エルフの渡辺2
第五章 渡辺風花の寝息は独特な音がする ④
「うびびびびびびびびびびびび!」
風花の寝息と同じくらい聞いたことのない悲鳴が、突然窓を貫いて行人の耳に飛び込んできた。
「ひっかかっひゃ!」
その瞬間、風花が寝起きの声で飛び起き、寝袋にくるまっていたことを忘れていたのかよろけて床にそのまま前に倒れて顔面をぶつけそうになり、
「危ないっ!」
行人がアクロバティックにベッドから飛び出し、下から抱きとめる形で風花の悲惨な事故を防ぐ。
「おっ、おはよう大木くん! 朝から失礼しました!」
「無事で何より! ていうか今の声って」
「結界に誰か引っかかった! ご、ごめん大木くん! ちょっと寝袋のチャックあけてもらえるかな! 手が出せなくて!」
「チャック固っ! 何で夏場なのにこんなにしっかり着こんじゃったの!」
「最初暑かったんだけど夜ちょっと冷えて!」
お泊まりした女子とくんずほぐれつ寝間着の前を請われて開けているのに、全く心がときめかないのは何故だろう。
「ぷはあっ! ありがと大木くん! ちょっと行ってくる!」
「ちょ、窓から!?」
「エルフだから大丈夫! 大木くんは余裕あったらそのカメラで証拠写真押さえて!」
風花は寝間着姿のまま行人のベッドを乗り越えて窓に手をかけると、そのまま外に飛び出して行った。
「渡辺さんっ!」
追いかけるように身を乗り出すと、寝ぐせなのか魔法の風のせいなのか分からないほど髪を振り乱しながら、リビングの割れた窓が面している庭に着地した。
その手には、いつの間にか以前ナチェ・リヴィラで見た植物の蔓から生まれた剣が握られている。
「あれが……」
庭には結界に引っかかったと思しき大柄な人間が倒れ伏しており、風花は油断なく剣を構えながらにじり寄っている。
「そ、そうだ。渡辺さん、そこでストップ!」
うつぶせに倒れているので顔は見えないが、この時間に人の家の庭に侵入しているのはまともな手合いではあり得ない。
カメラを構え、風花を画角にいれず、場所が大木家の庭であると分かるように庭木と植木鉢、そして倒れる侵入者を写真に収める。
「くそ、目が……!」
寝起きの上に緊張と恐怖で目がやたら霞むように思える。
窓から見下ろす限りでは侵入者は黒いニット帽にスキニーな黒い長袖Tシャツとロングパンツと、お手本のような不審者コーデだ。
風花を上回る上背から男かと思ったが、
「う、え?」
焦って連写した写真の内容はその印象を裏切っていた。
「えっ? 女?」
カメラのディスプレイに写る体型は、明らかに女性のラインだ。
「大木くん! 警察に連絡!」
「あ、う、うん!」
風花の檄に行人は一旦窓から顔を引っ込めてスマホを取り出すが、今度は緊張して電話帳を上手く呼び出せない。
「ああっ、くそっ、くそ! あの刑事さんの番号は……!」
「えっ! 噓!」
そして、侵入者もいつまでも都合よく気絶してくれてはいなかったようだ。
風花の鋭い声にまた窓から外を見ると、黒服不審者が膝を突きつつも立ちあがろうとしていた。
「大木くん! 出てこないで! こいつ……こっちの人じゃない!」
「えっ!」
「あの結界にダイレクトで引っかかってこんなにすぐ立ち上がれるはずがないの! こっちの普通の人がひっかかったら一週間くらいは再起不能になる威力なのに!」
「そんな怖い仕掛けなら最初に言っておいてもらえる!?」
それこそ空き巣が地球の人間だった場合、テーザーガンを喰らったような状態で犯人が見つかってしまうわけで、こちらが過剰防衛を疑われかねないところだった。
「一体何者? ナチェ・リヴィラの人なんでしょ。私を監視しに来た監査隊なら、いくら何でもタチが悪すぎるよ。どういうつもりで、私の大切な人とその家族に危害を加えたの」
「……」
風花の問いかけに応えるほど、侵入者も間抜けではない。
だが常人なら一週間は寝込むらしい威力の結界から受けたダメージは少しずつ抜けているようで、相手も油断なく完全に立ち上がった。
「逃げられると思わないで。この結界は術者が解除しないかぎり内側からは抜けられない。術者が解除しないと逃げた──!?」
何となくこうなる予感はしていた。
相手がナチェ・リヴィラの人間なのだとしたら地球の人間にはない力を持っていることは想定するべきだった。
「食べる量が足りてなかったからさっきの一発で結界壊れちゃったんだ!」
と思ったら、相手の正体や力とは全く無関係な理由だった。
ともかく相手が逃げるかもしれないことを心のどこかで想定していた行人は、ほとんど勢いで階段を駆け下り玄関から外に飛び出すと、
「大木くんっ!?」
「うぐっ!」
「がっ!」
カメラを構えた状態で黒服不審者の前に立ちはだかったのだ。
風花の悲鳴と、激突した行人と不審者のうめき声。
体格で劣る行人は勢いに負けて弾き飛ばされてしまい、風花が倒れた行人に駆け寄っている間に、不審者は壁を身軽な仕草で飛び越え、逃げていってしまった。
「大木くん! 大丈夫!? 怪我してない!? なんでこんな無茶したの! っていうか、目! もしかして殴られたの!?」
風花が取り乱すのも無理はない。
行人の右目の周りが赤くなってしまっているのだ。
「いてて……いって……うわ、これ痣になる奴かも」
行人は顔を顰めながら、自分の右目に触れ、火に触れてしまった時のように指を離した。
「触らないで! 治すから!」
「え、あ……」
風花が泣きそうな顔になりながら行人の右目を覆うように手を当てると、微かな温かさと、あの森の香りが微かに漂い、
「どう、痛み、取れた? 目、大丈夫?」
「ありがとう、大丈夫だよ。殴られたわけじゃなくて、カメラのファインダーがちょっとがっつり当たっただけで……」
「ファインダーが当たっただけって……どうして家から出てきちゃったの! 危ないって言ったじゃない! しかもカメラ構えてたってことでしょ? 警察は呼んだの? バカなことして! 相手はなにするか分からなかったんだよ! もう!」
「わ……たなべ、さん?」
「びっくり、させないで……もし、大木くんに、何かあったら私……」
バサバサの髪の毛と寝起きの寝間着に、草の剣。
美しい瞳から宝石のような涙を流すエルフの渡辺風花は、嗚咽を漏らしながら行人の頭を抱きしめた。
不思議と、行人の心臓は沸騰もせず、自分は無茶をして風花を悲しませたという自覚だけがむしろ頭を冷静にさせる。
「何でこんな無茶したの? 私、ちょっと怒ってるよ? よっぽどの理由じゃないと、許してあげないよ」
「どうしても確かめたいことがあったんだ。そのためには、どうしても正面から相手を写真に撮りたかった……見てくれる?」
行人が僅かに身じろぎすると、風花は自然と抱きしめていた手を離し、行人の手を見る。
行人は右手にデジタル一眼レフを、左手にはスマホを持っていた。
「あの空き巣を正面からって、部屋からじゃダメだったの?」
「ちょっと遠くて。眼レフはともかく、スマホだとうまく写らない気がしたんだ。実際、無茶した甲斐があったと思う。ほんのちょっとだけど、相手の声が聞けた」
「声?」
「うん。ただこの話する前に、一度家の中戻ろう。このかっこだと外、ちょっと寒い」
行人が立ち上がると、風花も魔法の力によるものが、草の剣を消失させて立ち上がる。
早朝特有の、灯りをつけてもまだどこか薄暗いリビングで昨日と同じように隣り合って座った二人。
行人はデジタル一眼のディスプレイを、ファイル閲覧モードにして風花に差し出す。
「えっと」
風花は困惑する。