


「上がりました。お水もいただいてます。ありがとう」

「あ、う、うん……」


 エルフの渡辺風花の髪は、普段、風にそよぐようにふわりとしている。

 だが風呂上りの風花の髪はしっとりとして少し落ち着いており、そのせいでエルフ耳が普段よりも長く大きく見える。


「えっと……に、似合うね、パジャマ」


 そして普段絶対に見ることのない、風花のパジャマ姿。

 ゆったりした薄緑色の五分袖と、八分丈の、肌触りの良さそうな素材セットアップ。


「そ、そう? ……ありがとう」


 そう言ったきり、行人はつい目をそらしてしまった。

 パジャマの素材は、柔らかく体の負担にならない、が基本である。

 だからこそ、風花の体のラインが私服や制服のときとは比べものにならないほど浮き上がってしまい、湯上りの微かな温度が、嗅ぎなれているはずのボディーソープやシャンプーの香りがいつもと全く違うものに感じられる。

 いや、さすがに違う。全く知らない香りが混ざっている。


「何か、香水とか使ってる?」


 シトラスを思わせる爽やかだが甘い香りがしてそう言うと、風花はふくれっ面と嬉しそうな顔が混ざったような表情になった。


「大木くんは、嗅覚が鋭敏なようなので」

「ええ?」

「ヘアオイルの匂いじゃないかな。香水ほど匂い強くないと思うけど、どう?」


 どう、とは何だ、どう、とは。

 意識して嗅げ、ということなのか。

 そんなことが思春期男子に素直にできると思っているのか。


「……い、いいんじゃないかと」

「良かった」


 真意を測りかねる風花は満足げに頷くと、行人が操作するPCを見る。


「まだ少しかかる感じ?」

「ああ、いや、もう終わるところ」

「そうなの? まだ半分くらい残ってる感じだけど」


 話題が写真に移ったので、行人はこれ幸いと頭を仕事モードに切り替える。


「うん。本当は全員分きちんとやるべきなんだけど、こっち、小滝さんが撮ったやつ、半分くらいは目線が、ほら」

「ほんとだ、ズレてる」


 泉美が撮った写真の半分くらいは、目線が上下にずれてしまっていた。


「撮影のときはみんなきちんと前見てた気がするのに、なんでだろう?」