エルフの渡辺3

第二章 渡辺風花は世の中の真実を知る ③

「そ、え、あ、いや、もちろん何の問題もない、けど……その、どうしたの?」


 全く具体性のない誘いではあるのだが、単純に可愛い女子にこんなお願いをされて、拒める男は男ではない。

 現実に全く具体的なスケジュールの無い行人は二つ返事で誘いに応じるが、それはそれとして、この日一日で急激に風花の様子がおかしくなった理由だけは突き止めねばならないと、心の冷静な部分が警告を鳴らしていた。

 風花の様子がおかしいときは、絶対にその背後で何か面倒なことが起こっていることを、行人は既に経験から学んでいた。


「一緒に過ごすのはいいとして、何か俺にやってほしいこととか、渡辺さんがしたいことみたいなのがあったりするの?」

「そ、それを確認するためにですね!」

「わっ!」


 急に風花の声のボリュームが高くなり、行人はのけぞる。


「こ、こっ、こここここここここっ、こっ、こっ」


 更に急に鶏になり、行人はのけぞったまま眉を顰める。


「今度っ……でっ……でっ……でっ!」

「で?」

「でー……打ち合わせを、しませんか! よければ、明日とか! 出来るだけ早いうちに!」

「う、うん。分かった。分かったからちょっと落ち着いて。明日は土曜だから俺は全然大丈夫。何時くらいにする? 午後から? それともどっかで昼ご飯一緒に食べるとか……」

「ランチデー……!」

「え?」

「……ランチで! ランチからで!」

「そ、そう。ええと、じゃあ場所は……」

「駅で待ち合わせでいいかな! あの、上板橋駅の改札で!」

「駅? 分かった。じゃあご飯食べるなら……十一時くらいに待ち合わせでいい?」

「よろしくお願いしますっ! それじゃあまた明日!」


 待ち合わせ場所と時間が決まった途端、風花は居住まいを正すと一瞬で回れ右して、陸上部よりも美しいストライドを見せながら走り去ってしまった。

 薄暮に走り去る金髪エルフの背を呆然と見送った行人は、走り去る風花を追うように上げていた右手をゆっくりと下ろした。

 やたらと引っ張った割には明日会う約束をしたきりで、風花がおかしくなっている理由は全く察することができなかった。

 だが、全く別のことは察することができてしまい、途端に心臓の鼓動がやたらとうるさくなり始め、風花に負けず劣らず顔が赤くなることを止められず、その場で思わずうずくまってしまった。


「……なんだよ、今の……」


 蹲りながら右手で自分の目を追おうと、震える口で独り言ちる。


「渡辺さんまさか……デート、って言おうとしてなかったか?」


 気もそぞろ、というのはこういう状態のことを言うのだろう。

 その日の夕食は、普段あまり行人の作る料理に文句を言わない母をして『なんかマズい』と言う程に、いい加減なものになってしまった。

 心が乱されたからといって、身に着いた料理の基礎はそうそうおかしなことにはならない。

 単に折々につけて『デート』を匂わせた風花の声と顔がフラッシュバックし、手元が狂ったのだ。

 白だしは瓶を傾けすぎて既定の倍使ってしまうし、真空パックペットの醬油を力一杯握ってしまう。

 ほんの少し振ればいいはずの白ゴマを袋ごと真っ逆さまに落とし、炊飯器に入れた水の量が多すぎておかゆが出来上がった。

 トドメにぼんやりしていてコンロのグリルで魚を派手に焦がしてしまい、結果、焦げて茶色くなったサワラの西京焼きだった何かが出力される。

 里芋の真っ黒な煮っころがしにおかゆのような米と舌を刺すような塩気の味噌汁、ゴマのほうれん草和えが出来上がってしまった。

 全てが、絶妙に美味しくない。


「何かあったの? 具合でも悪い? ちょっと家事分担変わろうか?」


 用意された料理がまんべんなくおかしくなっている状況に母が家庭人として危機感を覚えていることは理解できたが、単に女の子の挙動に心乱されてあらゆる手順をミスったとは、思春期男子としてとても言えなかった。

 結局なにもかもをおかゆの具にして何とか腹に落とし込んだ夕食を終えると、行人は母にこれ以上何か言われるより前に自室へと引きこもってしまう。

 楽な部屋着に着替えてベッドに倒れ込む。風花とのトーク画面を表示したスマホを握ったまま。


「明日……十一時、駅の改札。……うう」


 誘い自体は嬉しいのだ。風花は明らかに様子がおかしかったが、ネガティブな用件でないのも間違いないだろう。

 だが、ポジティブな用件なら、じゃあ具体的にどんな用件なのだという話だ。

 少なくとも、学校の通常授業が終わるまでは何も無かったはずだ。

 結衣から男バレの全国大会に帯同できないことを知らされたときも、理不尽に対し憤慨こそしていたが、行人に対し妙な態度を取るようなことはなかった。

 泉美や湊川夕夏の反応を見れば、やはり部活中に何かあったと考えるのが妥当だが、行人が懸念しているのは、茶道部に迎えに来た時点では、泉美が妙に落ち着いていた点だ。


「……これは、客観的な分析。客観的な分析。情報を整理してるだけ。だけだから。んがああああ」


 誰もいないのに声に出して言い訳をして、その内容の恥ずかしさに唸ってから、また思考を巡らせる。

 風花は自分から距離を取っているが、あれは極めて好意的な感情の裏返しではないのかと思う。

 風花の色々な事情を知っているというアドバンテージを抜きにしても、自分は学校内の男子の誰よりも、風花と関係性が近いという自覚はある。

 告白を一度仕切り直してしまったものの、エルフの真実を知ったこの短い間に、彼女の性格の本質的な部分は真実を知る前と後で全く変わらないことも、もう理解した。


「外見で、好きになったんじゃない……」


 これは、日本人風花しか知らなかった告白で告げた事実だ。

 元々風花の人柄と性格に惹かれ、外見もそれに続くようにして好きになったのだ。

 だから。


「…………………………………………………………んぐ」


 一度辿った道だ。

 エルフの真実を知った後のそのプロセスなど、行人の中ではとっくにトレースし終えているのだ。

 もちろん、最初の衝撃は物凄かったし、人種どころか違う生き物になってしまったのではというある種の嫌悪感すらあったかもしれない。

 だが、真実を知ってからの二ヶ月。

 それまでの一年弱よりもずっと濃く、ずっと近く彼女を感じていたからこそ、行人の中で『エルフの渡辺風花の外見と出生の秘密』の心理的ハードルは、自分には知らない服の趣味をした、実家が飛行機の距離の、滅多にいない血液型、レベルのものに下がっていた。

 そしてそれらは別に自分や他人、周囲の生活に悪影響を及ぼすものではなく、はっきり言ってしまえば二人でいる間『気にしない』と改めて言わなければ頭の中に浮かんでこないレベルに、自然に受け入れられていることなのだ。

 だからこそ、行人は、期待してしまうのだ。

 何も知らないとき。告白が曲がりなりにも『成功した』あのとき。

 エルフの真実の有無に関係無く、舞い上がった自分が全く考えすらしなかった、ある可能性。


「……渡辺さんは、俺のこと……んがあああああああ」


 誰にも聞かれていなくても、声に出すことが憚られるほどに恥ずかしくて、期待に満ちて、もしかしたらとんでもない勘違いで、結果的にとんでもなく苦いものになるかもしれなくて、それでも甘い結果を期待せざるをえないこの感情。


「……渡辺さんは……俺のこと好きでOKしてくれてたのかな…………」


 声に出してからまた、行人はひとしきり唸って暴れて、結果ベッドから落ちたのだった。