エルフの渡辺2
第五章 渡辺風花の寝息は独特な音がする ③
そしてまた柱がばたんと倒れるように床に横たわる。
まるで初めてのお泊まり会に興奮する子供のようなテンションに、室内に満ちるヘアオイルの香りにも慣れてきて、行人の緊張もさすがに解けた。
「じゃあ電気消すよ。小玉、つけておく?」
「私真っ暗でも小さい灯りがあっても気にせず眠れるから、大木くんがいい方でいいよ」
「じゃあ、小玉だけつけておくね」
普段は行人も完全に灯りを消す派なのだが、もし何かの拍子に夜中で起きてトイレに行きたくなった時、うっかり風花を蹴ったりしては大変だからだ。
行人が灯りを消してベッドに戻ると、風花が床の上から声をかけてくる。
「おやすみなさい、大木くん」
「うん、おやすみ、渡辺さん」
寝るときに、部屋に誰かがいるのが不思議な感じだ。
それがエルフとはいえ、風花だと言うことがさらにその思いを強くさせる。
そのまま数分、静かな時間が過ぎ、そして、
「じゃなくて!」
行人は飛び起きて自分に突っ込みを入れ、立ち上がって灯りをつけ直す。
「『魔王討伐』! 渡辺さん! 勉強することが魔王討伐って一体どういう寝てるー!!」
ほんの数分しか経っていないのに、風花は満足げな微笑みを浮かべながらすぴょすぴょと景気の良い寝息を立てているのだ。
行人の突っ込みにも眉一つ動かすことなく、安定した寝息を立てるエルフを見ながら、
「……エルフ耳でも、横向きに眠れるんだ」
行人は脱力して、そんな益体もない感想を抱くしかなく、諦めて灯りを消して、ベッドに戻った。
ベッドの端に横向きになりながら、こちらに背を向けて間断なく寝息を立てている風花の背を見つめる。
「明日聞けるかな。いやでも、まさかうちから登校するわけじゃないだろうから一旦家に帰るだろうし、そうなると朝早いから無理かな。今日のこと、絶対小滝さんには話してないんだろうし……」
行人は寝返りを打つと、風花に背を向け本格的に眠る体勢に入る。
寝袋のビジュアルパワーもあってか、風花の寝息がすぐそばにあっても、思いの外緊張はしなかった。それどころかシトラスの香りが微かにリラックス効果があったようで、今日の色々がスタミナを削っていたのか、急速に眠気が襲ってくる。
聞こえるのは遠い車の音と、風花の寝袋の扇風機が立てる微かな扇風機の音だけ。
「魔王討伐、か」
薄手の夏掛けを少し深くかぶると、大きく息を吐く。
「俺に渡辺さんのことを止める権利も力もないけど、どこかに行っちゃうのは……嫌だな」
そして、より深く目を閉じる。
そこから少しの時間が流れて、
「……」
ミノムシが音もなくむくりと起き上がると、上体だけ捩じって行人の背中を見やり、呟いた。
「私が起きてるって、分かって言ってた? 大木くん」
規則正しい寝息を立てる行人は何も答えない。
「夏用でもやっぱり暑いものは暑いな。扇風機も、あんまり中涼しくならないし……はぁ」
行人を起こさないように静かに上半身だけ寝袋から出すと、風花はゆっくり立ち上がって、行人のベッドの側に近づきまた膝をついて、右手を行人の頭の方に伸ばし、顔に触れる直前で止めた。
「少しは緊張してくれた……よね」
むずがゆそうに、口元が緩む。
「それは、私だから? それとも、女の子なら誰でも……?」
返事は寝息だけだ。
風花は手を引っ込めて、ベッドのマットレスにこてんと頭を乗せる。
「大木くんの匂いがする……はぁ」
そして眼だけ、行人の後頭部を見た。
「色々心配かけてごめんなさい。でも、私はどこにも行かないよ。だって私は、大木くんの専属モデルで、また大木くんに……好きに、なってもらいたい……んだから」
そして、そそくさとベッドを離れて元の場所でまた横になる。
横になってからはまた寝息を立て始めたが、しばらく寝袋のなかで、足をばたつかせてダウン地の寝袋がシャカシャカと静かな音を立てていたのだった。
◇
目を開けた瞬間、時計を見なくとも普段起きない時間だということが分かった。
カーテンの隙間から差す光はまだ微かに紫色を帯びた白。枕元で充電していたスマホの時計を見るとまだ五時前だ。
流石に早起きすぎたが、昨夜床についた時間を考えればこれくらいの時間に起きても不思議はない。
傍らに目をやると、夜中に起きて寝ぼけた風花が行人のベッドに乗り込んできている……ということもなく、記憶にあるより少しだけこちらに近い位置で横たわっているミノムシエルフが幸せそうに寝息を立てていた。
「結局夜の間は何もなかったってことかな。くぁ……寝てるの起こすのも悪いし、起きるのもまだ早いし……二度寝しようかな」
こういったとき、不思議とすぐには睡眠に戻れず、そろそろ本当に活動を始めなければならないという時間になって急に眠気が襲ってくるのは何故だろう。
「駄目だ。寝れない」
すぐに身を起こした行人は、勉強机の上に戻したPCの傍らにある部のデジタル一眼を手に取ると、撮影スタンバイ状態に。
「充電はまだ大丈夫。でもまた急にピントが合わなくなったら困るしなぁ。んー。俺の代で壊れたら先輩達に申し訳ないな」
とはいえ、戯れに部屋の中でファインダーを覗くと、室内の小物や本棚を見ている限りはオートフォーカスは正常に動いているように見える。
「何だったんだろうな。エアコンが壊れたとき業者に来てもらったら正常に動くアレ?」
「……すぴょ……すぴょ」
「ほんとこれどういう寝息? あ」
そのとき、たまたま外の雀か何かの声と風花の寝息が重なり、行人はファインダーを覗いたまま風花の方に顔を向けてしまった。
昨夜、寝顔を撮るなと厳命されていたことを思い出しすぐに顔を逸らそうとして、妙なことに気付いた。
「あれ?」
風花にピントが合わない。いや、正確には風花の顔にピントが合わない。
「なんだ、これ」
寝袋にはピントが合っている。だが、風花にピントがあっていない。
「いや、待て、おかしいぞ」
現代のデジタル一眼レフのファインダーを覗いて見えているのは、レンズを通してデジタル処理された画像だ。
それならばファインダーから覗く風花の姿は、日本人の風花でなければならないはずだ。
だが、今ファインダーの中には、ピントが合わずデジタルノイズがかかってるようにボヤけているが、エルフの渡辺風花のように見える。
「え? え? なんで?」
例のフィルムカメラのファインダーの場合は単なる照準器のようなもので、エルフの風花が見えても問題ない。
「スマホだと、いつも通り」
慌ててスマホのカメラを起動して風花に向けると、そこには日本人風花の顔がすぴょすぴょと寝息を立てている。
心で詫びながら試しにスマホで写真を撮ると、やはり記録される画像も日本人の風花。
そして改めてカメラのファインダーを覗き込むと、顔だけにやはりノイズ。
「……」
何か、確証を得られる材料があったわけではない。
だが、デジタル一眼レフでの撮影経験が人よりは豊富な行人は、ファインダーから目を外し、解像度が明らかに現行のものより低いディスプレイを見ながら風花にレンズを向ける。
「……」
そして今度はカメラを触り始めた日以来初めて、左目でファインダーを覗きながら風花にレンズを向け、一枚シャッターを切り、そしてカメラを膝の上に下ろして溜め息を吐く。
「………………えぇ?」
得も言われぬ高揚と未知の事態への恐怖がせめぎ合い、わずかに恐怖が勝った。
眠気などどこかに吹き飛んでしまった行人が、左手にカメラを持ち、もはや眠くもない目を右手でこすった、その時だった。